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第2章 #3

 出発は昨夜ラマンが言った通り夜明け前となった。ルーマーに呼び起されて外に出てみると、東の空がほのかに明るくなっているのが見えた。ラマン達は小さな灯火を頼りに馬に水や餌をやって準備をしていた。

「よくお休みになられましたか」

 リーゼが現れたことに気付くとすぐに、エドヴィンはそう尋ねた。いいや、とリーゼは首を振った。下から灯火で顔を照らされているせいか、エドヴィンの顔色が思わしくなさそうに見えた。

「エドヴィン、あなたはあの後少しでも休めたのか?」

「ええ……確かに少しですけどね」

 彼に何かねぎらいでも掛けようかともリーゼは思ったが、彼に対して疑念を抱いていたために機を逃してしまった。

「あ……待って」

 呼び止めようと声を出した時には、彼はリーゼに背を向けて歩き出していた。彼を追いかけようとしたが、眼前にエドヴィンの部下であるネスターが立ちはだかり、リーゼにただ待っているよう促した。彼はそのままリーゼの周囲を往復し始めた。リーゼを見張る役は彼に交代したようだ。

 彼が時折憎らしそうな目を向けるので、リーゼは彼と目を合わせることを避けた。それから彼の足音がやたら耳障りに聞こえた。

 しばし待っているとラマンがやってきて準備が整ったことを告げた。

「殿下も、準備はよろしいですか?」

 リーゼが頷くと馬のほうへ案内された。これまたエドヴィンの部下であるルーマーに手助けしてもらい用意された馬に乗った。ネスター、ラマンの順に出発し、リーゼがそれに続いた。リーゼのすぐ後ろにはルーマーが、そして殿にはエドヴィンがついた。

 町を抜ける頃には空全体が明るくなり、町を見下ろせる丘を通った時には、上った太陽が地上を照らし朝露に濡れた町が寂しく感じられた。リーゼは、あの町に住む人間の顔を知らなかった。



 一行は数時間の行軍ののち、小川のそばで休息をとることにした。この時間になると太陽から多少の熱気も感じられるようになり、少々暑いとも感じられた。リーゼは一度馬から降り、水筒の水に口を付けた。

 そばにエドヴィンがいたので、リーゼは彼に聞かせるようにして、

「冬はもう終わりだ」

 と呟いてみせた。

「今度は暑くなりますね!」

 とエドヴィンは味気ない返事をしただけだった。今度は俯いて、

「雪はもう見られないだろうね」

 とリーゼは言った。彼はどきっとして、早口で何か言おうとしていたが、一度それを飲み込んで丁寧に言い直した。

「殿下……また冬が来れば、必ず、飽きるほど、ご覧になれますよ」

 リーゼは彼に背を向けたまま、澱んだ川をじっと見ていた。魚は川底に隠れているのか、それともここには元々魚がいないのか、リーゼが探しても見当たらなかった。

 すぐにまた出発の時間になって、馬に戻ろうとリーゼが振り返ったとき、ずっと背後で立っていたエドヴィンと目が合った。

「行きましょう、殿下」

 リーゼは目をそらす前に、はい、と返事をした。背後の川で魚の跳ねる音がした。


 馬にまたがって移動する間、リーゼはトヴァリの友人や仲間たちのことを気にかけていた。

(カノンたちは、そろそろ午前の掃除を終わらせているかな……いや、私が抜けたせいで時間がかかっているかもしれない。……でも、私が来る前からこなしていた訳であるから、心配することはないのか? ……いや、もしかしたら、私が足を引っ張っていたから大して時間は変わっていないかもしれない!)

