第1章 #2
目の前にいる少女が祈りを捧げ終えたのを見計らって、リーゼは背中からその少女に声を掛けた。少女は体ごと振り返ってリーゼを見た。
「ええと……、何か?」
「うん、朝もここで其方を見かけたから……」
少女は後ろめたそうな顔をリーゼに見せた。
「ごめんなさい、わたし、覚えていなくて」
「仕方ない、一瞬だったからな……。それなら今覚えてもらうか。私はリーゼ、リーゼ・ジオニア。歳は十五だ」
少女は少し恥ずかしげに自らの名を伝えた。
「……カノン・ガルタ。わたしも十五歳よ」
聖典・ガルタ?冗談で言っているのか、とリーゼは思ってしまった。それを表情から読み取ったらしい少女は諦めたような顔をした。
「初めて名前を聞く時は、わたしがふざけている、ってみんな言うのよ。言わなくてもそう思ってる」
どうやら本当に、カノンと言うのが名前らしい。カノンは一度、手でそのプラチナブロンドの髪を梳いた。
深い海のごとき碧さを宿した目は、リーゼからしばしば目線を外してどこかに目を遣る。少し恥ずかしがっているのかもしれない。白い肌で覆われた顔が、頬の辺りだけ少し桃色に染められている。そしてリーゼより少し背が低い。それと顔立ちが手伝って、十五のわりには幼く見える。
「リーゼ、そのエプロンは……?」
カノンの細い指先が、リーゼの着けていた薄汚れているエプロンを指していた。このエプロンは、さっきフローリスがへやから無断で拝借してきたものだ。
「ああ、これは借り物なんだ。……まあ、かってに借りたみたいだったのだけど……」
「もしかして、館のところで?」
「うん……確かにそうだが、どうして分かった?カノン?」
「だってそのエプロンは、わたしのだもの……。ほら、そこ、名前が入っているでしょ」
リーゼは即座に裾のところを見た。確かにカノンの言うとおり、刺繍でカノンの名前が入っていた。
このエプロンが彼女のものだ、ということは、カノンが退魔師の館で同じ部屋に住むべき人だ、と言うことだ。つまり、彼女も退魔師の構成員であるのだ。
「じゃあつまり……、そうか。……私は今日から、館の其方と同じ部屋に住んで、働くことになったのだ。よろしく、カノン」
「本当に?嬉しいわ。これで夜も寂しくないわ。……よろしく、リーゼ」
カノンは微笑んで、リーゼの右手を両の手で握り締めた。
挨拶を交わすと、リーゼはまずエプロンをカノンに返そうかと思った。しかしリーゼが脱ごうとすると、
「いいよ、リーゼが着ていて。代えがあるもの」と言われた。そういえばフローリスも予備があるといっていた気がする。
「そういえばカノン、お使いは終わったのか?」
「うん、意外と時間がかかったけどね」
館のほうに戻ろう、ということになって、リーゼとカノンは聖堂の外に出た。日の光もちょうどいい温かみを帯びてきていた頃だが、空気は冷たいままだ。さっさと歩いて館に向かった。
扉を開けて入ると、ベルがそこの柱に寄りかかって休んでいた。リーゼたちを見つけたベルは、驚いて二人を交互に見た。
「あれ?君たち……、どうして?」
カノンは笑って答えた。
「たまたまそこで一緒になったのよ。……なあんだ、もうリーゼと会ってたんだ」
「カノンのお使いが遅いんだよ。まったく、今日リーゼが来なかったら、僕がここを全部掃除することになっていたんたぞ」
ベルはため息をついて言った。それに対してカノンは、「ああ、ごめんなさい」と返した。
「今までずっと二人で掃除していたのか?」
「ううん、少し前まではもう一人女の子がいたの。だけどその子は今、どこかで使用人をやっているのよ」
カノンの答えに、ベルがにやりとした顔で、「つまり君と逆だね、リーゼ」と付け足した。
カノンが不思議に思ってベルに聞き返すと、仕事ができなくて主人に追い出されたんだってさ、と説明した。それは事実ではないのだから、リーゼがベルに腹を立てたところで何も罪なことはないだろう。「失礼な、そんなことはない」とリーゼは強く言い返した。二人のやり取りを見ていたカノンが、くすりと笑った。
「事情があって、自分から逃げてきたのだ……。そういえば、ベルはどうしてこの館に入ったのだ?」
ベルは遠い目をして口を開いた。
「僕は純粋に、退魔師になるのにここに来たんだ。ずっと見習いのままだけどね」
まあ月並みな理由に、リーゼは二回頷いて応えるだけに留めて、隣で二人を見ていたカノンに聞いた。
