第1章 #18
あの龍が現れ二日目の夜を迎えようとしていた。空には雲一つなく、焼けた空が夜の色に染まるのがはっきりと見てとれた。そして時は夕方から夜に移り、退魔師たちはいつもの準備を始めた。
退魔師たちはいつもの悪魔撃退に赴く二つの班と、龍の襲来に備えるため非番を集めた一つの班を用意した。リーゼとカノンはいつも通りそれぞれ別の班に従って町の外へ出ることになった。館を出る直前、アーベルがブラトと何か言葉を交わしていた。
「そういうわけで、あの龍が来たときはカノンをそっちにあたらせてください」
「了解したが。だがあまりあいつをおだてて調子に乗せるなよ」
分かっていますよ、とアーベルは頷いてブラトを送る仕草を立てた。ブラトはそこにいたカノンを一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らして館の外へ向かった。カノンも小走りで彼を追った。
「リーゼ、僕たちも行くよ」
リーゼが声のした方を振り返ると、ベルが玄関で呼んでいた。
「あれ、今日はベルも来るんだ」
「ああ、ようやく本当に仲間入りってわけさ」
彼は退魔師として前線に出られることを喜んでいた。リーゼは彼が浮かれているのではないかと心配になった。
いざ悪魔のたむろする、その町の外まで来てベルに言い渡された役目は、リーゼの護衛、つまるところ見学だった。
「今日は戦い方を見るだけにしろ、」
というのがオーブリーの言であった。しかしそれでもベルは特に気を落とすことは無かった。
町へ近づく悪魔と戦う中、たびたび退魔師たちは空を見上げた。もちろん皆気にしているのはあの龍だ。
「今日も月が出ているのは幸いだね」
そうリーゼは隣にいたベルに話しかけた。
「うん……? ああ、暗くちゃあ見えないか」
ベルは一度空を見上げ、そして再び退魔師たちの戦う地上に視線を戻した。
「おお、一体やったな」
そういうベルに見えているのは悪魔が消えるときの閃光だ。リーゼやカノンのように特殊な目を持っていない彼らが直接悪魔を視覚的に認識できるのはこの閃光のみだ。
「僕もリーゼみたいな目があればいいんだけどね」
ベルがため息交じりにそんなことを呟いた。リーゼはあたりを見回し新たに悪魔が出現していないことを確認した。
「いいことばかりじゃあないよ。他人に見えないものが見えるっていうのは。……昔、何かいる、って皆に教えたけど、皆分からなくて変な目で見られたり怖がられたりしたこともあったよ。まあ、ここに来る前に悪魔を見たのは数えるほどしかないけど」
「リーゼは、ここに来る前ミスラの王都にいたんだっけ? 大きな都市なら、守りもしっかりしてるんだろうね」
リーゼが頷くと、遠巻きに見ていたオーブリーが、
「しゃべってばかりいるな、」
と釘を刺してきた。オーブリーはその場で声を上げてリーゼに状況を尋ねた。
「リーゼ、他に現れた悪魔はいるか?」
「いいえ、向こうで戦っているのが最後です」
冷たい風とともにリーゼの頬を撫でる感覚がした。もうすっかり慣れきってしまったこの感覚は、カノンの索敵魔術によるものだ。そしてその感覚が途切れ、十秒ほど間をおいて町の反対側から発光信号が発信された。それは、あの龍が現れたという合図であった。
皆空を見上げ、あの龍の姿を探し求めた。リーゼの横に立つベルも首を回して探している。リーゼはカノン同様索敵魔術を展開した。おそらく龍を発見したのは先ほどのカノンによる索敵魔術だろう。そうなるとまだ龍はリーゼの索敵魔術範囲外かもしれない。そうリーゼは考えたが、それは杞憂であった。リーゼは自身の索敵範囲にしっかりあの龍を捕えた。リーゼはその情報を頼りに、
「あのあたりだ、」
と指差した。しかし、高いところを飛んでいる龍は豆粒以下の大きさにしか見えず、多くの退魔師たちがなかなか見つからないと嘆くことになった。
「ともかく私たちは、残りの悪魔を掃討することに集中する。」
フローリスがそう命令を下すと、退魔師たちはおとなしくそれに従った。
