第2章 #20
「誰と話しているのですか」
開け放たれたままの部屋の入り口から、わずかに怒りを滲ませた低い女性の声がした。
「お母様……!」
その声の主、アーデルハイトの母親であり王妃のゾフィーヌは、一瞬刺々しい目線をリーゼに向けた。
「その小賢しい、卑劣な人間から離れなさい、アーデルハイト。今度こそ殺されてしまいまいたいのですか」
「お母様、姉様はあの事件の犯人ではありません……! お母様も分かっているはずです」
「さて、どうでしょうかねぇ」
再度ゾフィーヌはリーゼに睨みを通した。
「それに、ユリベート……あの帝国の密偵を従者として置いておいて、その男と帝国へ逃げたのでしょう。そんなことまでした人間がなぜ堂々とここにいるのでしょう」
「あの人が帝国の密偵だとは知らなかった。分かったのは帝国に行ってからです。それに、あの時の私には、彼に従って逃げる他の選択肢はありませんでした」
とリーゼは声を落ち着かせながら反論した。
「本当にそうでしょうか。知っていたかどうかなんて他人には分かりませんから。それに、選択肢が無いということは無いでしょう。親交のある貴族の家に助けを求めることもできたのでは? それをしなかったのは……、この国と王家に害なすため……、いいえ、単に駆け落ちのつもりだったのかもしれませんね」
と、嘲った。それが単なるからかいであると知っているリーゼは、一切の無視を決め込んだ。
「お母様、もう止めましょう」
アーデルハイトがゾフィーヌの前に一歩進み出て、声を少しうわずらせてそう訴えた。しかし、ゾフィーヌはそれを手で制止する仕草を見せて言葉を続けた。
「とにかく、あなたが王位を継承するに値する人間か、相当に疑問だということです……。まあ仕方ありませんね、母親があの人ですから……。」
「なにを……」
「生家のために私たちを裏切ろうとして、逆にその生家に裏切られた愚かな人……、違いますか?」
母ナスターシャを侮辱されたリーゼは怒りで一瞬思考が白く染まった。そして徐々に色彩を取り戻してゆくその向こうから、ゾフィーヌの声が聞こえてきた。
「アーデルハイト、行きましょう」
ゾフィーヌはアーデルハイトにそう促し、リーゼに背を向けて去るところであった。
「あなたはいつもそうだ……。悪意に満ちた妄想ばかり振りまいて……!」
リーゼは去り際のゾフィーヌの背中へそう投げかけた。するとゾフィーヌはくるりと回ってリーゼに早足で歩み寄った。そして右手を振り上げて平手をリーゼの顔に打ち下ろした。
「……そうやって好きなだけ喚いていなさい。何にもならないでしょうけど」
そう言い捨てると、ゾフィーヌは今度こそ部屋を去った。
「姉様……大丈夫ですか」
アーデルハイトがリーゼを心配するように顔を覗き込んでいた。
「……私は大丈夫だ。ゾフィーヌ様のところへ行った方がいい」
リーゼはアーデルハイトから目線を外し、声を荒げないように抑えつつ促した。
「でも……」
「……いいから、行くんだ」
アーデルハイトは少し逡巡したのち、ゾフィーヌの後を追うように小走りで部屋を出ていった。アーデルハイトの気配が遠くなると、リーゼは震わせた息を二回大きく吐き出した。怒りと悲しみが再びリーゼの頭に靄を掛けた。このためにリーゼは自分を呼ぶ声に対してすぐに返すことが出来なかった。
「殿下……準備の方はお済でしょうか」
声の主はラマンだった。空いたままの扉の向こうから、部屋の中のリーゼの様子をうかがっていた。一部始終を見ていただろうな、とリーゼは推測した。
「……はい。今行きます」
リーゼはそう力なく答えると、旅の用意をかき集めて部屋を出た。ラマンを無視するように通り過ぎようとすると、ラマンに呼び止められた。
「殿下、ゾフィーヌ様のお言葉ですが、あの方の言う通り殿下の立場は厳しくなっております」
「……やはり、聞いていたのですね」
ラマンはこれに頷くと、改めてリーゼに話し始めた。
「ゾフィーヌ様の言葉が気に障ることもありましょうが、現実として、一連の事件を受けて皆の殿下を見る目は厳しくなっております」
リーゼは何も言わず、ただ床に視線を落とした。
「聞き入れたくなくとも、現実は変わりません……。だからこそ、まずはこの度陛下から与えられた役割を完遂しましょう。そのようにして、一点ずつ評価を回復していく他はありません」
「……わかりました」
反論できる点がなく、リーゼはそう応えるしかなかった。怒りのやり場もないまま、自らの未熟さを指摘されるに至り、リーゼは全身に水を被ったような気分に浸された。
リーゼは首を振った。とにかく今は自分の役割を果たすことを考えよう、明日には出発だ、ローザンヌの屋敷に戻って準備をして体を休めよう、とその気分を振り切ることにした。




