第2章 #2
物音に気付き、リーゼはゆっくりと目蓋を開いた。明かりが灯っており、光が天井に映って揺らめいていた。体を動かそうとしたが、まったく思い通りにならない。しかし手足の感触は戻ってきた。リーゼは自分が寝かされているということを理解した。感触からして、自分が寝かされているのはひどく粗末なベッドだと分かった。
近づいて来る足音が聞こえたので、リーゼはそちらに目をやった。
「お目覚めになられましたか……。お体はいかがですか」
自分の顔をのぞき込むラマンの姿がリーゼの目に映った。しばし朦朧としたまま彼の顔を見ていたが、リーゼはそこで気を失う前の記憶を取り戻した。
リーゼは顔を青ざめさせ、呻くように声をあげつつ恐怖を示した。逃げようとして思い通りにならぬ体が、ベッドの上で這いずり回った。
「大丈夫、大丈夫ですよ……!」
ラマンがそうやってリーゼを宥めているうちにリーゼがベッドから転がり落ちそうになったため、彼はリーゼの体を抱え起こした。リーゼの体が起き上がった時点で手足の自由が利くようになり、リーゼは手で彼を振り払った。そして逃げるようにベッドの上で立ち上がり、隅に寄った。
「来るな! この――が! この……」
リーゼは知るだけの罵詈雑言を叩きつけ、息が上がったところで、ラマンが座るか床に立つかすることをリーゼに促した。
リーゼは一度ベッドから降り、そして身を縮こまらせてベッドに腰を掛けた。
「落ち着いたら、他の皆と話をしましょう。……例えば、顔をお洗いになったりしてはいかがでしょう……。騒ぐだけでは、何にもなりません」
彼はそれっきり黙ってしまった。リーゼも沈黙で応えると、リーゼが大人しくなったと判断したのか、部屋から去っていった。
(こんなことってあるものか……!)
身支度を整えたリーゼは、恐怖と、彼らに対する失望から来る怒りで体を震わせていた。
(やはり彼らは、私に一つも真実を話すことなく、だまして連れ帰るつもりだったのだ!)
部屋の奥にある窓の向こうには夜闇が広がるばかりであったが、少し遠くにぽつぽつと光が灯っていることから、どこかの町の外れに自分はいるらしいと分かった。そしてリーゼが今いる建物もさして大きくないということも感じ取った。ただ、外の景色にリーゼは多少違和感を覚えた。すぐに違和感の正体は悪魔が見当たらないことだと気が付いた。
その窓に近づき、そっと触れて開くかどうか確かめた。窓は固定されているようで一寸も動かず、ここから外に逃げ出すということは出来そうに無かった。魔術も思うように展開できなかった。おそらくは一定時間自分の魔術系に干渉する術を掛けてあるのだろう、とリーゼは読んだ。
町の明かりを眺めるうちにリーゼは館の面々を思い出し、悲しみが喉元まで込み上げてきた。恐怖とともにそれを吐き出しそうになったが、嘆くよりは何とか逃げ出す方法を考えようと、ぐっとその場は堪えることにした。
リーゼの背後で扉を叩く音がした。誰かと尋ねると、「私です、」とラマンの声が返ってきた。
自分を呼びに来たのだろう、とリーゼは了解して、「今行きます、」と扉の向こうへ伝えた。扉を開くと、彼が先ほどと変わらず見慣れた表情で待ち構えていた。
「お体はいかがですか、」
と先ほどと同じ台詞を繰り返した。リーゼは、悪くはない、と返した。
ラマンは二度、確認するように頷いた。このまま皆に挨拶しに行くのかと思いきや、一旦中へ、とリーゼを部屋に引き返させた。彼も部屋に入ると入り口の扉を閉めた。
「殿下、彼らは危険を冒してここまで来ているのです。殿下は彼らの忠誠に報いるべきです」
「……しかし」
「まだおっしゃっているのですか!」
リーゼはぴくりと身を震わせて、そのまま黙ってしまった。
「我々を信用しないというなら、それで構いません。ですが、多少なりとも堂々と振舞っていただきたいのです。この先国王陛下の跡を継がれるお方が、ひたすら怯えているだけというのは……、ミスラの将来が不安に思われますよ!」
リーゼは自身が王女であるということを完全に捨てたわけではなかった。これは決して権力とか、そういった欲のためでなく、母や父、そして周囲から王女であることを期待され、リーゼも彼女らの期待を裏切り失望されるのを恐れ自身を王女と規定し、王女たろうとしてきたためであった。とにかく、王女であるという意識を捨てていなかったリーゼは、王国の将来を投げ捨ててまでラマンに反論することが出来なかった。
「陛下も病がちで、いつまで持つかとさえ言われている時に……跡を継がれるお方が、このまま容易く弱みを見せているようでは、周りの国の思うままになってしまいます」
彼は王宮にいたときと変わらぬ調子でリーゼに説教を浴びせかけた。
リーゼは黙って彼の説教を聞いていた。説教が一通り終わると、ラマンはリーゼの様子を観察していた。しまいにリーゼは折れて、彼の言う通りにすることを決めた。今はともかく、これまで彼らがミスラ王国のために尽くしてきたのは確かで、それに対する敬意は示さなくてはならない、とリーゼは受け入れた。
「では、あちらに行きましょうか」
