プロローグ #5
魔法の隠し通路は、行き止まりの小部屋で終点を迎えた。この部屋は白い漆喰が塗られていた。ここにも出口の扉らしきものは見当たらないが、また呪文で開くのだろうと予測はついた。しかし、今度は少し違った。
「姫様、こちらに……」
ユリベートは小部屋の入り口に立っていたリーゼを部屋の中央へ招いた。彼のすぐ隣に立つようにして小部屋の真ん中に立った。
リーゼが所定の位置に来たことを確認したらしいユリベートは、中空に手をかざして二人の足元に魔方陣を展開した。それに反応して、天井から違う魔法陣が降りてきた。それは頭からリーゼたちをすり抜けていき、足元にあるユリベートの魔方陣に接するかしないか、というところで消えてしまった。それと同時に、正面の白い壁が光の抜け道への口を開けた。
「私たち二人の通行が許可されたようです」
どうやらユリベートが描いた魔方陣はこれまで同様に扉の鍵であり、天井から降りてきた方はどんな人間が通るのか調べるものだったようだ。
リーゼはユリベートに促され、正面の壁に開いた光の扉をくぐった。
リーゼは一瞬、自らの体が浮くような感覚がした。しかしすぐに足が地に着いた。その時にはすでに光の扉を抜けていた。どうやら室内のようだが、外から冬の風が入り込んでいるのか、とても寒かった。
リーゼはそこがどこであるのか把握するのに、少しの時間を要した。
崩れた壁に、こちらも崩れそうなリヴ・ヴォールトの高い天井。これらと塵が積もった床、それらに囲まれた空間。扉の無くなった入り口と、隙間の部分から月光が差し込んでいる――そこは旧王室礼拝堂だった。この旧王室礼拝堂は、老朽化と新王室礼拝堂の建築によって、かなり前に取り壊しが決まっていた。だが、今旧礼拝堂はこうして残っていた。
この旧礼拝堂の立地は、王宮からは少し距離がある、という不便なものだった。これも現礼拝堂を建てる理由だったのかもしれない。
なるほど、王宮から離れているという事は、逃げることには便がいい。
ここから更なる長い逃亡劇を演じようか、とリーゼが少し旧礼拝堂の出口に進んだとき、リーゼは連れていた侍従がいないのに気がついた。後ろを振り返っても、リーゼが通ってきた光の扉も何もなく、ただそこにはまだ形が残っている聖壇があるのみだった。
「ユリベート!どこにいるのだ、ユリベート!?」
いくら彼の名を呼んでも、姿を現すことはなく、返事もなかった。
彼はリーゼの後に付いて光の扉を通ったのではなかったのか?ここから先は自分一人で逃げろということだろうか。なんと薄情な――。
リーゼがそう思ったときだった。あの声が聞こえたのは。
「二日ぶりでございますね、殿下」
その男に、リーゼは見覚えがあった。王室礼拝堂付きの司教、イラリオン・アルザスだった。いつもの礼拝で見るときと同じ、司教服の姿で立っていた。
「アルザス司教?どうしてこんなところにいるのです?」
アルザス司教はリーゼのすぐ前にやってきて、リーゼ越しに聖壇を見ながら答えた。彼はかなりの長身で、リーゼはその彼を大きく見上げる形となった。
「鍵――」
「え?」
「そう、鍵――。そうです、あの方、殿下の母君は、確かに殿下に鍵を託したはずなのです。“銀の心臓”への鍵を。私はそれを確実に手に入れる必要があったのです」
思わぬところで、再びあの単語――、“銀の心臓”、が出てきたことに、リーゼは不意を突かれた。
「“銀の心臓”とは、いったい何なのだ?リーリヤもそんなことを言っていた……」
「ローザンヌのご令嬢、ですか?……まあ、今はいいでしょう。殿下はここにいるのですから……。ともかく、その“鍵”について、私たちは何も知らないのです。それが形あるものなのか、はたまた呪文か、それとも生贄か……。それを、殿下は知っているはずです……、いえ、はずだった。今の殿下には“銀の心臓”はおろか、“鍵”の記憶すらない……」
リーゼの肝心な疑問を無視したまま、司教は一気に話した。彼はリーゼを見てはいなかった。
彼も“銀の心臓”とやらが関心事らしい。となると、司教もリーリヤのような強行手段に出るかも分からない。それならば逃げるのが賢明だ。そもそも、そちらが最優先だったのだ。どうしてこんなことで立ち止まっていたのだろう、とリーゼが思い返していると、あの侍従のことを思い出した。
「司教、アルザス司教?聞いているのですか?」
「ああ、失礼、いかがなさいました?殿下」
ここでやっと司教はリーゼを見た。
「このあたりで、ユリベートを見かけませんでしたか?そう、私の付き人の……」
「ああ、彼ですか……」
彼は、次の言葉までに妙に長い間を置いた。その間に彼はまた目線を移した。リーゼはそれに追随した。
「少し邪魔でしたので……」
ユリベートは、司教が目線を移した先、壊れかけた聖堂の壁に魔術で縛り付けられていた。リーゼが最初に見たときは、柱で死角になって見えない位置だった。彼は気絶しているようで、目を閉じたまま、ぴくりとも動かなかった。
「ユリベート――」
リーゼはユリベートに駆け寄ろうとした。だが、アルザスに右腕をつかまれ、引っ張り上げられた。
リーゼの足が、つま先を残して浮いた。彼女の体重の大半がかかった腕が悲鳴をあげた。
「放せ……っ!この……っ!」
