第一話
この世に「運」というものがあるのだとしたら、
私は、それから見放されているのかもしれない。
自分の人生がツイていると思ったことは一度もない。
福引は当然、たかが駄菓子のクジでさえ、
当たりを引いた試しがない。
だけれど、ツイている人生を見たことはある。
そう、だから確かに「運」は存在するのだろう。
その実例は、私のすぐそばにあるのだ。
当たりクジばかりを引いている人生を歩く
「運」から愛されている人間。
世の中はズルい。
世の中は不公平。
世の中は…
「奈々未、おはよう」
不意に、背後から声をかけられ、「奈々未」と呼ばれたその女性は
驚きを隠さずに振り返った。
「あ、ああ、おはよう。
千恵美、どうしたの?
こんな時間にいるなんて、珍しいじゃない」
「そうかしら?
やめてよ、まるで私が遅刻の常習犯みたいに聞こえるじゃない」
「千恵美」は、大きくカーブしたウェーブの髪を指でなぞりながら、
不服そうな声を出した。
「文字通り、遅刻の常習犯じゃないのよ」との言葉は飲み込みながら、
奈々未は小さく肩をすくめた。
教壇から見て左側の前から2列目が奈々未の定位置だった。
いつもだったら、最後列の非常口そばに座席を構えるはずの千恵美が
奈々未の横に、しかも1時限目から完璧なメークをして出席する理由はただ一つ。
講師がイケメン、独身男性だったからだ。
藤原達海。
週に1度だけ統計学を教えに、二人の大学にやってくる非常勤講師。
日本人離れしたと言えば言い過ぎかも知れないが、
彫りの深い端正な顔立ちは、イケメンとは縁遠い講師陣を擁する大学では
間違いなく目立ったし、恋愛適齢期の女子学生たちの関心を惹きつけていた。
正確な年齢を奈々未は知らなかった。
40代だという説もあれば、まだ30前だという噂もあるということは、
恐らく、彼の年齢を正しく知る学生はいないのだと推測された。
とにかく、何歳だと言われても、そう言われればそう見えるような、
年齢不詳のオーラを彼はまとっていた。
開始5分前に、いつも通り、彼は現れた。
背筋の伸びた姿勢と比較的長い歩幅が、
颯爽とした雰囲気を醸し出す。
彼が入ってきた瞬間、「感嘆」といえばいいのだろうか、
溜息が聞こえるような気がするのが奈々未には不快だった。
この大学の中だけで見るから、そう思えるのよ。
一歩、外で見れば、大したことないって言って、
どうせ、すぐに余所見するに決まっているんだから…
奈々未は心のなかでそうつぶやきながらも、
そんなことを思っている自分に、自分で呆れた。
ジリリリリリ…
私立大学だからなのか、どこの大学でもそうなのか、
始鈴がけたたましく鳴り、授業開始を知らせた。
「みなさん、おはよう。それでは、今日はテキストの58ページから…」
完璧に準備を終えた様子で、涼しい顔で
彼は、いつものように、マイク越しに学生たちへ話しかけた。
「藤原先生の授業のある日は、お昼まであっという間だよね~」
千恵美は、奈々未と一緒にカフェテリアの陳列棚に並びながら言った。
どうやら、いつも一緒にいるユカがまだ来ていないらしい。
こうやって、ユカが居ない時だけ、くっついて来られることにも
半ば、諦めの気持ちで奈々未は受け入れていた。
「っていうか、千恵美が数学好きだなんて知らなかったわ」
「数学なんて嫌いに決まってんじゃん。
だから、あたしが言ってるのは『藤原先生の授業』。
あー、前期の半分、損したわ~
あんなイケメン先生の授業なら、最初から真面目に出てればよかった~
奈々未ったら、教えてくれないんだもん」
「なんで私が…」という言葉は飲み込んで、
「千恵美の好みなんて知らないわよ…」とだけ言って返しながら、
ほうれん草の白和えの小鉢に手を伸ばした。
「あ、奈々未、ほうれん草?
じゃ、あたし、ナスの揚げ出しにしておくね」
千恵美は全く屈託なく、そう言って、
茶色のだし汁に浸かったナスが3つ乗った皿をトレーに取った。
はぁぁ…
奈々未はまた、心の中で溜息を吐いた。
今回もまた、彼女とランチをシェアか…
分け合うのが嫌なわけでは無かったけれど、
当たり前のように奈々未の皿まで自分のメニューの一部として考える
彼女のやり方に引っ掛かりを感じるのだ。
そして、そのことを率直に言えない自分にも、
どこか諦めとも、苛立ちともつかない思いを抱いていた。
本当だったら、高校までの我慢だったはずだった。
なぜ、大学にまで彼女との関係を引きずらなければならなかったのだろう。
奈々未は、ふと、これまでの二人の歴史に思いを馳せた。