発光信号を飛ばしてすぐに、ブラトはカノンに町に戻るよう命じた。ただカノン一人ではなく護衛(兼目付役)として退魔師グレゴリーを付けた。カノンは町で龍の迎撃準備をしているであろうアーベル達と合流すべく護衛の退魔師と共に夜道を駆けた。昨夜同様非難し始めた町人とすれ違い、町の中心部に二人が到達するころには、姿が明瞭に見えるほどに龍が接近していた。
カノンは撃ち落とせるならあそこで撃ち落とさないといけないと焦った。龍の接近を知らせる鐘が鳴り響き住民の避難が始まったばかりのこの時に、町の中央まで龍の侵入を許すわけにはいかなかった。カノンは前を走るグレゴリーを呼び止め、その旨を進言した。
「町の上に来られたら、撃ち落としたときに町がめちゃくちゃになります。今のうちに一度魔術で……」
余りカノンに好き勝手させるな、とブラトに釘を刺されていただけに悩んだが、グレゴリーは立ちどまってしばらく考えたのち、
「一度だけやってみろ。駄目だったらこのまま行く」
とカノンの魔術攻撃を許可した。逃げようとしている町人が多いこの東中央通りを避けて人の少ない裏の通りから攻撃しようと彼は提案した。ちょうどそこには背の高い建物があり、カノンは龍が建物の陰に入るのではないかと案じたが、龍が天高く上がっていたおかげでそれは全くの取り越し苦労となった。
人前で大仰な魔術を使うことは余りカノンの好むところではなかったが、今はそれを言っている余裕などなかった。索敵の魔法陣を二枚、射撃の魔法陣を挟んで展開する。カノンの前方では魔術攻撃の範囲に町人が入らないようにとグレゴリーが、
「どけ、どけ、」
と叫んでいた。
遠方にはかの龍が宙その場で一回りし余裕を見せている。カノンは索敵術の魔法陣を作動させた。索敵魔術の情報を受けて攻撃術の魔法陣が龍の動きを追う。カノンは刹那呼吸を止め、攻撃術の魔法陣を解放した。
閃光が空を駆け、それは瞬きをする間に星となった。カノンは自らの攻撃魔術から発せられた光でほんの少しの間目が眩んだ。グレゴリーも同様に一瞬視力を奪われ、龍の死活を見届けることができなかった。
視力が回復した二人は龍が滞空していた辺りを見た。龍らしき影が地上へと向かう様が見え、建物の陰に入り見えなくなった。
「成功したようだな。今のうちに合流しよう。回復されるだろうが、時間稼ぎにはなる」
「はい」
カノンとグレゴリーはアーベル達と合流すべく再び走りだした。
あっさりと成功が転がり込んだために、カノンはその結果が信じられずにいた。確かに魔術の設計はうまく行ったと思っているが、それでさらっと結果を手に入れてしまうと、後で、そうではなかった、と覆されるのではないかと怖くなった。しかし同時に、あれはうまく行った、と結果への希望もあった。
ともかく結果を確認しようとカノンはグレゴリーの背中を追って走った。
攻撃魔術の光と落ちる龍の姿はリーゼも確認した。そのことでリーゼは自分たちが龍に対して無力でないのだと少し安堵を覚えた。また、自分たち達が相手しなければならない悪魔の数も残り少なくなってきており、間もなく応援に行けそうだということもあり、何とかなりそうだ、と言う楽観的な雰囲気が徐々に支配しつつあるのもリーゼは感じていた。
「……さらに向こうに2体います」
リーゼが残りの目標の位置を伝えていると、
「本当に見えてるの? 適当に言ってるわけじゃないよね、」
とベルが冗談めかしてリーゼに尋ねた。リーゼは彼の物言いに少しむっとしたが、これで腹を立てているのはみっともなく映るのではないかと思った。
「さっきから見てるだろうよ。ちゃんとみんなそこで悪魔を見つけて倒しているじゃあないか」
「いや、分かってるよ」
彼は笑みを浮かべつつそう言った。彼の視線の先で悪魔が魔術に倒れ、閃光を散らした。
そこで何気に後ろを見ると、ちょうどあの龍が翼を回復し再度飛び立とうとしていた。しかし龍はそのまま天高く飛び上がろうとはせず、地を這うように低く飛んだ。攻撃魔術で撃ち落とされないようにするためだな、学習したな、とリーゼは思った。
