第1章 #14
自分の名前を呼ばれて目を覚まし、リーゼは自分がいつの間にか眠っていたことに気が付いた。
「リーゼ、時間だよ、もう行かないと叱られるよ」
リーゼにそう告げると、カノンは自身の身支度を始めた。そのカノンの動きがいつもより手際よいように感じた。どうもカノンの気分自体が上向いているようだった。
リーゼはコートを身に着けるとカノンの後に続いて外に出た。冬の厳しい寒さはまだまだ続く様相で、コートを着ていてもなお寒かった。風が頬にあたると刺すように痛かった。
そしていつも通り二手に分かれ、リーゼ、カノンがそれぞれの組で補佐をし、悪魔を町から祓う。この日もこれを一人も欠けることなく実行することができた。しかし、その最中、リーゼはたびたび背中を撫でられるような奇妙な感覚に数度襲われた。ただ気味の悪いものでなく、むしろ慣れ親しんだような感触だった。リーゼは帰り際にフローリスに尋ねてみたが、彼女はリーゼが感じたような違和感は覚えなかったようだ、
館には先にカノン含むもう片方の組が帰ってきていた。解散して部屋に戻ると、すでに戻ってきていたカノンが魔術で部屋を暖めていた。
「おかえり、寒かったでしょう? どうかな、ここは暖かい?」
「暖かいよ、ありがとう」
カノンは魔法陣を閉じて暖房の魔術を止めた。カノンは魔術を展開するのに力を使ったからか、疲れた顔をしていた。
「疲れた? やっぱり部屋を暖めるのは大変だろう?」
「え……ううん、それだけじゃなくて、今日は『あれ』も試したから」
「『あれ、』って何?」
そうリーゼが問うと、カノンは得意げな顔で説明した。
「広い範囲の悪魔を探し出す魔術よ。ずっと遠くにいるのも、裏に隠れているのも探し出せるのよ」
「……へえ、私もできるかな? 教えてよ」
「ううん……明日でいいかな?今日はもう寝ようよ」
わかった、とリーゼは頷き、明かりのロウソクを消し二人はいつもの質素なベッドに入った。少しの間だけ沈黙が訪れた。風を受けた窓がカタカタと音を立てた。
「リーゼ、訊いていい?」
暗い部屋の中で、突然カノンの声が響いた。
「何?」
「アーベル司教と、何を話していたのかな、って」
「それは秘密だって言ったじゃないか……。強いて言うなら、あのアルザスのことだよ」
いっそのこと、今ここで、カノンにだけ、自分が隣の国の王女のリーゼであると話してしまおうかともリーゼは思った。ついこの間まて全くそんなことは考えなかったのだが、アーベルと話をしたせいで妙に意識していたのかもしれない。
しかし最初の一声を出そうと思ったところで息が詰まって言い出すことができなかった。リーゼは自分の臆病さにつくづく嫌気がさした。
しばらくリーゼは枕に顔を埋めていたが、話してしまおうという気が訳もなく盛り上がり、間もなくリーゼはベッドから飛び上がった。
「カノン、明日――」
全部明日話すよ――、リーゼはそう言いかけたが、向こう側のベッド中のカノンが動かないのに気付き声が止まった。彼女は向こう側を向いて静かに寝息を立てていた。
強張ったリーゼの肩から生気が抜ける感覚がした。力が抜けたリーゼは再びベッドに倒れ込んだ。
翌朝、起きて一番にリーゼはカノンに自分のことについて正直に告げようと思った。話すことを整理しようとして、その時に新たな恐怖を覚えた。カノンが自分を無実だと信じてくれなければ、彼女の中で自分が妹を殺そうとした人間になってしまうことだ。カノンは自分の言うことを信じてくれるだろうか、信じてほしいと願うのはただの甘えだろうか、などと思索しているうちに、言う機会を逃してしまった。
混沌とした思考が頭の中をぐるぐると巡り、館の皆の食事を準備している時も、館の中の掃除をしている時も、時々ぼーっとして手がつかなかった。おかげで、「怠けているぞ」と注意されることになった。