「カノンは?」
「フローリスに連れてこられたのよ。少し事情があってね……」
こういう場合の「事情」は、あまり聞かないほうがいいことだ。リーゼはそれ以上聞かないでいて置いた。
その後すぐに、リーゼ達は昼食の準備に駆り出された。食事そのものをカノンやベルが作るわけではないが、食器を出したり、洗ったり片付けたりするのが仕事になっているという。そのものはというと、ここのを作るためだけに教会堂から修道女が来るのだという。
食堂にある長テーブルは、二列ある。リーゼたちはその端、できるだけ入り口から遠いところを陣取って食事をとることにした。最後にカノンがリーゼの隣に座ると、ちょうどそれがフローリスに見つかった。
「あら、カノン、あなたいつの間に戻ってきたの?」
「さっきよ」
「あらそう。まったく、せっかくリーゼの紹介でもしようかと思っていたのに、もう顔を合わせていたのね。……ちゃんとお使いはしてくれたの?」
「はい。でも歩いたから、少し足が重いわ」
カノンのお使いというのは、どうやらトヴァリにある、この大聖堂から中小の教会への書状を届ける仕事だったらしい。それで午前中カノンは外を歩き回っていたという。
「まったく大げさね。ちょっとそこまででしょうに」
フローリスは肩をすくめてリーゼたちの前から立ち去った。その後何人かが、新入りであるリーゼについて各々の言葉を述べては別の席に落ち着いた。それらがひと段落すると、恵みへの感謝の言葉を唱和し昼食を口に運ぶ時間となる。
今日は休日だからだろうか、食事時の食堂には、およそ全てのこの館に住まう退魔師が集っている。その顔ぶれを見るに、女性がフローリスのほかに二、三人。そのた十余名が男だ。
リーゼが無心にパンを口に入れていると、近くの男が声をかけてきた。
「お譲ちゃん、新入りかい?なんて名前だ?」
リーゼは素直に自分の名を伝えた。男がリーゼを横目で見ていると、テーブルの向かい側にいたベルがふと笑った。
「エカルトさん。だめですよ、もういい年なんだから」
「いや、俺にも娘がいたらこの位かな、と思っただけだ。手を出したりしないさ」
カノンは白けて二人の会話を聞いていた。確かに気分のいい話ではない。少なくとも、手を出される出されないという話の対象でいる間は。エカルトという男の、王室の人間に比べればだが、品のない食べ方も、少し気に障ったのかもしれない。
気分を変えるべくリーゼはカノンの方を見た。思いのほか、いや、リーゼの理想に近いやり方の範囲で食事と、一緒に出された紅茶を口に運んでいた。おかげで少し身が洗われた気分になった。
「カノン……。午後は何をすればいいのだ?またお掃除か?」
カノンは口の中のものをしっかりと飲み込んでから唇を開いた。
「……、午後?今日はお勉強よ。聖堂にある図書室でやるのよ」
リーゼは頷いてから、パンを再び口に入れる。このパンだが、ミスラの王宮で食べていたものとは結構違う。不味いというのではなく、口当たりが違う気がする。そしてそれはリーゼの口には合った。そういえば帝国の小麦はミスラのそれより良質だと言われていたな、とリーゼは思い出した。そしてそれを侍従ユリベートに聞いたのも思い出した。「土が違うのかもしれません」と彼は言っていた。
それはいいけど、とリーゼはパンを胃に入れてから言った。「何を勉強するのだ?」
「何でもいいのよ。図書室の本は戻せばいくらでも読んでいいんだから。私はほとんど魔術の本ね。あと魔術に必要な数学」
「へえ……。でも魔術の本は難しくて、あまり理解できなかったな。それに私は魔術は少し苦手、というか上手く使えない」
「じゃあ一緒にやりましょう。……だから早くお片づけも終わらせないとね」
食器を洗うのは、思ったより大変だった。何より問題だったのは、数と水の冷たさとの掛け算だった。この水は外から汲んできたものを使うのだが、指がじんじん冷えてとても痛い。これを毎日やると思うと少し嫌になったが、カノンやベルを見ていると、まったく平気にやっている。自分が慣れていないだけだろうか。これまで皿洗いなど召使いがやることだったのだ。慣れないのは仕方がない。
とはいえリーゼも、終わる頃には大分手が慣れてしまった。おかげで、普通に三人で洗ったように時間が短縮されたようだ。カノンが、三人だとやっぱり早いよね、と言うとベルも「うん、そうだね」と頷いて返した。