第1章 #13
「まあ、掛けなさい」
自室にリーゼを呼び入れたアーベルは、とりあえず茶を振舞った。その茶がちょうどいい温度になるのを待って話を始めた。
「さて、僕は君のファミリーネームを『ジオニア』だと記憶していたのだが……彼は何と言った? 『リーゼ・マーキュリウム・ミスラ』と言った。名前しか合っていない。でも君はそれに応えた」
リーゼは彼から目線を動かさずじっと黙っていた。
「きみの口から説明してほしいな」
リーゼは問い詰められているようで――いや実際そうかもしれないが――内心びくびくしていた。しかし同時にリーゼは自分の身の上について黙っていれば状態がより悪くなるということを理解していた。
「私は……、私の名前は、リーゼ・マーキュリウム・ミスラ、です」
「うん、それが本当の名前……、おおかたの事情はわかっているつもりです。……ところで、殿下とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?」
「いいえ、今まで通りで構いません……」
「……そうかい、じゃあ本題に移ろうか」
アーベルはカップに口をつけて一呼吸置いた。彼の次の言葉をリーゼはじっと待ち、それに身構えた。
「……私が確認したいのは、そう……君が妹のアーデルハイトを殺そうとしたという話なのだけれど――、これは本当なのかい?」
「あり得ません!」
リーゼは前に乗り出して叫んだ。リーゼはその体勢のままアーベルを睨みつけて硬直していたが、はっとして椅子に掛けなおした。
「それは、これは……。罪をなすり付けたかったのか、私を陥れたかったのか、それとも両方なのか分かりません……。とにかく、私がアーデルハイトを殺そうとするなんてあり得ません。私の、たった一人のやさしい妹なんです。こんな私でも、慕ってくれた――」
アーベルはうんうんと二度頷いた。
「わかった、わかった。……とりあえずリーゼ、君を信じることにしましょう。……それで、問題は、ミスラ王国は君を捜しているだろうことなんだ。……表向き、まだミスラ国外は捜索していないようだけど……。そう、『表向き』……。向こうももう君がのん気にミスラ国内にいるとは考えていないだろう。……そう、それで、いつここにも手が及ぶか分からないという話なんだ。もしかしたら、ここに礼拝に来る人の中に探りが紛れているかもしれないんだよ」
リーゼはぎくりとした。自分がここに逃げ込んでいることが既に知られているという恐怖に駆られたのだ。
「信じる、といったからには、君のことを守ってあげたい。しかし、完璧にはできない」
「わかっています」
「何かあった時、あなたのせいで、周りの人間に危害がおよぶかもしれないということも?」
そこでリーゼは答えに窮してしまった。突然の質問だったからではない。その問題について考えることはあったのだが、結局はリーゼ自身の臆病さのために、その問題に向き合うことはなかった。
「すまない、これは意地悪な質問だったね。いや、まあ、……山奥に一人で住むのでもない限り、君がどこに行っても付きまとう話だから。……まあ、この館の外を歩くときは気をつけて、としか言えないね」
「……追い出すつもりではなかったのですか?」
「いや、言ったじゃないか、ここではないどこかでも君はいずれ追われる。それならむしろ、君自身はここにいた方が安全だと僕は思うよ。」
アーベルの視線が俯くリーゼに注がれていた。リーゼの反応を窺っていたのだろう。リーゼは顔を上げ、溜めていた息を小さく吐き出し少しばかり安堵したような表情を見せた。
「ありがとうございます」
「それから、君の身の上についてはまだ秘密にしておいた方がいいと思うよ。この館にいる一人一人を信用していないわけではないけれど、秘密は思わぬところから漏れるものだからね。ああ、君、すでに誰かに打ち明けてはいないかい? たとえばカノンに」
リーゼは首を小さく横に振った。
「いいえ、まだです」
「そうか……」
そこでアーベルは立ち上がり、考え事をする仕草を見せながら部屋を横に二往復ほどした。彼は本棚の前で立ちどまり、リーゼに向きなおった。