普通の少女、しかし偽りの自分であるリーゼ・ジオニアのままでいるか、厄介な事情を背負った、それでも本当の自分であるリーゼ・マーキュリウム・ミスラだと晒すか、と言うこと自体が一番の問題ではない。それによってカノンとの関係がどのように変化するかが問題であった。友達に対して秘密があってもいいのか、それとも秘密を晒した方がより友達と言えるのか、それ以前に自分とカノンは友達なのか、そもそも友人とは何だろうか。
そんなふうに今更あれこれ考えてみたが、彼女に話さないでおくという選択肢に至ることはなかった。
午後になって一通りの雑務を終えたリーゼは、カノンに索敵の魔術を教わることになった。とりあえずカノンが実演してくれたのだが、リーゼには何が起きているのかほとんど分からなかった。しかし、カノンが実際にその魔術を発動させたとき、昨夜リーゼを襲ったのと同質の感触を背中に覚えた。なるほど、昨日のあれはカノンのこの魔術だったのだろう、とリーゼは納得した。一応、確認のためにリーゼはもう一度カノンに今の魔術を使うよう頼んだ。
「もう一度? いいけど……」
不思議がりながらもカノンはもう一度魔術を見せてくれた。それでリーゼは例の感触はこの魔術によるものだと確信することができた。リーゼはその感触のことをカノンに伝えた。すると彼女は少しうろたえて確認するように辺りを見回した。
「もしかして、みんな気付いてるのかな……。昨日使った時はみんな何も感じてないみたいだったけれど……」
「私が知っている限りだけど、私以外誰も感じなかったみたい。……何か困ることがあるの?」
「ううんと……、寝ている人が気づいて起こしちゃったら悪いし……、それと、……人が集まって静かにしているとき大きな音を立てたみたいで、ちょっと……嫌かなぁ……」
「ああ、分かる気がする……。でも、みんな気付いていないみたいだから、心配することはないと思うけど……」
カノンは考えるそぶりを見せたが、リーゼにその魔術を教えるという当初の目的を思い出し、とりあえずこっちを先にやろう、と言った。
魔術を教わる、と言ってもただそっくり模倣すればいいというものではない。使用者個人の特性に合わせて術式を改変させなければならない。必要な改変が加えられた式を、魔術特性式と呼ぶ。また、個人の習得できる魔術はこの特性式が組み立てられるものだけだ。この部分、すなわち、どれだけの範囲の魔術と相性がいいか、が個人の魔術使いとしての適性を左右する。
この術式の改変と言うのが、リーゼにとっての鬼門だった。リーゼの魔術特性は魔術との相性が悪いというわけではなかったが、大多数の人間のそれと大きく違うため、非常に術式が複雑になり、魔術の習得が困難だったのだ。おかげで、リーゼの魔術の能力は、もともと魔力を最低限しか持っていない人間のそれに毛が生えた程度のものであった。
それで、今回もうまく行かないだろうとリーゼは考えていた。
しかし、二人で術式を弄るうちに、今回は事情が異なるということが分かってきた。カノンの使っていた術式を改変しようと手を付けたのだが、覚悟していたのとは裏腹にその式をリーゼに合わせて改変するのが容易な構造だったのだ。組み入れるべき複雑な魔術特性式の一部があらかじめ入っていたのである。リーゼは驚いてそれについてカノンに尋ねた。
「ええと、これは……、わたしに合わせただけなのだけれど……。たまたまリーゼの魔術に必要な式と似ていたんじゃないかな」
「……カノンは魔術を覚えるのに苦労しなかった? 私は、自分に術式を合わせるのがとても難しかったのだけど」