リーゼが自分の役目を理解してくれた、と感じたラマンはリーゼを案内した。やはりこの建物は小さく、扉を二つ隔てた所で彼らは待っていた。
いずれも男が三人、リーゼが姿を現すと椅子から立ち上がって一礼した。リーゼを「迎えに」きたときと同じ顔もあった。その男たちはそれぞれ名を名乗った。
リーゼに近い順に、エドヴィン、ネスター、ルーマーと言った。
「後二人ほど人おりますが、見張りに出ています」
挨拶は全員そろってからにした方が良いのでは、とリーゼが問うと、すぐに交代するだろうから三人にはここで挨拶すべき、とラマンが答えた。
「ミスラのため、その身を顧みず尽くすあなた方に感謝と敬意を示します……」
リーゼが挨拶と共にそう伝えると、彼らも一礼して返した。
「殿下が無事で、何よりです」
とエドヴィンが言った。彼は少し前から王宮に顔を出すようになった親衛隊の人間で、リーゼも彼のことは知っていた。ネスター、ルーマーの二人は彼の部下あるいは仲間であろう。リーゼは彼らと握手を交わすと、彼らに、ここはミスラの領内か、と尋ねた。
「いいえ、まだハイベルクです。まだトヴァリから大して離れていません」
好機だ、とリーゼは思った。距離がさほど離れていないのなら、彼らの目を盗んで逃げだしても、何とかアーベル達の下へ辿りつけるかもしれないと考えた。
「それじゃあ……、この建物は?」
「空き家ですね。ここに潜伏して好機を待っておりました」
余計な努力ばかり、とリーゼは毒づきそうになった。
「トヴァリでの生活では、何か不自由はありましたか?」
とエドヴィンが問うた。リーゼはゆっくりと首を振った。
「いいえ……、皆いい人達ばかりでしたから……」
「なるほど、それはよかった」
エドヴィンはそう言い残すと、見張りの二人を呼びに行った。
リーゼはその後エドヴィンと交代した見張りに挨拶を済ませると、きわめて簡素な食事を与えられ、明日は夜明け前の出発になるからと、部屋に戻って休むようラマンに言われた。彼が部屋の入り口まで付き添ったので、リーゼは部屋の中で脱出の方策を探ることになった。
部屋の中をあれこれ見回してみたが、逃げられるような箇所は見つからなかった。ふとリーゼは廊下の窓が開いているのを思い出した。その代わりに見張りが立っていた。何とか見張りを部屋の前から引きはがせないかと考えていると、軽く扉をたたく小さな音が耳に入った。
リーゼが答えると、ラマンが扉を開け、早くお休みになってください、と言った。他にどうしようもなくなったので、リーゼは小汚いベッドに転がった。しばらくすると、またラマンがやってきて、リーゼが寝たかどうか確認しにきた。リーゼは寝たふりをしてやり過ごした。すると、ラマンと共に、部屋の前の見張りの足音が聞こえ、次第に遠ざかっていった。リーゼはしばらく息を潜め、意を決して起き上がり扉を開けた。本当に見張りはいなくなっていた。リーゼは辺りを確認すると、脱出する窓を見定めた。焦って手間取りながらも鍵を開け、窓を押し開けた。窓枠を何とか乗り越え、地面に足をつけた。
さて馬はどこに停めてあるだろうか、それからどちらに向かえばよいか、とリーゼが考えていると、
「殿下」
と背後から呼び止める声がした。振り返ると、自らが手に持った明かりで照らされているエドヴィンの姿があった。
(見つかった!)
リーゼは狼狽し、意味もなく目を泳がせた。
「何をなさっているのですか? ……まさか逃げようと? 王宮に戻るのがそれほど嫌なのですか?」
「王宮に戻れば処刑されるというのに、喜んで帰るわけがない」
「陛下は、確証もなく処刑をお命じになったりはしません。ましてや、自分の娘なのですから……」
あの人はもう私を娘だなんて思っていない、思っていたとしてもそれは血のつながりを示す言葉以上の意味なんて持っていない、とリーゼは心中で反論した。
「……外にいると、お体を冷やしますよ、早くお戻りになったほうが良いかと」
とエドヴィンは室内に戻るよう促した。リーゼは逆らって街のほうへ目を向けた。街の明かりは遠く、何か叫んだところであの町の者には風音程度にしか聴こえないだろう。
エドヴィンはリーゼが逃げ出すのではないかと思い、傍まで歩み寄ってきた。
「殿下、我々を信用いただきたい。卑俗な身ではありますが……、もし我々のいうことに偽りがあって、それで殿下が刑に処されるようなことがあれば、我々、いいや、少なくとも私はお供しましょう」
「……自分の命をあまり粗末にしないで下さい。余計に信用できません」
リーゼはそこで逃げることを諦めて室内へ戻ることを決めた。逃げられる様子ではなくなったためだ。
エドヴィンはリーゼが出てきた窓から室内に戻ることを提案した。正面から入ると、そこにいる者にリーゼが抜け出したことがばれてしまうのを避ける配慮だった。リーゼは彼の提案に乗った。彼の助けを借りて窓を乗り越えた。
「それでは、良い夜を!」
「エドヴィン、体に気を付けて」
それだけ言葉を交わすと、リーゼは部屋に入った。
エドヴィンを憎らしく思いつつも寝床に入ったが、一人明かりのない部屋に身を置いてみると、再びリーゼの心中は恐怖に支配され、落ち着きを失った。結局この夜はほとんど眠った気がしなかった。




