第1章 #12
「中に入った者たちは、どうしました?」
アーベルは普段通りの穏やかな目つきで、しかし威圧するようにそう問いながら彼を見ていた。
「奥で眠っているだけだ……。なるほど、反応が消えたと思ったらそういうことか」
「あなたを捕えさせてもらいます。……無理ならあなたごと浄化、消滅させます」
アルザスはリーゼを一瞥した。
「悪いが、そうはいかない」
枯草が踏みつけられるような音がリーゼの耳に入り、辺りを見回すと、先ほど戦ったのと同じ型の悪魔が十体近く出現していた。
「〈銀の心臓〉の力、その一部だ」
見ると、煌々と光る物体が彼の首から提げられており、それが〈銀の心臓〉であるとはっきりわかった。今出現している悪魔に力を与え、奴らを支配しているのは、おそらく彼の胸のあたりで光るあの〈銀の心臓〉だろう。
「ここを通してはくれないか。……そうすれば何もしない」
〈銀の心臓〉から発せられる光が、リーゼの目のあたりを何度もちかちかと照らしており、眩しく感じた。
いや、その光はリーゼの全身を走査していた。その光がリーゼの胸の上で静止すると、とたんに〈銀の心臓〉から全方位に眩い光が放射された。周囲にいた悪魔はその光で焼かれ、崩れていった。そして〈銀の心臓〉は放物線を描いてリーゼの胸へと飛び込んできた。リーゼはすんでのところでそれを胸の前で捕まえることができた。
「真の主を認識したのか……!?」
アルザスは目を見開き〈銀の心臓〉を持つリーゼの手と顔を交互に見た。真の主とはどういうことだろうか。その疑問を考察する間もなく、アーベルが彼を捕獲する術を展開した。魔術による鎖が彼の手足に絡みついた。アルザスは体から魔力を放出し、その鎖を破壊した。しかし彼が動き出す前にアーベルの魔術は彼の体を突き飛ばした。そして彼が聖なる言葉を唱えると、彼は光に包まれ、その光によって捕縛されてしまった。アルザスはその捕縛を解こうとしたが、彼の手足は完全に固定され、先ほどの鎖のように魔術で壊すこともできなかった。そしてその術は彼の力――悪魔との契約で手に入れた、人間としての彼に由来しない魔力――をも奪っていくものだった。
「すぐに中にいたブラトさんたちもこちらに来ますよ……。いい加減観念しましたか?」
アーベルが言う通り諦めたのか、アルザスは一度目を閉じた。それを確認したアーベルは、カノンに屋敷の中に行きブラトたちを呼ぶよう指示した。
カノンが屋敷の中へ入ると同時に、アルザスは口を開いた。
「リーゼ……、リーゼ・マーキュリウム・ミスラ……」
リーゼは目を見開いて彼を見た。そして一度横にいたアーベルを見た。おそらく彼にはアルザスが王家の名前を言うところまで聞こえているだろう。アーベルは表情を変えずアルザスに対して注意を向けたままであったが、少しの間だけリーゼに目が向けられた。しかし彼はその口から何の言葉も発さなかった。
「……私の懐に、手記がある。〈銀の心臓〉と一緒に、持ってゆけ」
リーゼが歩き出すと、「罠ですよ、」とアーベルが止めさせようとした。
「他意はない。……どうせこの後私は滅されるのだろう?」
リーゼはそろりそろりとアルザスに近づき、彼の正面に立った。
「コートの中だ」
リーゼは彼のコートの内ポケットがあるだろう場所に手を伸ばした。彼は磔にされていたので、思い切り手を伸ばしてようやくそこに届いた。確かにそこには手帳のような感触があった。リーゼはそれを勢いよく引き出し、後ろへ下がった。その手帳は、一見するとずいぶんとぼろぼろに劣化していたが、中身の紙はいまだ十分に普段の使用に耐えうるものであった。彼によって書かれた文字もはっきりと読めた。それを確認すると、リーゼはその手記を、彼から戻ってきた〈銀の心臓〉とともに自らの懐にしまった。
そこへ、彼が〈銀の心臓〉の力を使って呼び出された悪魔と屋敷の中で戦っていたであろうブラトたちが戻ってきた。