カノンは、そんなことはなかったよ、とかぶりを振った。魔術特性式が類似しているということは、その二人の魔術的な性質が似通っているということである。なぜ魔術的な性質が類似しているリーゼとカノンの間で魔術の習得の困難さが違うのか、二人はしばし話し合った。
「私たちの魔術特性式には、他の人にない部分があるみたい。そこが問題になってるんじゃないかな」
「でも、カノンのは簡単に組み込めるのは、どうしてだ?」
リーゼの疑問に答えようと、カノンは手元に自分の術式を走らせ何度も見返した。
「うーん、私の特性式はあまり難しくないんだよね……。なんて言うんだろ……、私の特性式をうまく使うと、リーゼの特性式が簡単になるのよ」
リーゼには良く分からなかったが、リーゼの魔術がカノンの魔術を元に変形することで大きく向上するだろう、という希望が持てた。
さっそくリーゼは今完成した悪魔を探し出す魔術を使ってみることにした。トヴァリの町の外周まで魔術の効果範囲は及んだ。もちろん昼間のこの時間帯に悪魔を見つけ出すことはできなかった。リーゼはさらに範囲を広げてみたが、リーゼの魔術量で維持できるのは町の周りまでの範囲だった。
リーゼが魔術を展開するのを止めると、魔術が成功したことに喜んでいるカノンが目に入った。
「よかった、よかった。……ところで、私もリーゼの魔術が発動したときに……、リーゼが言ってたのと同じだと思うけど……、変な感じがしたの」
この魔術を使ったときにリーゼが感じた感触を彼女もまた感じ取ったという事実を、もっと他の人間で確かめたいとリーゼは思った。たまたま近くにいたベルを呼び、カノン、リーゼの順にそれぞれ悪魔を探し出す魔術を彼の目の前で使用した。しかし彼の反応は乏しかった。
「特に、何もないけど。その魔術は何をするんだい?」
「うん、ベルは気にしなくていいよ、時間取ってごめんね」
ベルは怪訝そうな顔をしながらも、先ほどまでの場所に戻って剣の素振りの繰り返しを再開した。
「もっと他の人にも訊いてみようか」
そうカノンは提案した。特に断る理由はなかったので、リーゼも頷いて返した。しかし、他の退魔師からアーベル司教に渡るまで尋ねてみたものの、誰一人としてあの魔術から何かを感知した人間はいなかった。
リーゼとカノンは、この現象が起こるのは自分たち二人にだけだ、と結論付け、これについては気にしないことにした。
不思議だね、とカノンが呟いた。
「私たち以外誰も気づかないなんてね」
「いや、探せば他にもいるだろうけど……、確かに、変だ」
空を見るとすでに日が傾いていた。そこを流れる雲をみて、リーゼは昼前までカノンに告白しようとしていたことを思い出した。退魔師の仕事の時間が迫っていたので、今更迷っている時間はなかった。
「カノン……、少しいいかな。……できれば、人気のないところで話したいのだけど」
カノンは驚いた表情を見せたが、どこか察していたような雰囲気も見せていた。
時間との妥協の末、話す場所として選んだのは、結局館の中の二人の部屋だった。
「それで、お話ってなに? 早くしないと、町の外に行く時間になっちゃうよ」
リーゼは頷き、カノンに正対した。カノンはきょとんとしつつもその眼はリーゼをしっかりととらえていた。さあ話そうと内心意気込んだが、話の切り出し方にリーゼは迷った。最終的に、他の人には話さないでほしいのだけれど、と前置きして切り出した。
「私、本当は、逃げ出した元使用人なんかじゃあないんだ。私は……国に追われている、お馬鹿な王女、リーゼ・マーキュリウム・ミスラ」
カノンは驚いた様子もなく、リーゼの正体の告白に頷いた。
「知ってたよ。隣の国の王女様だよね」
え、と思わずリーゼは声を上げた。
「ごめんね。リーゼが持ってた、あのアルザスっていう人のノート、少しだけ勝手に見ちゃった」
