第1章 #3
エプロンを部屋にあるクローゼット内に掛けておいて、リーゼたちは聖堂横にある図書室に向かうことにした。このエプロンは明日洗うという。館の人間から出る洗濯物は、何でも修道女と一緒にリーゼたちが洗濯することになるらしい。
「使用人のわりには、いろいろとやってもらっていないか?」
「一応は私たちも退魔師たちなのよ。その中で下っ端だからいろいろやらされるってだけ。ちなみに部屋の掃除は部屋の持ち主が自分でやるのよ」
そう言うとカノンはリーゼを聖堂にある図書室に連れて行った。
そこには予想した程度の蔵書があった。リーゼは適当にあった魔術の本を取り出した。リーゼは一応、魔術師としても館にいるのだ。学んでいたほうがいいだろうと思ったのだ。しかし、並んでいる魔方陣の図形や文字を追っても、さっぱり何のことだかは分からなかった。リーゼが徒にページをめくっていると、カノンが傍に寄ってきた。
「やっぱり、魔術は本を読むより、実際にやったほうがわかりやすいよね」
「なら、どうして其方はこんな本を読んでいるのだ?」
「分かるからよ。ずっとやっていたから。こう見えても魔術には自信があるのよ」
そう言うとカノンは棚から別の本をとって席に座った。
仕方なくリーゼはハイベルク帝国の詩歌が載っている本を別の棚から取って、カノンの向かい側にある席をとった。今図書室にはリーゼとカノン、それと助祭二人しかいなかった。
「ベルはどうしたのだ?」
「彼は聖剣術の鍛錬よ。いつもベルは早く退魔師として戦いたいって言っているものね……」
聖剣術というのは、闇の者達に対抗するもので、魔術が使えない退魔師がこれを使うらしい。その時使う剣は、悪魔と先陣を切って戦った熾天使ミカエルの爪からできているとかいないとか。
リーゼは手元に置いた詩歌の本を開いた。最初のほうにあるページに書かれていたのは、誰でも一度は聞いたことのある、天への賛美詩だった。リーゼは王宮にいた時にそれらを暗唱させられたのだ。そのページを飛ばして、リーゼは途中の所から読み始めた。
リーゼの目に入ってきたのは、ある天使についての詩だった。
「名無しの天使――」
それだけで何を指しているか分かる。
教典の五巻までには、最上位の天使である熾天使が三体登場する。失われた第六巻を飛ばし、第七巻を見ると、次の記述があるのだ。
「大いなる闇を鎮めし四体の熾天使たちの、体は地に還り、魂は大いなるものの下に還った」
そのほかにも、熾天使は四体いるという記述が七巻目にはある。第六巻が欠番となっていることは、第五と第七の他の記述を見ても明らかだった。
そこから導き出されたのは、第六巻にて四番目の天使が登場する、と言う結論だった。
その四番目は、“失われた正典”の熾天使だから、“ロスト・カノンの熾天使”、と呼ばれている。
第七巻では少しだけ登場するが、“四番目の天使”として他の天使と一緒に扱われているため、結局名前は出てこない。だから、“名無しの天使”とも呼ばれるのだ。おかげで外典では、勝手に名前をつけられる始末である。もちろんそれらは正式な名前ではない。
勝手に名前をつけられるとは、哀しいことだ――と詩は詠っていた。
しばらく本を眺めていると、二人を見つけたらしいアーベル司祭に声を掛けられた。
「リーゼさん、どうですか、ここの司教座は?使用人よりかなり良い生活ができるでしょう?」
「むしろ暇なくらいです。これだと怠惰と言われそうですね」
「まだ貴女は、“ミカエルの徒”としては見習いですからね。“ミカエルの徒”として夜が好きな悪魔と戦うようになると、すぐに忙しくなりますよ。冬は夜が長いですしね。だから夏は少しだけ楽なんですよ」
そういえばアルザスが襲ってきたときも夜だった、と思い返した。
「そうだリーゼさん。あなたにも一応“法術”の教えを施しましょう」
「“法術”?」
リーゼが問い直すと、魔術の本を読んで何か書いていたカノンが顔を上げた。
「要するに闇の者を倒すための魔術よ、リーゼ」
「そう、そうです。一応“ミカエルの徒”である貴女が術を知らないということはありえないので……、ああ、今日は少し忙しいので、明日あたりでいいですか?」
「もちろん」リーゼは頷いた。
アーベルはそれを確認して、図書室の自分の求めるところへといってしまった。カノンはその背中を目で追いかけていた。
「カノン、法術とは、いったいどういうことをするのだ?」
カノンはリーゼを振り向き、右の人差し指を立てその場でくるくると回した。小さな魔方陣を描くような動作だった
「簡単よ、魔術とあんまり変わらないもの」
その魔術がリーゼは上手く使えないのだ。すこしうんざりして覚えてリーゼはため息をついた。剣にいたってはいうまでもないだろう。しかし、ここで“ミカエルの徒”となったからには職務をこなす他はないのだ。
西の空が少しばかり赤く染まったころに、リーゼとカノンは図書室を出た。夜に悪魔を狩りに行く“ミカエルの徒”の支度を手伝わなければならない。その時刻までにはまだ結構な余裕があったのだが、早くから行っていた方がいい、とカノンが言うのでリーゼも早々に館へ戻った。
単純に言うと、いつものパンにちょっとてを加えただけのような夜食を作ってやり――これはリーゼたちが作るのだが――、“ミカエルの徒”たちの身支度を手伝う。そして彼らを見送るのだ。