「それで、これからどうします?」
「どう、とは?」
「君は、無実だと示したいのでしょう」
リーゼは少し沈黙をおいて、「はい」と答えた。
「しかし、……何をしたらいいか……」
「王国の方に頼れる人は? たとえば、妹の……」
リーゼは二度頷いた。
「そう、そうです。アーデルハイトに手紙を書けたらいいと考えていました。しかし、決心がつきませんでした。中身を誰かに見られるかもしれないですから」
「ほかに頼れる人は?」
リーゼはそこでふたたび俯き沈黙した。
「そうか……。まあ、君の評判は良くないみたいだし。……いや、僕は君のことを悪く思っているわけではないよ」
「大丈夫です……。自分の人格の、悪いところくらい、なんとなくわかります」
「ほんとかい?……まあ、いいでしょう。とりあえずアーデルハイト殿下に手紙を渡す方法を考えていくことにしましょうか……」
そういってアーベルは話を終わる雰囲気を見せた。
「まあ、できれば君の口から王女だっていうのは知りたかったですね。……今更ですが。まあ、もう一度言いますけど、外に出るときは注意を……。そうだ、そういえば、どうして偽名にせずに『リーゼ』という名前を使い続けたのですか?」
リーゼは飲んでいたお茶のカップを置き、一呼吸ついてから口を開いた。
「よくある名前ですし……。この町にも同じ名前の人が結構いることをカノンから聞きました。逆に怪しまれないかなと思って。それに……、お母様が付けてくれた名前ですから」
「ええと……名前はナスターシャといったかな? 彼女は確か……」
「亡くなりました。……バーゼル国内の過激派に襲われたと聞かされています」
ああ、とアーベルは何かを思い出した素振りを見せた。
「そうだね、あの戦争にはそんなきっかけがあったね」
あの戦争とはもちろん、ミスラとバーゼルの戦争のことだ。
「あの時、私も一緒にいたようなのですが……、あの時のことは全く覚えていないんです。」
「その時のショックかなにかで、覚えていないのでしょう……。ああ、嫌な話をさせてしまいましたね」
「いいえ、大丈夫です。あと……ありがとうございます」
「うん?」
「ここに置いてくれることです」
「ははは、二度もいいよ」
リーゼはアーベルに一礼し彼の部屋を出た。
廊下は人気がなく静まり返っていた。この館の退魔師の多くは、昼の間は普通の仕事に行っているのだ。人のいない廊下を抜け階段を上がると、カノンがベルと共に二階の廊下の掃除を始めていた。
「あれ、お話は終わったの? 何の話をしてたの?」
「ううんと、それは、秘密かな……」
カノンは、面白くない、と言うふうに頬を膨らませた。
「少しぐらいわたしにも話してよ、もう……。あ、それより手伝ってくれる?」
リーゼは、「わかった」と頷いて部屋に戻り、掃除をする時のエプロンを着け、再びカノンのところへ戻った。リーゼは廊下の反対側を指した。
「私、向こう側をやるね」
「うん、わかった」
リーゼは掃除中、反対側にいるカノンのことをたびたび気にした。アーベルは「秘密にしよう」と言ったけれど、カノンに自分の正体を黙っているのが後ろめたいという気がだんだんしてきたのだ。カノンをだましている気がして居心地が悪い。もちろん他の皆についてもそうだったが、カノンと一緒にいることがほとんどだったからだろうか、彼女に対しては特に強くそう感じていた。
掃除をしてその居心地の悪さを誤魔化しているうちに、反対側からやってきたカノンと出会ってしまい、二階の廊下の掃除は終わってしまった。
次は一階の掃除をするのかとおもったが、ちょうどそこでベルが二人を呼びに来たのだ。彼をみて、カノンは、しまった、という表情をリーゼに見せた。
「ああいけない、忘れてたわ、もうお昼の準備をしないと……、怒られちゃう」
「もうすぐ時間だよ、二人とも急いでよ」
リーゼとカノンはベルの後ろについて階段を降り、皆の食事の準備に向かった。
幸い今日ここに残っている退魔師は少なかったので昼食の準備にさほど時間はかからず、昼食の用意が遅れてリーゼたちがお叱りを受けるということはなかった。
「今日はみんなお休みの日じゃなくてよかった……」