リーゼ達は町の周りを時計回りに回り、間もなく半周、すなわちフローリスの班の分担をもうすぐ終えようというところであり、逆に龍は反時計周りに町への侵入経路を捜し始め、龍とリーゼ達は急速に接近しつつあった。
「こっちに来る。……まだ手を出すな」
フローリスはそう言って殺気立った退魔師たちを諭した。リーゼ達がゆっくりと前進する中、龍はあたりを窺うと、町の中心を流れるオスミ川の上を飛び、町の中心、教会を目指して飛んだ。
「追うぞ、」
とフローリスが命じると、退魔師たちはそれぞれ駆け足で町を目指した。彼らは川岸の細い道を一列になって通り抜け、教会へ向けて走った。リーゼはベルと共に列の最後尾を成して彼らに続いた。龍はそのまま川の上を飛び、聖堂の尖塔へ取りつこうとした。しかしその手前で、二発の魔術攻撃を受けてオスミ川に墜落し、白い水しぶきを上げた。
「一体どうしたんだ」
リーゼとベルは立ちどまって龍の落ちた辺りを観察した。水面には大量の泡が噴き出ていた。すると水面が盛り上がり、龍の頭がそこから現れ、教会のある中州に向けて泳ぎだした。
「おい、そこの二人、早く来い」
そう声がした方を振り向くと、すでに皆先を走っていた。ベルが、
「行こう」
とリーゼを促した。リーゼは軽く頷くと先を行く退魔師たちを追って走り出し、ベルがその後に続いた。龍は中州にたどり着くと岸壁を上り教会の敷地に上陸した。
「まずいね、早く行かないと帰る家がなくなるよ。町の人たちと一緒だ」
後ろでベルがそんなことを呟いていたが、リーゼは走っていてだんだんと息が苦しくなって来ていたため一言も返さなかった。
その教会のあたりふと光ったかと思うと、身体を揺らすような建物が崩れる激しい音が響いた。さっそく龍は攻撃を開始したらしい。無論退魔師たちも反撃を始めた。断続的にぽつぽつと攻撃魔術の光がまたたいていた。それを見ながら走っていた退魔師が呟いた。
「あれはひどいことになってるかもな」
リーゼ達が教会に着くころには、その予想通りの惨状を呈していた。聖堂の尖塔や壁は一部崩壊し、入り口付近に瓦礫がごろごろと転がっていた。その瓦礫を避けて、教会所蔵の図書を避難ようと祭司や手伝いがリーゼ達の前を走っていった。辺りを見回したが、教会に身を寄せた町の人が見当たらない。おそらくもう避難したのだろうとリーゼは思った。
退魔師の館の方を振り返ると、こちらも似たような有様で、窓の硝子はほとんどが割れ、壁が一部剥がれ落ちていた。それを見た誰かが、
「俺の部屋がやられた、」
と嘆いていた。
そしてこれら破壊の嵐をもたらした龍はと言うと、中央の広場を挟んで館の反対側で退魔師たちの攻撃をものともせずに大暴れしていた。援護しようとリーゼ達の班がそちらへ向かおうとすると、龍が首をリーゼ達の方へ首を持ち上げ、光の球を発射した。皆散り散りにそれを避け、光の球が地面に衝突すると路面が剥がれる音とともに土煙が舞い上がった。リーゼは土煙を潜り抜け向こうの退魔師たちと合流した。
龍は退魔師たちを脅威だと認識し、退魔師たちを排除することを優先したようで、退魔師たちはかの龍の猛攻にさらされ後退しつつの戦いを強要されていた。
「ああ、こちらに戻ってきたんですか」
アーベルが帰ってきたリーゼ達を見かけて呼び止めた。フローリスが前に出て彼に説明を求めた。
「状況は良くないみたいですけど」
「うん、まったくその通りなんだ。フローリス、君たちはさっそく加勢してくれないか。ああ、少し待ってくれ。その前にいくらか怪我人を運ぶのに人を割いてくれないか?」
