考えることを考える:黒髪少女の放課後哲学
『哲学の謎』を『無限論の教室』風味書きたかっただけです。
話が進めば、ノージックの『考えることを考える』で書きたいです。
一日の疲れを振り払うように、大きく伸びをする。それに同調して、間抜けなあくびも口から漏れていた。だが、閑散とした図書室の中、誰の気にも触れていない。そもそも人がいない。
夕焼け、黄昏、茜色にはまだ早い。物理現象のレイリー散乱が夕日を演出している。窓ガラスを透過した赤い光が木造りの方卓をその色に染めていた。木の繊維が浮かび上がってくるんじゃないかと思うほど、僕はその色に魅せられていた。気づけば見つめていたらしい。
使い古されて、くたくたになった数Ⅱの参考書を鞄にしまう。
図書室を出て、リノリウム張りの床をしとしとと歩いた。窓に映る夕日に導かれた僕は、上へ上へと階段を行く。
3階、4階、インドア派の僕にはそれなりの仕事だった。
5階、自分の息はすでに荒い。銀色のドアノブのひんやりとした感触。古びた見た目のわりに、それはスムーズに開いた。
夏の夕方。西の空で薄雲が切れていた。湿度を含んだ草の香りが微風に運ばれて、鼻をくすぐってきた。夕立を思わせる、夏特有の土の匂いではない。それは蒸された茶葉、あるいは紅茶のような上品な香り。
紅茶と屋上のミスマッチな組み合わせ。
ようやく、頭の中に疑問符が現れた。
「キミもこの夕日を? 」
鈴が鳴るような澄んだ声。ドアの真横から。
喪服みたいに黒い制服と真っ直ぐな長い黒髪がコンクリの壁にもたれかかっていた。屋上に吹く風はグラウンドのそれよりも僅かに速いのだろうか、彼女の髪がさらさらと流れる。橙に燃える夕日を映す、凛とした瞳。流しっぱなしの髪が整った輪郭をさらにシャープに飾っていた。
カチャリ、と音がした。
音がある世界にいることを思い出した。ソーサーとティーカップの接触が音源。
「こっちを見てないで、何とか言ったらどうだい」
「へ!?」間抜けな声が僕の口から出ていた。「そ、そうですね、あまりに綺麗でしたから」
正に虚を突かれたといった具合のしどろもどろな返答。まさかあなたに見とれていたと何て、ストレートに答えられるはずがない。男子高校生とはそういう生き物である。
彼女はそんな僕を気にするでなく、優雅に紅茶を口へ含ませた。酔いそうなほどの香しさがこちらにまで漂ってくる。彼女の足元には陶器のティーポットと小型の電子ジャーが座っていた。
屋上、黒髪美少女、ティーセット。彼女は一体何者だ? 学年色などという制度がこの高校には存在しないため、年齢すら不明。
再び、僕の脳内で疑問符が首を傾げた。
「地球上からいっさいの生物が死滅したとするね」
夕日を見つめたまま、彼女が言った。凛然とした声は聞き間違えという、錯誤の余地を残さない。
僕の目は点になった。
脳内の疑問符は二つに増殖。
「ちょっと、聞いてる? 」彼女がこちらへ首を向ける。「地球上からいっさいの生物が死滅したとするね」そして、少し口を斜めにしてリピート。
「い、いきなり、どういうこと」きょどりながらも答える僕。
「そのとき、それでも夕焼けはなお赤いだろうか」
彼女は赤い夕陽に顔を向けてそう訊いてきた。
禅問答系少女。そんなフレーズが僕の脳裏を過った。
「何か不気味な色に変わるとでも? 」僕は禅問答風味な返しを意識した。
「いや、見るものがいなくとも夕焼けは色をもつか、ということ」
「もちろん何か色をもつと思うよ。例えば、核戦争のあと、見られることもなく西のそらが奇妙な色に染まるとか」
「漠然とした言い方であれだけど、例えば見ることと見られた対象ないし世界ということで、どうもなんだか釈然としない気分がある。いま、西陽に照らされた雲を見ていて、以前少し考えていたことをキミと考えてみたくなったんだ。キミは見るものがいなくとも夕焼けは何か色をもつだろうと言ったね、でも、ボクはもたないと思う」
“キミと考えてみたい”、男子高校生の心を高鳴らせるにはこれだけで十分だった。
「へえ、どうして、そう思うの」平静を装って、そう訊ねてみる。僕自身、彼女が何故そう考えるのか知りたくもあった。
「もし、青と黄の系統しか感知しない生物だけが生き残ったらどうなるかな? 」
「そうしたら、ええと、夕焼けは……暗い緑に染まるのかな」
「そのとき、夕焼けの色は暗い緑だ、と」
「まあ、そうなるね」
「その生物も死滅したら」言葉尻に合わせて、ティーカップがカチャリとなった。
「そうなったら……」ここで、僕はハッと気づかされた。そして、思考をめぐらせる。「そうか、そのとき夕焼けの色も「死滅」してしまうのか。もう夕焼けは何色でもなくなる」
「色は対象そのもの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見るものとの合作とでもいうべきではないかな。だから、見るものがいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来無色であり、色とは自分の視野に現れる性質に他ならない。そう思わないかい? 」