 そう思い当たったリーゼは顔をほころばせた。

 先頭のラマンが、人目を避ける、と右の道を示した。リーゼらも考えを挟まずそれに従った。

(カノンはきっと、心配しているだろう。それであらゆることが手に付かなくなって、怒られていはしないだろうか。いいや……カノンはいつも通りに日課をこなすはずだ。彼女は、そこのところはしっかりしているんだ。ほかの人たち、私を憎らしく思う人はもちろん、そうでない人も、いつも通りやっているさ……。まてよ、もしかしたら、私が自分の意志で勝手に出て行った、と思っている人もいるかもしれない。ほんの2,3行を手紙に書いて送れればいいんだが……)

 リーゼはあれこれと文面を考えてはみたが、書いて送る時機については全くあてが無かった。

(しかし、処刑される間際になれば、何かしら書き残す機会は与えられるかもしれないな)

 そう自嘲したとき、目に入る光量が少なくなったのをリーゼは感じた。ちょうど一行は暗い針葉樹の森へと突入するところであった……。


 日も大分傾いたころ、森が開けてポロウェという小さな村が現れた。今夜はここポロウェの小さな教会堂で世話をしてもらうと言う。リーゼ達一行はどこかの名家の令嬢とその護衛として受け入れてもらった。

 教会ということはトヴァリの皆のところまで手紙が行くかもしれない、と考えたリーゼは、ここを一人で任せられている神父に声をかけようと試みたが、これまたラマンに制止された。そのラマンいわく、あの神父がリーゼの味方とは限らない、とのことであった。エドヴィン、ルーマーの二名が見当たらないので、彼らについても尋ねると、彼らは今のうちに休息をとっておくのだという。なるほど、確かにエドヴィンはあれからほとんど休んでいないと言っていたな、とリーゼは納得した。

 話す相手もなく一人になったリーゼは、小さな教会堂の一番奥、アプスに掲げられた聖なる標に対して跪き、死んだ母やリーゼの良き使用人であったクララ、トヴァリの友人たち、その他こもごも……について祈りを捧げた。

 そのうちに日が山陰に完全に隠れ、夜が訪れた。今夜の食事もパンと水という簡素なものであった。

「こんなものしか用意できず、申し訳ありません」

 と、ラマンが頭を下げた。リーゼは首を振り、

「私は気にしていないよ」

 といってパンに手を伸ばした。そこでリーゼは毒が仕込まれているかもしれないという危険に気が付いた。

 割って中を確かめたりにおいを嗅いだりしていると、ラマンが察したのか、

「毒見をしましょうか」

 と尋ねてきた。

「このパンと水を用意したのは、ラマン、貴方ですか?」

 そうリーゼが聞き返すと、はい、とラマンが頷いた。どうするかしばし迷っている間、ネスターがリーゼをじっと凝視していた。リーゼは最終的にパンの頭と腹、そしてコップの水を少し小皿に移してラマンに渡し、毒見をしてもらった。彼は特別なこともなくそれらを口に入れていった。その様子を見たリーゼは残ったパンと水を腹に入れなければならなくなった。

 食事後、リーゼはそのうち毒が回ってくるかもしれぬと恐怖していたが、時間とともに安堵が、しかし同時に、ラマンを疑ったことに対する後ろめたさも顔をのぞかせるようになった。

(明日の朝になれば、結果ははっきりするさ。……そうしたら、そうしたら、もし明日の朝無事に目が覚めたら、疑ったことを彼に謝らなければいけない……)

