第2章 #11
部屋へと戻ってきたリーゼは、カノンへの手紙の続きを書き始めた。先ほどとは打って変わって流れるように筆が進んだ。その手紙を書き終えてペンを置いたリーゼは、一度立ち上がって伸びをした。
ここで一息入れることにしたリーゼだったが、頭の中には次にすべきことがすでにいくつか浮かんでいた。まず、カノンと同じくトヴァリの教会にいるクラウス、アーベルの両司教にも手紙を書かねばならない。トヴァリにいる間にできなかった勉強も始める必要がある。そして、先ほど約束したザハールの悪魔を取り除くためには、魔術の勉強もしなければならない。時間的に考えても、クラウスとアーベルへの手紙を書くのを優先するのが良いだろうとリーゼは判断し、早速リーゼはそれに取り掛かった。
部屋の扉が叩かれる音がして、今日何度目かの部屋への来訪者を察知したリーゼは手を止めた。
「はい……どちら様?」
「ヨセフ・ローザンヌです……。よろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
ヨセフは部屋の中へ入ると、立ち上がったリーゼの二、三歩前にやって来た。
「あの、御用の方は……」
「今から、“銀の心臓”を調べようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、構いませんが……」
「それでは、外に部屋がありますので、そちらまでご一緒願います」
ヨセフはそう告げて静かに歩き出した。リーゼは彼の後ろに従って、先ほどリーリヤの下へ向かった時と同じ道程を辿り庭までやって来た。そして庭の中にそびえ立つ塔へ入っていった。彼はこの塔を施術塔と呼んでいた。
中に入ってすぐ、上の階と地下へ向かう階段が目に入った。ヨセフはリーゼを地下に案内したので、リーゼは上の方には何があるのか尋ねた。上には魔術関連の資料室や研究室があり、最上階には魔術師たちが互いの腕を競う場所となっている、と答えた。
ヨセフに従って地下の一室に入ると、そこにはヨセフと同年代と思しき女が何やら準備をして待っていた。彼女の名はイルメラといい、リーリヤの母であり、ヨセフの妻である。
「ああ、殿下、ご無沙汰しております……。準備は出来ております。寝心地は悪かろうと思いますが、こちらに横になってください」
イルメラが示したのは、石でできた台であった。その表面は磨かれており、いくつかの魔法陣と、連絡線と呼ばれる魔法陣同士を連動させるための線が描かれていた。リーゼの目にはそれが不気味に映り、そこに体を置くのを躊躇した。
「すいません、魔法陣がずれないようにするには、こうするしかないので……」
「いいえ、それは構いませんが……」
「何か?」
「……いいえ、なんでもありません」
とリーゼは答え、冷たい石の台座に横たわった。そのリーゼを左右に挟むように、ヨセフとイルメラが立った。
「これから“銀の心臓”を調べる間、殿下には眠って頂きます」
と、ヨセフがリーゼに告げ、奥に。これを聞いたリーゼは動揺した。自分の身に何かされるのではないかという恐怖を覚えた。
「一体、何を……」
「“銀の心臓”を調べる際に、殿下の魔力の状態が不安定になるといけないので、眠って頂きます」
イルメラが柔和な笑みを浮かべつつそう説明する背後で、ヨセフが取り出したのは、何か気体で膨らまされた袋だった。ヨセフは袋の口をリーゼの顔に軽く押し当てるようにして、リーゼに袋の中身をかがせた。それは少し甘い匂いがした。
この匂いには覚えがある、そうだ、こんなことが前にも、何度もあったような……、と思っているうちに、リーゼの意識は闇へと吸い込まれていった。
リーゼが眠りに落ちたのを確認したヨセフとイルメラは、早速“銀の心臓”の調査に取り掛かった。最も重要な調査内容は、“銀の心臓”が帝国や他の勢力による何らかの仕掛け、特に“銀の心臓”を奪ったり破壊したりするものの有無である。現に、元ミスラ王宮付司教アルザスに一度奪われかけていることから、ミスラ王国としては調査を急いでいた。
しかし調査は容易にできるものではなかった。主であるリーゼ以外が接触すれば、“銀の心臓”は自身と主を保護するための行動をする。それはアルザスの一件でも確認できた。その時は“銀の心臓”が動き出すのが遅かったが、それは“銀の心臓”が目覚めていなかったためだろう、とミスラ王国で“銀の心臓”を担当している魔術師であるヨセフは結論付けた。
そして、そのヨセフとイルメラが、扱いの容易ならざるそれの調査に用いるのは、リーゼの魔術系を通して銀の心臓を操作する、という手法である。リーゼの体の中の魔術系を外に繋いで、ヨセフとイルメラはそこを通す形で、魔術式にリーゼ固有の部分を含めた魔術を動かす。これによって、“銀の心臓”からは、主であるリーゼが使う、主の魔術であるように見えるように欺き、“銀の心臓”の守りを回避することが出来る。
「ヨセフ、こっちは繋げました」
「ああ、少し待ってくれ……。よし、こちらも大丈夫だ」