カノンは僅かな時間だけ後ろめたそうに目をそらしたが、すぐにリーゼの方を見据えなおした。リーゼは何も言えずカノンの口から次の言葉が出てくるのを待った。
「本当に、リーゼ、あなたは、あのリーゼ・マーキュリウム・ミスラなの?」
リーゼは無言で頷いた。
「リーゼがあのリーゼ王女だとして、召使いを使って妹に毒を盛たって、それは本当の話なの?」
「それは濡れ衣だ。私は、私も、彼女たちもそんなことはしていない! ……カノン、其方には信じてほしいんだ……」
「犯人は別にいるっていうこと?」
リーゼは頷き、立ちすくんだまま信じてほしいと哀願した。カノンはしばらくの間沈黙した。その沈黙から次の言葉が放たれるまでの間は、リーゼは次に振るわれる鞭を待つような気分であった。
「わたしは……、リーゼのことを信じるよ。今まで一緒に、寝食を共にする、っていうのかな、……そう、してきて、リーゼはそういうことをする人じゃないと思うの。」
リーゼははっとしていつの間にか下を向いていた顔を上げた。
「……それに、わたしはあのノートを盗み見して、先に知っちゃったけど、リーゼが正直に自分から話してくれて嬉しい。だから、信じるよ」
カノンの口から簡単に自分の望んでいた言葉が出てきたことにリーゼは驚き、それと同時に、落ち着きのなかった心情がどこかに繋ぎ止められた。
「本当に信じてくれるのかい?」
うん、とカノンは頷いた。
ありがとう、と、他の言葉が浮かばなかったリーゼはぎこちなくそう答えた。
「ううん、どうってことないよ。……でも正直、リーゼがあの王女だってあのノートで見たときは驚いた。だって、全然王女様っぽくないんだもの」
「同じ人間だもの、王女だからってそう変わらないよ」
確かに、とカノンは笑って頷いた。
「そんな恰好じゃあ、誰も王女だなんて思わないよね」
カノンの声が少し大きいと感じたリーゼは、聞こえるから静かにして、と頼んだ。カノンは、あっ、と口を塞ぐ仕草をした。
「ごめんね、これは秘密の話よね」
どこか可笑しかったのか、カノンはくすくすと笑った。リーゼもつられて笑みをこぼした。リーゼがカノンに自分のことを話す前と後で、二人の関係がほとんど変化しなかったことに、リーゼは安堵した。
それから他愛もない話をしているうちにすっかり外は暗くなった。退魔師の仕事へ向かうためリーゼは部屋から出ようとした。しかし、同じく退魔師の仕事の準備をしていたカノンに呼び止められた。
「リーゼ、ここで気分を悪くするようなことを言うけど、……一つだけ覚えておいてほしいことがあるの」
リーゼはぎくりとして体を強張らせた。いったい何が彼女の口から飛び出すのかと身構えた。カノンは耳打ちするように体を近づけ、小さな声で話しはじめた。
「ここには、わたしもだけど、バーゼルとミスラの戦争に巻き込まれて、いろいろあってここに来た人がいるの。例えば、ベルもそうよ。……それでね、わたしは全然、リーゼがミスラの王女だったからって気にしたりはしないけど、……その、やっぱり、ミスラ王国、王家のことをよく思っていない人もいるから……。ううん、とにかく、迂闊なことはしないで、って言いたいの。……もう一度言うけど、わたしはリーゼがどこの家の人だからって気にしないからね」
全て話し終えたカノンはリーゼから体を離し、リーゼを先に送り出す仕草を見せた。
分かったよ、とリーゼは短く答え、リーゼは部屋を出た。
確かに、あの戦争で何かを失った人がミスラを憎むのは、仕方のない、当然のことだ。そこまではいいとして、それに対して、今の自分はどうすればいいのだろうか、とリーゼは悩んだ。
リーゼ自身、バーゼル側の人間に母親を殺されているし、それが戦争のきっかけにもなった。
そのことも余計に頭を混乱させ、リーゼの見るべき方向は全く定まらず、何の答えにも至らなかった。