「ああ、終わったのか」
アーベルはブラトに、魔法で縛り付けられている男を改めて普通に縛り上げるように命じた。ブラトと数名の退魔師は、アーベルの体を包む光の上から縄で縛り上げた。無論その光はブラトらに影響を与えない。
「どうするんだ」
アルザスは悪魔と契約し、その力を行使していた咎で悪魔ごとを浄化、すなわちなんらかの死罰を実行しなければならなかった。
「人気もありませんし、ここでやりましよう」
そういうわけで、彼への刑は、クラウスから任されたアーベルの決定によりここで行われることになった。しかしいつもやる火炙りの方法はとられなかった。火炙りは見せしめのためだから、とか、何より周りの枯草に燃え移るといけないとか、諸々の理由もあったが、「悪魔と契約しながらなお人格を保っている彼への慈悲」としてアーベルは最終的に火刑を避けることにした。
そして最終的に剣で突き殺すことが決まった。
その時にカノンが「やっぱり、あの人は死ぬしかないんですか……?」とアーベルに言った。
「決まり、ですからね。……生きたまま彼を悪魔から解放したかったですか?」
「あの人はまだ、人間に見える」
準備を終えたブラトがそこにやってきて、カノンにこう話した。
「そんなことは知ったこっちゃあない。悪魔が憑いてるんだ、町で暴れるかもしれんだろ。ここでおとなしく消えてもらうのが一番だ。……第一、こいつに襲われたのは、お前お気に入りの新入りの嬢ちゃんじゃあないか。……とにかく、問答無用だ」
そこで振り返ったカノンと目が合った。ブラトは引き続き彼の処断の準備を進めた。
カノンはその瞬間を見るのを嫌がって、先に帰り道の方へ向かった、すなわち屋敷のある丘を下りて行った。
リーゼも下りないのか、とアーベルに尋ねられた。リーゼは、別に大丈夫、と言おうとしたがのだが、それより先にアーベルが、「後悔しますよ」と言った。「時々、夢に出てくるんです。そしてあそこにいるのは自分だったりします」
自分が処刑される夢や想像はもうたくさんであったから、リーゼも逃げるようにしてカノンの元へ行った。
リーゼとカノンの二人は自然に一本の木の下で立ちどまり、そこでアーベルたちを待つことにした。その間、カノンは終始口を開かなかった。それに合わせてリーゼも無言でいた。冷たい冬の風が吹いていて、葉を失った枯れ木のしなる音が耳に入ってきた。
カノンは俯いて靴の先の土あたりを見ていた。やはり気分がいいわけはないだろう。それは リーゼも同じだ。彼はまだ生きているだろうか。
せめて、もし死後の世界と言うのがあるならば、哀れな彼は悪魔と契約した咎で地獄へ行かなければならないだろうが、いつか神に赦されて天に還れますように。
リーゼができたのはこう祈ることくらいだった。
不意に肘のあたりに固い感触がした。それはアルザスから受け取った手記であった。リーゼはおもむろにそれを取りだし、ぱらぱらとページをめくった。
「……例のものは、リーゼ王女の中に隠されていることが分かった。幸いに今の私はミスラの王室礼拝堂の祭司である。彼女に接近する機会はいつでもある……」
どうやらこれは日記のようなものらしかった。しかし毎日つけているわけではなく、特別なことがあった時に書いていたようだ。その後ろの項をめくってみると、彼からみたリーゼの様子が記されていた。
それは別に自分でも思い当るところであるから、リーゼにとって気になる部分はなかった。
今度は逆に、最初の方を覗いてみた。そこでリーゼの目が止まった。
「……ミスラにある〈銀の心臓〉の力を使えば、あの方を見つけ出すことができる……」
「あの方」についてリーゼは一切の心当たりが無かった。前後のページをめくっても、その答えは明確には書かれていなかった。リーゼはそっとそれを閉じた。向こうに戻ったらもっとよく読んでみようとリーゼは考えた。