“銀の心臓”が操れるようになったことを確認すると、二人は“銀の心臓”とリーゼの境界にあたる周縁部と呼ばれる部分にある魔術を確認した。ここには、ヨセフらが以前に同様の手法で仕込んだ“銀の心臓”を保護、封印、制御等のための魔術があるはずであった。
「やはり、保護魔術と封印が壊されていますね」
と、イルメラが展開された複数の魔法陣を読みながら言った。
「ああ、そのようだな。イルメラ、寄生魔術がないか、調べを続けてくれるか? 私は壊された部分を再建する」
「ええ、構わないわ」
イルメラは周縁部にある魔術を展開しては確認する作業を開始した。周縁部には、ヨセフらの埋め込んだもの以外にも、王国の他の魔術師によるものや、“銀の心臓”自らが宿主に適合すために用意した魔術が存在する。これら数多くの魔術を確認する作業には、相応の魔術の知識と技量を要するが、イルメラにとっては単に退屈な作業であった。
「皆で好き勝手魔術を埋め込んで、殿下も私たちもいい迷惑だわ」
「我々も他人のことは言えないよ」
「そうね……。殿下には申し訳ないけれど……、この王国のためには、今はこうするのが最善ね……」
そんなことを話していると、早速イルメラは見慣れない魔術を発見した。
「待って、これ、何かしら……」
「どうした? やはり帝国の魔術師に悪戯されていたか?」
イルメラは目を細めて、浮かび上がらせた魔法陣と術式に注視した。
「それは分からないけど、変な魔術が残されているわ。“銀の心臓”が使っている魔術式に近いけど、よく見ると別のものよ」
「……これは、宿主側の魔術式か?」
ヨセフが指摘したのは、この術式は、宿主が“銀の心臓”の能力を利用するための術ではないか、ということであった。
「……いや、違うな、これは……」
「この魔術式、見たことない呪文で構成されているわね。今この場では何なのか分からないわ」
「王宮の魔術室にもっていかなければ分からないか」
ミスラの王宮には、“銀の心臓”を扱うための秘匿された部屋があり、同じく秘匿された資料や設備が置かれている。そこであればこの魔術が何なのかわかるだろうとヨセフは判断した。
「今のところ、保護魔術の再建は問題なくできている。今はこのまま続けても問題ないと思うが……」
「ええ、でも慎重にね。私は残りの魔術を調べておくわ」
「頼む」
それから二人はしばらく黙って各々の作業を進めた。その結果、保護魔術は問題なく再建できたが、最初にイルメラが発見したのと同様の、正体不明な魔術が複数仕込まれているのを発見した。
「国王には、なんて報告します?」
「頭の痛い話だ。『何か仕掛けられたようだが、今のところよくわからない』と言うしかない……。イルメラ、殿下を頼んでいいか?」
「はい」
ヨセフは眠ったままのリーゼのことをイルメラに託し、地下室を去った。
リーゼは硬い感触の上で目を覚ました。見慣れない天井に一瞬戸惑ったが、すぐに“銀の心臓”を調べると言われてここで寝かされるまでのことを思い出した。何か口に出そうとして、
「うん……」
と間抜けな声を出してしまった。
「お目覚めになられましたか?」
という女性の声がリーゼの耳に入った。体を起こしながら声のした方を見ると、イルメラが柔和な表情をリーゼに向けていた。
「殿下、ご気分はいかがですか?」
「はい」
そう言って石の台から降りて立ち上がろうとしたが、脚にうまく力が入らずふらっと前に倒れそうになったところをイルメラに支えられた。
「大丈夫ですか?」
「……はい、ありがとうございます」
「術の影響が少し残っていたようですね。歩けますか」
「……歩けます」
「今日は、もう部屋に戻って休まれるのがよいと思います。部屋までお連れしましょう」
とイルメラが申し出た。リーゼは一度断ったが、結局部屋まではイルメラが付き添うことになった。その途中、イルメラが
「殿下……、ザハールにお会いになったようですね」
と、窘めるように言った。
「……はい、会って話をしました」
「外の人間とは、会わせないようにと言っていたのですが……。まあ、殿下ならさして問題ではありませんが……。それで、どんな話をなさったのでしょうか?」
「そうですね……、まずはお互いのことを。何しろ、顔を合わせるのも初めてですから」
「他には何か?」
「いいえ、それだけでした」
「そうですか……。この機会ですから、彼に他にもいろいろ話をしてくださいませんか。殿下でしたらまたヨセフの部屋に行っても良いでしょう。きっとヨセフも許すことでしょう」
「ありがとうございます。こんな状況ですから、話し相手はいればいるだけ嬉しく思います」
「……ああ、ヨセフの体のことは聞いたと思いますが、そういう訳なので、体に障るようなことはしないようにお願いします」
「はい。わかりました」
リーゼ達がザハールの悪魔を払おうとしていることがもう露見したのかと思い、ひやひやしたが、結局その話題が出ることはなくリーゼは安堵した。
自室に戻ったリーゼは、カノンへ向けて送る手紙の続きを書き、ついに書き終えると、大事に封を施した。