「本当にうんざりするよ」そうリーゼに言ったのは剣を携えた退魔師の男だった。名をハンスと言う。
「帰ってくるのは、本当に丑三つ時……ひどい時にはもう朝さ。君たちの仕事は本当に楽だよ。まあこっちのほうがやりがいがあるけどさ。」
リーゼはハンスに、彼のものである冬の寒さに対抗するための厚手のコートを手渡した。
「寒いので気をつけてください」
「はいよ」
準備ができた者から外に集まって、出発した。リーゼはそれを見送った。彼らが赴くのは、主に街の外――町の結界の範囲外――である。結界が張ってあっても、能力が強い奴は町まで入ってくる。それらも倒さなければならない。実はこれは毎夜やる、と言うことはなく、目撃報告を受けたら行うらしい。
そして、退魔師として出動した彼らを見送ったリーゼたちに命じられたのは、就寝、待機だった。
かくしてリーゼは、最初にフローリスに紹介された部屋にカノンと共に戻ることとなった。
部屋に辿り着いてからリーゼが気がついたのは、自分は寝衣を持っていないということだった。このまま寝るのだろうかと思ったが、カノンは着替えていた。そこでカノンに持っていない件を話すと、どこかからリーゼにあったものを探してくれた。カノンにお礼を言って、ありがたくそれに着替えた。
「すまないな、カノン。今日はいろいろとやってもらってばかりだ」
「気にしないで。リーゼは今日ここに来たばかりなんだから」
カノンは椅子に座ると、机にあった本を読み始めた。やはり魔術の本のようだ。
「すぐ寝ないと怒られるのではないか?」
「大丈夫よ。少しだけなら。……ねぇリーゼ、あなたがいたのってどんなところだったの?帝都から来たって聞いたけど」
リーゼはカノンから目を逸らして、適当な嘘を思い浮かべた。
「普通に大きな邸だった。……でも、そこの主人に嫌われてしまって、それでも使用人は続けたけれど、結局追い出されてしまった。その後行くあても何もなかった……。本当にここで引き受けてもらって良かった」
最後の方だけ、リーゼはカノンの顔を見た。カノンはきょとんとした顔でリーゼを見ていた。
「どうしたのだ、カノン?」
「いいえ……、リーゼみたいな人を追い出すなんて、ひどいご主人ね」
「仕方ない……。私は、実際、使用人として拙いところが多かったから……。それに、他の使用人ともあまり上手く付き合えなかったんだ」
リーゼはいつの間にか王妃と周りにいた貴族の顔を思い出しながら話していた。それと、妹も。
「でも、邸の令嬢は優しかった」
カノンは、ふうん、と言って頷き、本に描かれている魔方陣の図形を手元の紙に書き写し始めた。白紙に円を一つだけ大きく描いた。そこでカノンは手を止めた。
「どんな人だったの?そのお嬢様は」
「……いろいろと気を利かせてくれる人だった。ブロンドの髪に、グレーの瞳――」
そこまで言って、リーゼは自分が少しだけ失敗をしたことに気付いた。カノンがそれに気付いて聞いてこなければいい、と思ったが、カノンは即座に気付いてしまった。
「リーゼと同じ色ね」
うっかりアーデルハイトの特徴をそのまま言ってしまった。同じ父親譲りの、シルバー・グレイの明るい瞳。それがリーゼとアーデルハイトの姉妹の証だった。
「あの人と上手くやっていけたのは、この瞳のおかげかもしれないのだな」
カノンは、ふふ、と笑って魔方陣の残りの図形を一気に書き写した。
「カノンはいつからここにいるのだ?」
「六歳ごろからよ。ここに引き取られて育てられたのよ」
リーゼは軽くつつくつもりで、聞かないでいた質問をカノンにぶつけた。
「どうしてカノンはここに引き取られたのだ?」
カノンは本を閉じて、少し俯いて口を開いた
「……九年前の、戦争よ。そこで一人だったところを、フローリスに助けられたらしいの。……わたしは、この聖堂に来るまでのことを、覚えていないの。自分の家も、お母さんの顔も」
九年前、ミスラと戦争をした国があった。国の名はバーゼル王国。帝国とも境を接する小国だった。
そこには魔術と関係が深い鉱脈があったのだが、ミスラはそれを狙って侵攻した、らしい。リーゼはそう聞かされているだけだ。ともかく、小国が滅びる運命は変えようがなく、最終的にミスラはバーゼルの地を奪うことに成功した。帝国に先を越されることを心配したのかもしれない。
カノンはその戦争で、いわゆる戦争孤児となったのだ。ミスラの仕掛けた戦争――リーゼの胸が思い切り締め付けられた。そして彼女の辛い話を聞き出すべきではなかった、という後悔がこみ上げてきた。
カノンはリーゼの表情を後者のものと――最もそれ以外は判断しようがないのだが――思って、「あ、気にしなくていいよ」と言ってみせた。
「だって何も覚えていないんだもの。この話はフローリスに聞かされたのよ。……もしかしたら嘘かも知れないわね」
それでもリーゼは、両方の意味を込めて、すまないことをした、と謝った。
「だから、気にしてないわ。……リーゼは心配性ね。……もう寝なくちゃ」
「そうだな。私も眠ろう」
二人はほぼ同時にベッドに入った。カノンが先に寝てしまっていた。リーゼもしばらく天井を眺めているうち、眠気が襲ってきた。そして、リーゼの意識が夢の中へ飛んでいく寸前、カノンが寝言で何か言っているような気がした。それを理解する間もなく、リーゼは目を閉じた。