風が止んだ。風の音の代わりに聞こえてきたのはアーベルたちの足音であった。どうやらすべて終わったらしい。彼の死体について聞くと、林の中に埋めた、という答えが返ってきた。百年後あたりに骨が見つかったらどうなるのだろう、とリーゼは思った。
「行きますよ」そういったアーベルの着衣は何ともなかったが、ブラト以下数名の退魔師の服には返り血がついていた。
「こういう仕事は、よくやるのですか?」
「まあ、半年に一回だな」リーゼの問にブラトの隣にいた退魔師が答えた。「そんなにさっきの奴みたいなのがいっぱいいたら、あちこち墓だらけだ。普通の墓とは一緒にできないしな」
そこまでその男が答えたとき、唐突にリーゼはアーベルの視線に気が付いた。ここでリーゼは彼が自分の本当の名前をあの場で聞いていたことを思い出した。彼がそのことを言い出さないか気が気でなかったが、彼はそれについて触れず、そのまま退魔師の館に戻って解散した。
館に戻ったリーゼとカノンが部屋のある二階に上がると、居残っていたベルが掃除をしていた。リーゼたちを見ると羨ましそうな顔をした。新参者のリーゼがすでに退魔師として前に出ているのはおもしろくない、という彼の心情が伝わってきて、リーゼは少し申し訳ない気分になった。二人はやあ、はい、と軽く挨拶をかわすと、リーゼとカノンは自分の部屋に入った。
そこで外用のコートを脱ぎ、二人とも椅子に座ると、カノンがようやく口を開いた。
「ねえ、リーゼ、〈銀のなんとか〉、見せてよ」
リーゼは、そうだ、と思い出し、彼から預かった手記と、〈銀の心臓〉をコートの中から机の上に取り出した。
「ふうん、綺麗だし、すごい魔力を感じるよ。もしかして湧き出しているのかな。……あの人が狙うのもわかるかも」
「でも、使い方がわからない。アルザスは使えていたみたいだけど……」
カノンは首を傾げた。
「でも、あの人、リーゼが真の主だ、みたいに言ってたよね」
「うーん、私にはその資格のようなものがある、ってことなのかもね。使い方は勉強しなきゃいけないのだろうね」
「こんな力、使えたらきっと……、うん、とにかくすごいことになるんじゃない? ……そういえば、それは?」
リーゼはぎくりとした。カノンがこの手記の中身を見れば、たちまちリーゼが彼女の故国を焼いた国の王女だったことがわかってしまう。その後の彼女の反応をリーゼは恐れた。
「ごめん、カノン、あとでいいかな……?」
リーゼはできるだけ表情を崩さないようにしつつカノンに言った。
「え……、大丈夫だけど……。少し気になっただけだから、別にいいよ」
「そう、それなら……」
リーゼはできるだけ自然にふるまって、怪しまれないようにその手記を自分の私物が入った引き出しにしまった。振り返ると、カノンはすでに興味を教会の図書館から借りてきた魔術の本に移していた。一難去ったと胸をなでおろしていると、リーゼたちの部屋の扉を叩く音が響いた。
「もしもし、アーベルです」
扉の近くにいたカノンがその声を聞いて扉を開けた。彼は部屋の外から内側を見回した。「リーゼはいるかな」
はい、とリーゼは答えた。
「何度も済まないけど、話があるんだ。もう一度私の部屋にきてくれないか。」
その時リーゼは彼の方を振り返るのをためらった。その「話」の内容というのは、リーゼが出自を隠していたことについてだろうと大方予想がついた。
「リーゼ、行かないの?」
カノンがリーゼの顔をのぞき込み不思議がっていた。
「いえ、今いきます」
リーゼはアーベルのいる廊下に出た。扉を閉めようとしたときには、カノンは再び本に目を落としていた。リーゼはそのまま扉を閉めた。そこでリーゼは部屋の中に置いてきた手記のことが気になったが、今更引き返すことはできなかった。