「うーん、分かるような気もするけど、なにか釈然としないかな」
赤い夕陽を受けながら僕は30度ほど、首を傾げて見せた。
パラレルな位置に立っている彼女も、ふうむと口元に手をあてていた。
「うん、ボクもどこかすっきりしない。だけど、どこがおかしいのだろうね」
「例えば、僕が死んだって世界は色を失うわけじゃないよね」
「まあ、それは、ボクや他の人が生きているからね」
ドアが立てつけられた壁にもたれかかり、僕たちは考える。コンクリのひんやりとした感触が夕暮れの中途半端な暑さを中和していた。夕日は刻々と色を変えてゆくが、茜色にはまだ早い。隣の彼女は一度紅茶のおかわりをしていた。美味しそうに飲む彼女を見て、少しの喉の渇きを僕は覚えていた。でも、口には出さない。それが男子高校生という生き物の性である。
「……やっぱりよく分からないな。あのさ、あなたは自分が死ぬことによって何が終わるんだと思う? 」
あなたという二人称は名前を知らない故だった。適当なものが頭に浮かばなかったので、他人行儀なこれで仕方なく済ませたのだ。
「少なくとも世界が終わるわけではないね。でも、確かに何かが終わる。ときには、自分が死ぬと一切が無に帰すような感じさえ抱く」
「そう、そんな感じ。でもさ、世界のほとんどは無傷のままあり続けるんだよね。これが何か妙な気分にさせるのかな」
僕がそう答えると、彼女は楽しげに目をほそめた。紅茶の香りがうっとりとさせたのかもしれない。
「実在の世界はあり続けるけど、ひとつの意識の世界が終わるとは言えないかな」
「意識の世界? 」僕は単純にオウム返しをした。
「死は、身体の物質的組織の変化であると同時に、いま感じてるこの温かさ、この明るさ、これらの物音の意識、そしてもろもろの記憶の喪失に他ならない。世界そのものは終わらないけれど、ボクが五感で受け取っているこの意識の世界は消失する」
「うーん、何かしっくりこないな。何だろう」
「何かな」彼女はそうこぼしてから、紅茶をちびりと口に含ませた。
頭を捻って少しの思考実験。考えがまとまったような、あやふやのような、話しながらまとめようと取り決めて、僕は口を開く。
「あのさ、申し訳ない想像なんだけど、世界に生き残った生物は僕とあなただけだったとするよ。まあ、追々絶滅だろうけれど」
「…………繁殖行動はしないけど、そうなったら、紅茶くらいはキミに恵んであげよう」
「じゃあ、僕は自慢のコーヒーを。まあ、それは置いといて、そのとき、僕の意識の世界とあなたの意識の世界と実在の世界の三つの世界があることになるのかな」
「そうなるだろうね」彼女は首を縦にふった。長髪がそれに追従する。僕はそれを目で追った。
「それがなんとなくうさんくさいんだよね。あなたと僕は同じ実在の世界に住みながら、と同時に異なる意識の世界に住んでいる」
「しかし、実際、ボクと他の人々の見ている世界、感じている世界は異なっている。ボクの見ているものをキミは異なるアングルから見ている。ボクがそれほど暑くないと感じているのに、キミは暑がりで、暑い暑いと連呼する。これも生活の実感じゃないかな」
「まあ、それはそうなんだろうけど」
どうして、彼女は僕が暑がりだということが分かったのか、不思議であったが、深くは考えなかった。今はそんな些細なことに、思考のリソースを割く余裕はない。
頭の中に、ピンと概念が出来上がりそうだが、どうにも上手くまとまらない。夕日を見据えながら考えていると、カチャリと音がした。
そして、彼女はティーカップを僕のほうに伸ばした。中身は空。
「別の語り方をすればこうかな。ここに一個のコーヒーカップがある。ここから光が反射して、それぞれの目にとどき、それぞれの視神経を通じて脳を刺激し、その結果、異なったコーヒーカップの像が見える。つまり、同じものから異なる刺激が与えられ、異なった処理をされて、その結果異なった意識が生じる」
「なるほどなのかな、その「同じ物」っていうのが、実在の世界にあって、結果として異なった意識の世界が人数分だけあるというわけかな」
「そういうこと」
そうとだけ残し、彼女は夕日に一瞥を加えた。そのまま、カチャカチャと音をたてながら、ティーセットを木造りのバスケットへ収納する。手馴れた手つきでそれは行われ、ものの三十秒で荷造りが終わった。
「ああ、そうだ」しゃがんでいた彼女は見上げるように僕を見た。「伝え忘れていた、この続きは明日だから。放課後、部室に来るように」
「ええと、場所は」咄嗟に返事をしてしまった。
「自然棟の3階。物理実験室の左隣。……コーヒー期待しているから」
ふわりと黒髪が舞った。宙にその軌跡と紅茶の香りを残し、彼女は去っていった。
茜色に染まる空の下で、「実在の世界はどこにあるのか」、僕はそんなことを考えていた。