第2章 #8
リーゼ達の馬車行列の行く手に、王宮や大聖堂、貴族の屋敷、市民の家、集合住宅、カエルの丸焼きを売る店から性的な店まで擁する、ミスラ王国の首都ネストバーテルが見えてきた。傾いた日が差し、茜色に彩られたネストバーテルは、リーゼの目には少し恐ろしく見えた。
「殿下、間もなく到着です」
と、馬車に同乗しているアンネが告げた。
「ああ、分かっているよ」
リーゼはそう答えて再び馬車の外の景色に目をやった。
しばらくして市街地に入るころには、結構暗くなっていて、すれ違う人々の顔を見分けるのが難しくなっていた。しかし、すれ違う相手は、自分のことを認識してこちらを見ているようだ、とリーゼは感じた。今日リーゼがネストバーテルに帰ってくることが知れ渡っているのかもしれないし、単にこの行列の主を確認しようとしているだけなのかもしれない、とリーゼは考えた。リーゼは視線を正面に戻し、時折それを傾けて流れる景色を確認した。
市街地の中を進んでゆくと、リーゼの見覚えのある建物の影が流れてゆき、次第に王宮が近づいていることが分かった。さらに市街地を真っ直ぐに進み、ついにリーゼ達の行列の前に城壁が黒い影として姿を現した。
「やっぱり……」
「どうかしましたか、殿下?」
「いや、やっぱり、少し怖いんだ、アンネ」
リーゼがそう言うと、アンネはリーゼの肩に触れて、
「大丈夫ですよ、殿下。……しっかりしてください、ここは王宮で待ち構える者たちに、なよなよした姿を見せていては、殿下が無実だという宣伝にはなりませんよ」
「ああ、そうだな……」
やがてリーゼ達の小さな馬車行列は、如何にも頑丈そうな門の前にたどり着いた。そして待ち構えていた兵たちが確認を終えると、門が開かれ、リーゼ達はさらに王宮へ向けて進み始めた。城壁の内側は一部庭園になっていて、その部分は明かりが少なく暗くなっている。そしてその奥には明かりの灯る王宮がそびえたっているのが見えた。
リーゼの乗る馬車は王宮の裏口で止まった。リーゼが馬車を降りると、番をしていた兵士が扉を開いた。ここでハイベルクから同行している役人のヘルマートを除いて一度別れ、リーゼは王宮へと数か月ぶりに足を踏み入れた。中には警備の衛士、それに二、三人の見物人がいた。彼らはリーゼを見つけると好奇の目を向けた。ヘルマートは担当の衛士一人を引き連れ、リーゼを裏口から近くの部屋、王宮全体から見れば隅にある部屋へと案内した。自室ではなく王宮の隅に押し込められるような形になることについては、事前にこのヘルマートから説明を受けていた。
「殿下に置かれましては、まだ正式には、疑いが晴れたことにはなっておりませんので、行動はかなり制限されることとなります」
というのが彼の説明であった。特に、国王の親族の者とは接触してはならないことになっている、ということであった。
王宮の隅にあるその部屋に案内されたリーゼは、ヘルマートの方に向き合ってこう尋ねた。
「これから一体どうなるんだ?」
「……後ほど国王陛下が直々に説明なさるとのことです。それまでお休みください、ああ、殿下の行動できる範囲ですが……」
「それは分かっているよ」
「それは失礼いたしました……。ああ、それで、殿下は今、国王陛下とは対面できないことになっておりますので、今日のことは、他言無用でお願いします」
「分かった」
そしてヘルマートは一礼して部屋から去った。
扉が閉じられると同時に、リーゼはそこにあった椅子に腰を下ろした。この後父が来ると知って、リーゼは少し腰が引けていた。落ち着かないリーゼは立ち上がると廊下に出て、長時間の移動による疲労であまり回らない頭であれこれ考えながら許された範囲を行ったり来たりした。そこにいた兵士は一体どうしたのだろうという表情でリーゼを見ていた。リーゼはその視線に気づいたが、それを特段気に留めはしなかった。一通りあたりを見たリーゼは、再び隅の部屋へと戻り、椅子に座った。落ち着かないまま、どうにもこうにもすることがなくなったリーゼは、右の手で左腕を抱くと、俯いてひたすら父がやって来るのを待った。
じっと待つリーゼの下に、複数人がこちらに近づいてくる足音が近づいてきた。父が来ることを察したリーゼは椅子から立ち上がって身構えた。緊張のせいか、足音が近づいてくるのがやたらと遅く感じた。足音が扉のすぐ向こうで止まると、次の瞬間扉が音を立てて勢いよく開かれた。リーゼはその音で少しびくっとした。扉の向こうに現れた数人のうち、背の高く厳つい顔をした男が一人だけ、足音高く部屋の中にいるリーゼの下までやって来た。この男がリーゼの父であり、現ミスラ王国国王、ユリウスである。
