癒しの力と救いの本分
久しぶりに地面に足をつけると、心底落ち着いた。やはり人間は地の上でしか生きられないのだと西城は思った。
ここからボロトラックの荷台に乗って2時間程移動したところにカイマール陸軍城砦基地はある。
カイマール島。我が国よりも遥かに南に位置する小さな島であり、数年前までは敵国植民地であった。現在は我が国の植民地であり、島の中心都市であるタレスチには鉄壁の要塞が築かれたと陸軍内ではもっぱらの噂。そここそ、これから私が向かう地である。
一年中気温は高いものの、湿気がなくからっとしているので冷静に見ればそれ程嫌な気候ではない。荷物の積み降ろしの間暇を持て余した私は、じっとしているのも何だかもどかしくて、ついこんな申し出をしてしまった。
「あの、港町の方を散策に参りたいのですが。」
「構いませんがあんまり遠くに行かんで下さいよ。」
上官は呆れ顔で応じた。
普通の兵士なら叱られるのかもしれないが、医師である私には皆何故だか寛容である。やはりそれは医師だからなのか。
「心得ています。」
慌ててそう返し、町の方へ行こうとする私を呼び止め、上官は同じく暇そうにしていた先程の少尉を呼び付けて護衛にとつけてくれた。優しい図らいである。ついでに「お気をつけて」と加えた上官は微笑んでいた。
「なんでまた町の方へ?」
隣を歩きながら少尉は不思議そうに尋ねた。
「それは、えーと、この土地がどんな所か知っておきたいから。」
「…今考えました?」
「あなたはなかなか鋭くて困ります。」
無論、本当の答えはただの好奇心。苦笑して答えると、何故だか少尉は少し微笑んだ。
「軍医殿は、変わっているけれど、どこか特別な力をお持ちですね。」
「変わり者?聞き捨てならない言葉だ。」
「あっはっは、反応するのはそこですか。」
「なんだかあなたにはやられっぱなしです。」
少尉は依然微笑を浮かべたまま口を開いた。
「『軍医殿には、人を癒す力がある。』単純に傷病もありますが、何より軍医殿といると心が安まるのだと、乗船していた兵士の間ではちょっとした噂ですよ。」
「へ?あ、え、それは、それは良いこと…だ。」
突然褒められたことに、異様に動揺してしまう。
「やっぱり可愛いからですかね。」
「は?」
「小柄だし、面立ちも…」
「それを言われると…。」
赤面して制止する。168cmある身の丈は一般的に見ればそれ程低くはないと思うのだが、如何せん軍隊の屈強な大男達に囲まれていると常に見上げてなくてはいけなくなる。加えて私は童顔らしい。コンプレックスのそれをさらりと言われるとこっちはもうどうしようもない。
まぁ、この見た目のおかげで皆を癒せていると言うのなら、その位のコンプレックスは我慢しようというものだ。
「いやぁ、褒めてるんですよ。素晴らしい才能じゃありませんか。ご存知ないかもしれませんが、軍医殿と話すと、みんなの表情が知らず知らず笑顔に変わっているんですよ。」
人を笑顔にできるーーそれは素直に嬉しい。私もまた、皆の笑顔に癒され、生かされているのだなどと、恥ずかしくて口が裂けても言えない。
港から程近い一帯は、国軍の人間もよく利用しているためか、現地の人間も異種の人間に馴染み深いようだ。時折民家からこそっと私達の方を見ている異人はいるが、別段敵意は感じられない。国軍の植民地支配に対抗しようとしている勢力もでき始めたと聞くが、まだこの辺りは安全なようだ。
それにしても貧しい国だ、と思った。民家の造りは粗末で、衛生的にもキレイとは到底言えない。内地のスラムを思い出すような風体である。
ふと、路端の子供に目がいった。路端で物乞い生活している人間はちらほら見かけるが、その子は様子が少し違う。深く考える前に動き出していた。
「軍医殿!」
子供に近付く私を少尉は止めようとしたが、私はつい声をかけていた。
「どこか痛むのか。」
少年は茶色い瞳でじっとこちらに視線を向けた。こちらの言葉は通じていないようだ。気力のない目、細い手足。明らかな栄養失調である。
懐に緊急用に入れている食糧がある。干し野菜やナッツだが、栄養価は高い。食糧の入った小袋を取り出し、それを少年に握らせる。少年は不思議そうな警戒するような顔をしたままだったが、少尉に目で促し、私達はその場を離れた。
「良いのですかあんな…」
「構わない。あんな小袋一銭にも…」
「そういう問題では…」
「ならどういう問題だ。」
つい、語気を強めてしまったので、口を噤んだ少尉にすぐに謝る。
「申し訳ない。だがあの少年を生かすも殺すも戦局には関係ない筈です。いいでしょう、生かしたい命が必ず助けられる訳じゃないのだから。」
少尉は黙ったまま静かに肯いた。
“死にたくない…先生…”
耳元に声が蘇る。視線を下に落としたまま、情けなくて微笑んでしまう。
「戻りましょう。」
少尉が静かに提言した。私は無言で従った。
“ならどういう問題だ!”
西城軍医の言葉は非常な切実さを持って、私の胸に突き刺さった。
私は軍人である。それも少尉官、つまりは将校である。将校は無論、軍人の模範たるべき者である。
西城軍医の行為は、軍人としては決して正しいとは言えない。だが、この方は軍人である前に、将校である前に、医師なのだと。確かに思い知らされた一言であった。それだけではない。軍人もまた、兵士である前に、一人の人間なのだ。
命というものを前にした時、肩書きも建前も関係ないのだ。たとえそれが、生温くても、矛盾していても、それが救いの手の届くところにあるならば、この人は決して諦めないだろう。それこそが医師の本分である。
軍人には救えない命がある。だが、軍人と医師の板挟みになるとしても、軍医になら救える命があるのだ。
隣を歩く細い身体には、あまりある重みだ。それを背負って、この方は生きているし、生きていく。
しかし私は、気付いてしまう。いつまでもそんな綺麗事が通用するはずはない。その時、この方の盾になるものはあるのか?この哀れな軍医を救える人間が、どこかにいるのか?
軍医は、誰が救うのだろう。
港に戻って軽食をとり、それからボロトラックの荷台にぎゅう詰めになって乗らされ、尻の痛みに耐えて2時間程ーー。髪も服もすっかり土埃だらけになった頃、トラックは停まった。
西城は、思わず息を呑んだ。目の前に聳え立つのは、それはそれは頑丈そうな鉄扉の門であった。開錠と共に、それを知らせる鐘の音が快く鳴り響いた。
後に激戦地として名が残る、土と埃の砦ーーカイマール陸軍城砦基地、初日である。