リーゼが抵抗すると、アルザスはリーゼの要求どおり腕から手を放した。床に投げ飛ばすという形で。
受身など知らないリーゼは、そのまま頭を床にぶつけた。痛みで涙がにじんだ。
アルザスは頭を押さえているリーゼに向かって口を開いた。
「そうそう“鍵”を逃がすものか。……“鍵”を渡すというなら、その優男ともども逃がしてやろう」
リーゼは上体を起こしてアルザスに返した。
「……“鍵”なんて知らない。“銀の心臓”も知らない!私は何も知らないのだ!」
リーゼは最後の言葉を言い放つと同時に、炎の魔術をアルザスにぶつけた。彼が突然のことにひるんだのだけ見ると、ユリベートのところへ再度駆け寄った。
「ユリベート、ユリベート!頼むから起き――」
そこでアルザスから蹴りが跳んできた。また床に転がされる。仰向けになったリーゼの体に、彼の足が乗せられ、踏みつけられた。
「こざかしい。……無駄な足掻きを……。知らないのならば仕方がない」
アルザスはリーゼの腹から足を除くと、手のひらをリーゼの胸元に近づけた。彼の手は直接リーゼに触れる少し手前で止められた。
「糧にさせてもらうまでだ」
アルザスの掌から魔法陣が出現した。その中心に光がともされた。その光はリーゼの胸の間に突き刺さった。胸に痛みが走った。それは表面ではなく、肺の間でもなく、もっと深遠などこかだった。それでも体は肉体的な痛みと同様に反応した。叫び声を上げたかも分からない。
「……もう少しだ」
アルザスがそう呟いて間もなく、リーゼは自分の心臓を触られたような感覚に襲われた。苦しさで手足をばたつかせた。
「……思ったより、綺麗な魂だな。遠慮なくいただくとしよう」
彼がリーゼの中から持っていこうとしていたのは彼女の魂だった。彼がリーゼの魂を掴めばそれは完了する。
しかし、アルザスがリーゼの魂を捕らえようとしたまさにその時、リーゼの中から溢れた眩い光がリーゼの魂を捕らえようとする手を退けた。突然のことに、アルザスは元の位置から二歩退き、リーゼの胸元からあふれ出た光を見た。
「何だ、これは――」
リーゼも瞳を開き、その光を見た。それが何なのかは分からなかったが、とにかく暖かい光だった。
だが、アルザスが驚愕しているのは、その光だけではなかった。
地に置かれたままのリーゼの腕に、びっしりと書かれた呪い文句が現れていた。いや、腕だけではない、首の下から足の指先まで、呪文が浮かび上がっていた。これもリーゼ自身初めて見るものだった。リーゼが直感的に思ったのは、どうやらリーゼにとって悪い影響がある呪詛ではないらしい、ということだ。
「護法か!?……それも最上級……、いったい誰が……。この様式は見たことがない……」
アルザスがリーゼにかけられている護法に驚愕していると、リーゼの視界を横断してアルザスに飛び掛る影が見えた。その影――ユリベートは反応の遅れたアルザスをそのまま殴り飛ばした。
殴られたアルザスは、ふらふらとした足どりでさらに数歩後退し、ユリベートを見た。どうやらアルザスは口を切ったようで、血が垂れていた。
「……そうか、あの光が封印を破ったのか。……そうか、そういうことか」
アルザスはリーゼの方を見返した。ユリベートの封印をも破ってみせたリーゼの光はもう消えていた。体に現れていた呪詛も消えていた。
「その牢獄のような護法が、まさしく『銀の心臓』の在り処がそこだと示している!そう、『心臓』は牢獄に捕らえられているのだ……」
「貴方は、闇司教だったのですね。王室礼拝堂付きにまでなりながら、神を裏切り、人の魂で飢えた悪魔と契るとは……」
「……強い付き人をお持ちのようだ。どうやら王女に護法を解除させる余裕はなさそうだ」
二人の間に沈黙が訪れた。上体を起こしたリーゼはその静寂の間に割って入った。
「ユリベート……其方……」
ユリベートはリーゼの方を振り向いた。彼はしばしリーゼを見ていたが、アルザスが再び話し始めたのを聞いてそちらに目を向けた。
「このまま戦っても、こちらが少し不利だ。王女の光のせいで、大分力を奪われてしまった――、と、いうわけだ。私は一度引くとことにしよう。」
アルザスは、ユリベートの右手が魔術を撃つ体勢にあるのを見ながら口を動かしていた。
「失せろ」
ユリベートは魔術でアルザスのいるところをなぎ払った。彼はそれを防ぐと、影に溶ける様に消えてしまった。
ユリベートは、あの司教が再び現れる気配のないことを確認すると、リーゼに歩み寄り、手を差し伸べた。リーゼはその手につかまって立ち上がった。
「お怪我はありませんか?」
リーゼはまだ痛む頭をさすってみたが、怪我にはなっていなかった。大丈夫だ、とユリベートに伝えると、彼の表情にわずかながら安堵がうかがえた。
彼は旧礼拝堂に隠して用意していた、履物と寒い外に出るための上着をリーゼに渡し、身につけさせた。
「では、行くことにしましょう」
ユリベートはリーゼに先行して歩き出した。リーゼも歩き出し、ユリベートに付かず離れずついていった。
旧礼拝堂を出て、裏側に回り、そのまま真っ直ぐ歩いた。このあたりは林になっていて、枯れた木の枝がときどき月を隠したりする。リーゼたちが、向こうにいる衛士から隠れて逃げ出すにも、その林は好都合だった。
その林を抜けると、そこはすでに街の道路だった。
こうしてリーゼはようやく王宮を脱出した。