三人での食事が始まると、カノンがそう呟いた。
「リーゼが来る前、僕とカノンと……前の人がいた時に、一度あったんだよ……。あの時は大変だった」
「あれはわたし達だけのせいじゃないのに……もうっ! 思い出すだけで嫌になっちゃう!」
「ひどく怒られたからね」
ベルがそう笑って話すと、つられてリーゼも笑顔になり、カノンもそれに続いた。
皆の食事の片づけが終わるといつもなら休息の時間なのだが、今日はまだ掃除すべき場所が残っていた。その残り箇所の掃除を終えると、カノンは魔術の練習をすると言って聖堂地下へ行ってしまった。リーゼはそこまで特別にすることはなかったので、借りていいた本を返すついでに図書室で時間を過ごすことにした。
返す本を抱えて館の廊下を歩いているとき、ふと中庭の方を見るとベルが体を動かしているのが見えた。おそらくはこれから剣の練習をするのだろう。何とはなしにそんな彼の姿が目に留まり、リーゼは中庭に出て彼に声を掛けた。
「調子はどう?」
「まだ何もしてないよ。さっき掃除が終わったばかりだからね」
ベルは激しい運動をする前準備に体を軽く動かしていたところだった。
「これから少し走ってくるんだ……やはり体力が必要だからね」
「大変だね」
「いや……体を動かすのは嫌いじゃないからね」
体をほぐし終えたらしいベルはふっと短く息を吐き出すとリーゼの方を向いた。
「しかし、リーゼがうらやましいよ。僕も君みたいに退魔師として早く戦いたいよ」
リーゼは首を横に振った。
「ううん、危険なこともあるし、いいことだけではないよ。それに、私は後ろで見ているだけだから」
「危ないのは知ってるよ。でも、僕は退魔師になるためにここに残ったようなものだからね……。いつまでも見習いは嫌だ。……じゃあ、僕は走ってくるから……うん? どうしたの?」
「ううん、……私にも剣を使えたらな、って思っただけ」
「へえ、それならさ、リーゼもこの時間剣の稽古をしない?」
「私が本当にやる気になったらね」
ベルが中庭から外へ走り抜けていくのを見届けると、リーゼは当初の目的地であった図書室に向かった。
今日の図書室の受付担当である若い助祭に話しかけて借りていた本を返し、リーゼは新しい本を探した。例によって数学や魔術、語学などの本を本棚から取り出し、椅子に座ってしばらく眺めて借りるかどうか決めた。新たに借りる本が決まったら例の助祭に貸出カードと本を見せ、貸し出し手続きを終えた。
リーゼは自分とカノンの部屋に戻り、時間を確認した。まだ退魔師の仕事の準備をするには早い時間だった。時間に余裕があると思うと、朝の気だるさがぶりかえしてきた。早朝のうちにアルザスの事件を片付けて、それからお昼をして、思い出せば今日は長いな、とリーゼは思った。
ともかく気だるさに襲われたリーゼは、椅子に倒れるようにして座った。リーゼは机に顔を乗せ、時計の針が進むのをぼんやりと眺めた。
時計の針を巻き戻し数時間前、昼食前にあたる時間。アーベルはクラウス部屋を訪ねた。クラウスアーベルに目をやる暇もなく、書類に目を通していた。アーベルは彼の机の前に立ち尋ねた。
「リーゼは話してくれましたよ……。それで、どうしますか、彼女の件ですが」
「今のまま様子見だ」
クラウスは書類から目を離し、短くそう言い切った。
「何もしない――いや、彼女が来てからこれまでの間、何もしてこなかったのですか? あなたは彼女が追われる身の王女だと知っていましたよね」
クラウスは書類を机の端に置き、机の上で手を組んだ。
「知っていた、知っていたとも。しかし、彼女にはもっと複雑な事情が絡んでいる。それは我々教会にとっても、帝国にとっても重要なことだ」
「もしや、あの〈銀の心臓〉が関係しているのですか?」
「その通りだ。……それゆえに、迂闊に手は出せない」
「いったい、その〈銀の心臓〉とは何なのですか」
クラウスはしばし考え込んだ後、中空を見つめて固い表情のままこう答えた。
「言うなれば、扱いきれない強大な力、と言ったところだろうな。……これも神の与え給うた試練か、あるいは好機か……」