それなら、と言うことでフローリスはリーゼとベル、他数人を指名した。リーゼ、ベル、そしてもう一人で怪我人一人を応急の救護所に運んだ。その途中で、リーゼは幾度となく龍へ浴びせかけられる印象的な魔術攻撃を目にした。魔術攻撃を行っているのは二人、カノンとクラウスだった。クラウスの術についてリーゼが見聞することはこれまで無かったが、彼が大司教の座にいることを考えれば魔術が優れているのも当然かと理解した。しかし龍はその翼、身体を小さく畳んで魔力での守りをより強固にしており、クラウスらのその攻撃も全く効果が無いように見受けられた。一方龍は退魔師たちの魔術攻撃、特に強力なクラウスらの攻撃、その間を縫って腕や尻尾で退魔師たちを攻撃した。リーゼ達が運んだ男の退魔師も、振りかぶった腕の爪が両足を引っかいて出血を引き起こしていた。彼はそれで立てないでいたのだ。
また、リーゼ達は彼を運び込んだ救護所で、医者にで怪我の処置の手伝いを頼まれた。
「済まないが、聖水を持ってきて、それで傷口を洗ってやってくれないか」
「はい」
断る道理もなく、リーゼは頷いた。ベルが彼を寝かせている間にリーゼは箱から二瓶聖水を取りだし、怪我人の男の傍へ持って行った。彼はズボンをはいていたので、傷口の処置のためリーゼとベルそれぞれ片足ずつハサミでそのズボンを切った。血が流れ出る傷口が露わになると、リーゼ達はそこに聖水を駆けようとした。すると医者がそこで止めて、
「ああ、待った待った。……あとは私がやるから、お前さんたち、今度は包帯を持ってきてくれ」
医者の言う通りに包帯を取りに行き、いざ届けようとしたとき、すぐ外で閃光と衝撃音が響いた。その衝撃で応急の救護所の中は一瞬恐慌状態になった。例の光の球による攻撃が来たのかとリーゼは思ったが、どうやら龍の魔力バリアが退魔師の魔術攻撃を弾いて、それが流れ弾としてこの辺りまで飛んできたらしい。
「ここも危ないかもしれんな」
医者が外の様子を気にして呟いた。外からは微かに石の焼けるような焦げ臭さが漂ってきていた。リーゼは中へ戻ってきた医者に包帯を手渡した。それからリーゼは医者があれこれ言うのに従って彼を手伝っていた時だ。
「ああ、ありがとう。……ところで、もう一人の、男の方はどうしたんだ?」
そう言われリーゼは辺りを見回すと、確かにベルの姿が見当たらなかった。医者はすでに彼のことは忘れて傷を負った退魔師の治療に戻っていた。医者が器具を鳴らす音に混じって、外で何か金属がぶつかる音が聞こえた。
リーゼが外に出てみると、ベルが剣を携えて退魔師たちが戦っている方へ向かおうとしていた。
「どこへ行く気なんだ?」
リーゼは今にも向こうへ向かおうとするベルの腕をつかんで呼び止めた。
「決まってるじゃないか。僕も一緒に戦うんだ」
ベルはあっさりとそう言い切った。リーゼは、危ない、と言って首を振った。
「あんなものに敵うわけがないよ」
「でも、みんな戦っている。カノンだって。なら僕だって何かやってやるさ」
ベルはそういうと向こうへと歩き出した。いくら何でも無茶が過ぎる、と思ったリーゼは彼を追って引き留めようと説得を試みた。
「まだ怪我人は来るよ。先生の手伝いは残ってる」
「でも、このままじゃあ怪我人が増えるばかりだよ。……それは、僕一人がいった所でどうにかなると思っているわけじゃあないよ。でもこのまま見てるだけっていうのは嫌だ」
彼はそう言うと再び戦場へ向けて歩き出した。彼のその背中を見て、前にアーデルハイトが、
「男の子って、無意味に無茶をするものなんでしょうか、」
と言ったのをリーゼは思い出した。その時自分は何て答えたのかリーゼは思い出せなかった。その時は別の事を気にしていて、適当に受け流したのかもしれない。
リーゼは医者の下へ戻り、
「呼ばれたので、そちらへ行ってきます」
と断りを入れた。医者は頷き、
「ああ、こちらも一段落着いたところだ、構わん」
と言ってリーゼを送り出した。リーゼは走ってベルを追いかけた。追い付いたところでベルが、
「どうしたんだ? 僕一人だからって心配になって来たのか」
と尋ねた。
「違う、いや、君だけじゃあなく、カノンや他の皆も心配だから、少し見に行こうと思ったんだ」
リーゼ自身、自分の預かり知らぬところで何か、特に不幸なことが起こることは嫌だった。少しでも状況に関与したい、という強い欲求があった。それはベルも同じだったのかもしれない。