 そこまで心に決めたとき、リーゼは不意に泣きそうになった。疑心暗鬼と恐怖から抜け出せない自身に気が付いたからであった。

 不意にそのラマンが後ろから声を掛けたのでリーゼはぴくりと体を強張らせた。何かあったのかと思ったが、彼はただ、今夜も早く寝てください、と言いに来ただけであった。

 その後リーゼは、彼に言われた通りすぐに寝ることができなかったので、辺りをうろついたり、かと思えば椅子に座ってじっとしていたりを繰り返してした。

「殿下、まだ起きていらしたのですか」

 交代のためついさっき起きたであろうエドヴィンが、リーゼの様子を気にかけてこう言った。

「ああ」とリーゼは頷いた。

「殿下、やはりまだ不安なのですか?」

「ああ」

 再びリーゼは頷いた。

「仕方ないじゃないか……突然現れて、無理やり連れていかれて……ましてや未だ疑いがかかったままなんだ」

「その件は……申し訳なく思っています。しかし、ハイベルクの介入を避けるために、止むを得ませんでした」

「それは、もういい……」

 リーゼはそれ以降うつむいて黙り込んでしまった。彼に対する感情が整列された言葉にならなかったためだ。沈黙の間、リーゼはエドヴィンが口を開くのを待った。

「……殿下、例の事件の真犯人に、心当たりは無いのですか?」

 思い出せるだけの顔を思い浮かべた後、リーゼは首を振った。

「いや、分からない。いないと言えばいないし、疑い始めるときりが無い」

 かの人物の企みは、アーデルハイトを毒殺しその罪をリーゼに着せることで王家に傷を与えること、もしくは、個人的に恨みがあるリーゼを王の名の下で葬ることである、とリーゼは考えていた。前者も後者も、少しでも疑わしい人間まで数え上げようとすると収拾がつかなくなってしまうのだ。

 どうしようもない、とリーゼが沈鬱な表情を浮かべていると、エドヴィンはリーゼの前に跪いて、

「真犯人を見つけ、捕らえることができれば、殿下の疑いは晴れます。殿下、そのために、我々と戦いましょう」

「……いきなり、何を?」

 戦おう、と唐突に言われたリーゼは、彼の意図を汲むことができずすっかり困惑してしまった。

「殿下、あるいはミスラそのものに脅威を与えようとする者どもと戦うのです。血を流す戦いをするという意味だけではありません。裁判とか、計略の話でもあります。……陛下も、殿下ができる限り自身の力でこの難局を乗り越えることを望んでおられるはずです。……殿下がこれまで我々のところから逃げようとしていたのは、殿下ご自身の理不尽な運命に抗うためだったのでしょう?」

「それは、そうだが……待ってくれ、共に戦う、と言っても、それは相手を信用していないと出来ないことだ。……私はまだ、其方たちのことを信用した訳では……」

 リーゼの言葉を遮るようにして、

「ごもっともです」

 と、エドヴィンが頷いた。すると彼は腰に下げた剣を両手で掲げリーゼに差し出した。

「殿下から信頼をいただくまでの間、こちらをお返しいたします」

「その剣は、陛下がお与えになったものだろう。私ではない……」

 リーゼはそう言って見せたものの、彼がその姿勢のまま動こうとしなかったので、リーゼはその掲げられた剣を受け取った。

「確かに……受け取った」

 細身の剣であったが、リーゼの両手には重みが伝わってきた。その重みがリーゼの中にあった恐怖と不信を多少なりとも緩和してくれたような気がした。

 リーゼは受け取った剣を自らの方へ引き寄せると、彼に顔を上げるよう言った。彼のその真剣な表情を再び見たとき、リーゼは、彼になら手紙の件を許してもらえるかもしれない、と期待した。

「エドヴィン、トヴァリの皆に向けて手紙を出したいんだ。ラマンには駄目だと言われたが、いいかな?」

「勿論です。……紙やペンはいかがいたしますか? 生憎手元には……」

「神父に借りられないか相談してみるよ。まだ起きているかな?」

 リーゼは神父の姿を求めて目線を動かした。

「彼の部屋に明かりがついていましたが……」

 それを聞いたリーゼは軽く頷くと神父の部屋へと足を向けた。するとエドヴィンが、

「ああ、お待ちください、殿下、私が借りに行きましょう」

 と言って止めに入った。

「いいや、自分で行くよ」

 と、リーゼは彼を振り切って行こうとしたが、一人では心配だというので、彼と一緒に神父の下へ向かうことにした。

 神父の住処となっている小屋のような家は、教会堂の裏手にあり、そこへ行くには一度外に出る必要があった。

 吹き付ける夜風は相変わらず冷たかったが、真冬のそれよりは大分温くなっていた。ふと村の外に目をやると、悪魔らしき光が畑のある辺りを彷徨っていた。リーゼは足を止めて悪魔らの様子を窺った。その悪魔らはひたすらその周囲をうろうろしているだけで、村の方へ近づいて来る気配はなく、リーゼは安堵のため息を吐いた。

「どうかしましたか?」

 と、エドヴィンが尋ねてきた。リーゼは、大丈夫だろう、行こう。と言った。

 彼は、一体どうしたのだろうか、という風に首を捻っていた。


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