異国の地へ
背筋をまっすぐ伸ばした一人の男が、寝室の扉を勢いよく開いた。
軍服をまとい、軍帽を目深にかぶった姿は凛々しい将校である。
彼は乱雑に布をつっただけのハンモック、そこには大抵いびきをたてながら男達が眠っているのだが、それを掻き分けるようにして奥に進み、目的の人物を見つけた。
その男は腰掛けくらいにはなるであろう艦艇内の突起に器用に横たわり、毛布を頭の上までかぶっている。
その毛布をひっぺがすようにしてやや乱暴に起こすものである。
「西城軍医!西城軍医少佐殿!」
少尉のなんとも無粋な起こし方に、西城は呻くようにして身を起こした。
「…なんでしょう?」
起きて、ああまだ船の上か、と西城は自分の居場所を確認した。ここは国軍の輸送艦の中である。
「荷の綱が切れて、3等兵が1人怪我をしたもので、西城軍医の診察をお願いするものであります。」
「荷物の綱が切れるなんて!その負傷兵は…」
「いえ、大事には至っておりませんが、念のためにと。」
「あ、そうか、それなら良い…。」
西城はほっと一息つき、立ち上がって、白衣代わりの生成りの羽織に腕を通した。
医大を卒業してそのまま軍医学校に進み、実地訓練と戦地での軍役に従事して数年、弱冠27で軍医少佐となった彼は、この輸送艦で今新たな地へと向かっている。
診察を終えて甲板に出ると、青い空に青い海が広がり、太陽がキラキラと眩しい。
「いやぁ、暑くなってきましたね。」
船の縁に腕を乗せて美しい青を見る西城の隣に、先程の少尉がやって来て言った。
「全くです。この気候では軍服など着ていられません。」
「そう言う軍医殿は、この暑い中でなぜその羽織をお召しなのですか。」
目的地に向かって南下するに連れ、どんどん気温があがっていく。海の上で強い風があるとはいえ、日差しの強さは数倍である。
少尉が不思議そうに尋ねたのに対し、西城は鷹揚に応じた。
「私はいいのです。あなた方と違って炎天下の下で汗を流すことも殆どないのだ。重労働をなさる人のみぞ暑がる権利があろうというもの。だからあなた方は存分に暑がっていればそれで宜しい。」
ぽかんとした顔で、理屈をこねくり回す軍医の横顔を眺めていた少尉は、うっかり吹き出した。
「あっはっは、全く軍医殿は変わり者ですね。」
豪快に笑う少尉に、西城は少しむっとして言った。
「…あなたはもう少し上官に向かっての言葉を選ぶと尚宜しい。」
「軍医殿にだけですよ。」
笑いながら去り際さらりと言ってのける少尉に、西城は切り返しようがなかった。
潮風が心地よく吹き抜け、肌を撫でていく。物資の荷ほどきを始める兵士達の声が活気をもたらし、明るい雰囲気を与えている。
船の前方遠く、小さな黒い塊が見える。目視できるほどに近付いている。
待ちに待った陸地は間もなくだ。
実は西城は船があまり得意な方ではない。なので陸にあがれると思うだけで気持ちが明るくなる。
これから待つ苦難など、まるで予想もさせないような、そんな清々しい風景であった。
我が国は、かつては東洋の鮫と呼ばれたほどに海戦では無類の強さを誇った。それは島国という地形上の特性から必然に築かれた力である。しかし一方で、国土が狭く広い平地が少ないこともあり、陸戦ではなかなかに手こずってきた歴史がある。そんな陸軍も軍事国家としてますます鍛えられた国力に合わせてか、ここ50年程で急成長を遂げ、他国と優に張り合えるまでになった。今もこうして続いているこの戦争でも、海軍と協力して幾つもの植民地を得るなど華々しく活躍してきた。その為の代償もまた、天を衝く程に、莫大に嵩んだのであるが…。
新天地だからどうと言ったことはない。結局、私のやるべき事は、感じる事は、どこへ行っても変わらないのだから。
変わったといえば、ギラギラと照りつける日差しが鬱陶しく感じる事くらいだ。これには当分慣れる気がしない。
ふと遥か、進路と逆方向へ目を遣ると、そこにはただ恐ろしい程に碧い海が広がっているばかりだった。
「遠いものだな。」
水平線の更なる彼方に、祖国への想いを馳せる。自分の生まれた地が遠ざかっていくというのはかくも寂しいものだったか。…いや、私は、こんな所でそんな陳腐な情に浸っている場合ではないのだ。
なぜなら…今から行く場所は、この国の最後の砦、この要塞を守る為ならば兵士は喜んでこの地を墓場に選ぶだろう。“最終防衛ライン”の7字が命名されたこの地は、どれ程の犠牲を出そうとも奪われる事は許されない。この地を落とされるのは即ち内地の国民の命を失うのと等しい。現在の敵国戦闘機の性能からして、ギリギリ内地への空爆が可能となる地であるからだ。
分かっている。守り抜くのだ、何を犠牲にしてでもーー。
…だが、軍医である私は、一体何を救えばいい。犠牲になる命を救い、犠牲を出す。何を救い、何に心を救われればいい。
異動が決まってからぐるぐると考えてきた。だが考える程に闇にはまっていくようで、私は考える事をやめてしまった。軍医になった時から、こんな事は宿命であった筈なのに、いざその場に立たされると怖じ気づく。
答えは出ない。それでも、私が平気でいられるのは、こんな暗鬱とした思考に捉われた時に、必ず思い出すからだ。美しき少年時代の、あの夢のような幻のような約束をーー。
今も目を閉じれば思い出す。青空の下、風にそよぐ栗色の髪。今どこにいるのかなど、つゆも知らない。




