第2章 #9
次の日の良く晴れた早朝、リーゼは自らの潔白が証明されるまでの間一時的にローザンヌ家の屋敷で暮らすために、召使のアンネと持っていく荷物の選別を行っていた。リーゼは王宮の自室に戻ることを禁じられていたため、何が必要かアンネと相談してそれを紙に記して、とりあえずそれをアンネに取ってこさせた。それ以外に必要なものがあれば、後で持ってくることにした。
リーゼは荷物を詰めた鞄と共に単身馬車でローザンヌの屋敷に向かうことになっていた。馬車の前後には同行する兵などが配置について待っていた。その中には、エドヴィン、ネスター、ルーマーの姿もあった。
「おはようございます、殿下」
とリーゼはエドヴィンから挨拶を受けた。
「おはよう……、君たちは、昨日までの長旅からの今日で疲れているというのに、今日も私のせいで仕事になってしまって、申し訳ない」
「お気遣いありがとうございます、殿下。しかし、これが仕事ですし、体の方も問題ありません」
エドヴィンは穏和にそう答えると、リーゼに馬車に乗るよう促した。リーゼが馬車に乗り込むと、すぐに動き出した。
ローザンヌ家の屋敷はネストバーテルの中心地から少し離れた場所にあった。そこまでの道のりでは、様々な身分の人間とリーゼの乗る馬車がすれ違った。ネストバーテルを貫き王宮から中心街の方へ流れる大河ヌサ川を越えると、橋の袂に物乞いをする人の姿があった。それを見たリーゼは、かつて父ユリウスに、
「彼らのような貧しい者がこの国にも数多くいるが、彼らを貧しさから救うにはどうするのが良いか」
ということを問われた時のことを思い出した。
その時のリーゼは、彼らは困っているのだからちょっとお金を渡してやればよいのではないか、と答えた。そして父に一蹴された。ユリウスはリーゼの答えに対して、
「お金を与えても彼らのような人間の多くはまた同じ場所に戻ってくる。もっと根本的な解決策でなければならない」
と返した。そして、正解は自分で探すのだ、と付け加えた。その時は父の言ったことが理解できなかったが、後にリーゼが読んだいくつかの本の中に同様のことが書かれており、それで理解することが出来た。そしてそれらの本の中には、筆者の出した答えが記されているものもあった。しかし、今やリーゼは彼らの窮状の訴えも聞いているし、ミスラの財政が芳しくないことも知っていた。記されていた答えのいずれも、それらの問題を解決するに至らないリーゼは思った。そして現在、その問いの答えは見つからず、むしろ他の解決困難な問いが積み重なるばかりであった。
馬車はローザンヌの屋敷の門を潜り抜け、敷地の中へと入っていった。そこでリーゼはこれまでに訪れた時には見たことのない、警備をしている兵士の姿を目の当たりにした。リーゼは再び自分がまだ疑われていることを思い知らされ、暗鬱な表情を浮かべた。次にリーゼの視界に入ったのは、二階建ての大きな建物だった。それがローザンヌ家の人々が住まう屋敷であった。リーゼはその屋敷の玄関前で馬車を下ろされ、エドヴィンらと共に中へ案内された。馬たちはローザンヌ家の雇っている世話係に連れていかれた。リーゼ達が案内されたのは来客用の部屋であった。そこではこの屋敷の主、ヨセフ・ローザンヌが待っていた。彼は落ち着いた低い声で、
「お待ちしておりました、殿下」
と挨拶をした。
「お世話になります」
とリーゼが返すと、早速ヨセフは彼のしもべを呼び、これから住むことになる部屋にリーゼは案内された。リーゼが部屋を去る前に、エドヴィン達もここに留まってすでにこの屋敷にいる兵と共に警備に当たる旨の説明を受けた。
リーゼは荷物を抱えたしもべに案内され、リーゼのためにあてがわれた一室に入った。その部屋の窓には格子が嵌められていて外に出られないようになっていた。使用人はリーゼに言われた場所に荷物を置くと、他に頼みがあるか尋ね、今は何もない、とリーゼが答えると、彼は部屋を出て行った。
そしてそのすぐ後、入れ替わるようにしてヨセフ・ローザンヌがやって来た。
「殿下、私は陛下より、“銀の心臓”が健全に保たれているか調べるよう仰せつかっております。早速、今夜行いたいのですが、ご都合はいかがでしょうか?」
「はい。大丈夫です。この通り、今はここにいるしかありませんので……」
「ご協力感謝いたします、殿下。……なにか御用があれば、この屋敷の者に言ってください」
そう言って立ち去ろうとした彼をリーゼは呼び止めた。
「すいません、あの、リーリヤはどちらに?」
「まだ自分の部屋にいるのではないかと……。それと、殿下、この屋敷の中と敷地を移動するのは構いませんが、その外には行ってはならなりません」
「はい、それは承知しております」
「……リーリヤには、殿下に挨拶をするよう言ってみましょう」
そう言い残して彼は立ち去った。
手の空いたリーゼは、紙とペンを用意させて、早速カノンへの手紙を書き始めた。少し書き進めた後、この後何を書こうかと悩んでいると、再び部屋に誰かがやって来た。リーゼが振り返ると、そこにはリーゼの召使いであるアンネの姿があった。
「アンネ……、ああ、持ってきてくれたのか。ありがとう」
「これが私の仕事ですから」
アンネは笑みを浮かべながらそう言ってリーゼに荷物を手渡し、さらに続けた。
「私は王宮に戻りますので、何かありましたらお呼びください」
「何度も呼び出されたら、大変だろう。次に会うのは、ちゃんと王宮に戻ってきたときにしたいね」