「……陛下、只今戻りました」
「……ああ……よく戻って来たな。お前が戻ってきてれて嬉しいよ」
言葉とは裏腹に、父ユリウスの声色は硬いままだった。リーゼはこの後に何かあることを察した。
「……だが、分かっているな。今この国にのしかかっている厄介ごとのうち、いくつかはお前の行動がもたらしたものだ……。特に、“銀の心臓”については、特にお前にかかわる深刻な問題だった。お前がハイベルク帝国の男に付いて行ったために“銀の心臓”を帝国かどこかに奪われるところだったのだ……」
ユリウスはそこで胸のあたりを気にして苦しみ始めた。後ろに控えていた、先ほどまでいた役人ヘルマートがユリウスに体を案ずる声をかけた。ユリウスは、大丈夫だ、と答えた。
「……とにかく、リーゼ、“銀の心臓”に何かされていないか、調べる必要がある。それに、ゾフィーがまだお前のことを疑っているのでな、近づけたくないと言っている」
ゾフィーというのはアーデルハイトの母である。リーゼの継母に相当するので、以前から微妙な関係であった。アーデルハイトの母としてそういう反応に出るのは仕方がない、とリーゼは受け入れた。
「……そういうわけだ。リーゼ、明日の朝からローザンヌ家の屋敷に行ってもらう。……あの家には、お前の仲良くしているご息女のリーリヤも居る。問題ないだろう?」
リーゼはリーリヤの名前を聞いて返答に詰まった。リーリヤは、それこそ父ユリウスが最もその所在や状態を案じている“銀の心臓”を狙っている様子であったのだ。
「どうした。何故答えない」
「いえ、陛下のおっしゃる通りに……。失礼ですが、陛下、私はいつまでローザンヌの屋敷に……?」
「それは分からぬ。少なくとも、裁判のやり直しが終わらぬうちは無理だ。……心配するな。裁判は形だけだ……。他に聞いておきたいことはあるか?」
「いいえ、ございません」
リーゼがそう答えると、ユリウスはさっさ踵を返して戻っていった。扉が閉じられ、父の姿は見えなくなった。それと同時に、リーゼは肩の力を抜いてゆっくりと息を吐いた。
リーゼはどっと疲れてしまい、少しの間だけぼうっとしていた。
そうだ、寝る支度をしよう、とリーゼはあたりを見回した。寝床の準備はできているようだったが、着替えはなかった。どうしようか、と考えていると、扉を叩く音がした。なんだろうか、とリーゼが対応すると、出てきたのはアンネだった。アンネはリーゼに寝間着を渡しに来たのだった。
「ありがとう、アンネ。ちょうど困っていたんだ」
「いえ……。殿下、他に、お困りごとはございませんか?」
「いや、今は大丈夫だ。それより……いろいろ、大変な目に合わせてしまって申し訳ない」
「お気になさらないでください、殿下。……殿下のせいではありません。悪いのは、これを仕組んだ誰かです。……自殺に見せかけられて殺されたクララのことも」
アンネは悲しげな表情でそう訴えた。リーゼは笑みを浮かべて答えた。
「ありがとう、アンネ。私は平気だよ」
「……それでは、殿下、私は二つ隣の部屋におりますので、何かあればすぐに……」
リーゼが、わかった、と答えると、アンネは部屋を出て行った。
さてどうしたものか、と、寝間着に着替えたリーゼは椅子に座って明日からどうなるのかを考えていた。やはり気がかりなのはリーリヤのことであった。やはり、リーゼがウストバーテルからの逃亡しようとしていたあの時に、リーゼとリーリヤの間にあったことは知られていないようだった。ユリウスの口ぶりがそれを示していた。単に、リーリヤがリーゼとユリベートが逃げるのを目撃した、ということになっているのだろう、とリーゼは結論付けた。そして、リーゼはまずこの件についてリーリヤに話を聞こうと決めた。友人としてやって来た彼女のことだから、何か事情があってのことなのだろうとリーゼは思った。
いや、そうではないのかもしれない、とリーゼの頭の中に別の考えが浮かんできた。それは友情が嘘偽りである可能性であった。リーゼは首を振って考えを振り払った。いずれにしてもリーリヤには話を聞かなければならないな、とリーゼは決意した。
そしてリーゼは友人のことをもう一人、カノンのことを思い出した。早く彼女に手紙を出して、きっと心配しているだろう彼女を安心させたいと思ったが、今は紙を用意することもできず、リーゼはもどかしく思った。とにかく、用意ができたらすぐにやろう、とリーゼは決めた。そこでリーゼは、これまでの疲れのせいか、強い眠気を感じた。リーゼが寝床に向かう前にふと見た窓の外には、なんてことのない、雲の混じった星空が浮かんでいた。リーゼは寝床に入るとすぐに眠りについてしまった。