「はい。殿下が王宮に戻って来るのをお待ちしております。……でも、気になさらずいつでもお呼びください」
「ありがとう、アンネ」
アンネはリーゼに再び笑みを返して、別れの挨拶をして部屋を去っていった。
リーゼは再び手紙に取り掛かった。そして文面が思い浮かばず息詰まると、立ち上がって窓の外を眺めた。そこには手入れの行き届いた庭が広がっていた。ちょうど花の咲く時期で、色鮮やかであった。真ん中には小さな塔を横に大きくしたような、円形の建物が建っていた。あれは魔術の試験や練習に使うのだ、と以前リーリヤが話していた。しばらくその庭を眺めていると、庭に降りて歩いていた鳥が一斉に飛び立った。何事だろうと窓に顔を近づけてみてみると、まさにそのリーリヤが庭に現れたところであった。
リーゼはリーリヤを追って庭に出て、彼女の姿を探した。彼女の姿を見つけると、追いかけて呼び止めた。
「リーリヤ、リーリヤ! 久しぶりだね……」
「お久しぶりです、殿下……」
そこで二人は顔を合わせたまま沈黙した。その理由はもちろん、リーゼが王都から逃げる時に、リーリヤがリーゼから“銀の心臓”を奪おうとして、リーゼを襲った事件のためであった。
「……ここでは、良くないな、向こうで座って話そう」
とリーゼが沈黙を破り、この庭の端に置かれた椅子とテーブルを指すと、そちらに向かって歩き出した。リーリヤも、ええ、と返事をしてリーゼに続いた。二人とも椅子に座ると、周囲に人がいないのを確かめ、リーゼから口を開いた。
「……どう話したらいいかわからないけど、その……」
「……あの夜のこと?」
リーリヤはリーゼから目線を離し、少し下に落とすと、分かっていたようにそう答えた。
「……ああ、ああ、そうだ、それなんだ……。正直、私はまだ混乱しているんだが……、あの夜、リーリヤはどうしてあんなことをしたんだ? 私は、リーリヤを友人だと思っている。だから、あれにはよっぽどの理由があったんだと思っている。……それを、教えてくれないか、リーリヤ。……他言はしないよ、信じてくれ」
リーリヤはリーゼから目を逸らし、沈黙したままであった。リーゼはリーリヤの目線の先に自らのそれを合わせ、リーリヤの返答を待った。二人の目線の先にはあの円い建物があった。視界の中の草木が揺れ動き、それから一瞬間を置いて生温い風が二人を通り抜けていった。風が止むと、リーゼの視界の端でリーリヤが静かに立ち上がった。
「付いてきて、リーゼ」
「……分かった」
リーゼはリーリヤのすぐ後に続いて、屋敷の中に戻った。リーリヤは屋敷の最上階まで上がり、さらにその一番奥の扉の前まで進み、そこで立ち止まった。リーリヤが振り返って、リーゼと目線を合わせた。その部屋に何かがある、ということは分かったので、リーゼは目線と仕草でリーリヤにその扉を開けるよう促した。リーリヤが扉を開けると、独特な匂いが漂ってきた。何かの香水の匂いと、微弱な魔力が布類と反応して放つ、一般に“魔術くさい”と言われる臭いが混じっていた。扉の奥は薄暗い廊下で、今度は三枚の扉が並んでいた。リーリヤは二番目の扉を叩くとその扉を開いた。
「リーリヤか、どうしたんだい」
と、若い男の声が奥から聞こえてきた。リーリヤはリーゼを部屋の中へ招き入れた。その部屋の中には、ベッドから上体を起こした痩せた顔の若い男がいた。彼はリーゼの姿を認めると、
「そちらのお嬢さんは?」
「こちらはリーゼ・マーキュリウム王女です」
とリーリヤが紹介すると、男はベッドの上で頭を下げた。
「……これは失礼いたしました。ご無礼をお許しください」
「……いいえ、構いません」
リーゼは見知らぬ彼についての説明を求めてリーリヤに視線を向けた。
「殿下、彼は私の兄で、ザハールと言います」
リーリヤは掌で彼を指してリーゼに紹介した。
「そうか、お兄さんか……。リーゼです、よろしく、ザハールさん」
「こちらこそよろしくお願いします、殿下」
挨拶を交わすと、リーゼとリーリヤはベッドの横に用意された椅子に座った。
「お兄さんがいることは知っていたが、会うのは初めてだな……。ザハールさん、失礼ですが、何かご病気でも?」
と、リーゼは尋ねた。ザハールが今もベッド上にいることから、彼と会うことがなかったのは病気のため療養していたからではないか、とリーゼは考えていた。リーゼの問いに対して、ザハールは表情を曇らせた。聞いてはいけないことだったか、とリーゼは一瞬思った。ザハールの代わりにリーリヤが口を開いた。
「確かに、病気のようなものですね。もともとは、事故、というべきなのでしょうか」
「事故?」
リーリヤはリーゼに対して頷くと、話を続けようとした。しかしザハールはそれを遮った。
「……待ってくれ、リーリヤ。これは話してはいけないと言われていただろう?」
「……そうね、でも、国王はもうご存じだから……。殿下、これから私が話すことは、秘密にしていただけますか?」
「ああ、もちろん」
リーゼは頷いてはっきりと約束した。
「……そういう訳で、兄さん、今日は、私達兄妹の秘密を殿下に話します」
「どうして急に?」
「私と殿下の都合です」
しばらくザハールは納得のいかない表情を浮かべていたが、リーリヤに押し負ける形になって、
「分かった、いいよ。……でも僕から話そう」
と応え、ザハールは息を整えると、リーゼの方に向き直って話し始めた。




