第1章 #10
リーゼは再び夢の中に放り込まれた。いつもの白い床から始まる空間だ。
だが、そこは解き放たれた空間になっていた。いつも夢が始まるこの場所を鳥籠のようにしていた鉄格子が消えていたのだ。鳥籠の格子が消えただけで白い床の面積は全く変わっていないはずなのだが、いつもの数倍広く感じられた。
リーゼはその場で立ち尽くして待っていたが、今日は誰も来る気配がない。格子を開けたがっていたあの子供さえも来ない。
リーゼは白い床の端まで行って、その下をのぞき込んだ。底無しの黒い闇が、堕ちて来いと手招きしているようで恐ろしくなった。リーゼは中央に戻ろうと踵を返すと、後ろから嘲りの笑い声が聞こえた。リーゼが振り向くと、その嘲笑する声はあらゆる方向からリーゼに向けられた。
甲高い、女の声――とても嫌な声だった。リーゼは耳を塞いでその場に座り込んだ。だが今度は頭の中で甲高い女の笑い声が響いた。
止めて、というリーゼの絶叫が夢の中に響き渡ると、リーゼの意識は夢の中から飛ばされた。
翌朝、教会のあるトヴァリの町には「外出はしないように」というお触れが出された。もちろんこれは悪魔と契ったアルザスがその辺りをうろついているかもしれないからであり、その警戒と捜索はアーベル司教以下のリーゼたち退魔師であった。しかし、そんな中でリーゼとカノンは待機を命じられた。
「下級の悪魔ならまだしもね、相手はあのクラウス大司教に傷を負わせるような奴だ。経験がない君たちを行かせるわけにはいかないよ」
というのがアーベル司教の言であった。
「まあ奴もただでは済んでいないよ。聖なる印を打ち込まれて、それほど動けないはずだ――と大司教がおっしゃっていたよ」
そんなわけでリーゼとカノンは待機――ただぼーっとしていられても困るので館全部の床、壁磨きという課題を押し付けられたが――ということになった。
午前のうちにある程度掃除を終えると、二人といまだ退魔師志願のベルは、外に出ている者の迷惑にならないように昼前に早めの昼食をとることにした。
三人とも会話もなく静かに黙々と口にものを入れていった。
「例の悪魔使いに襲われたのって、君だったのか?」
一番先に食べ終えたベルがリーゼの手元を見ていた。
そうだ、とリーゼは頷いた。「カノンも後から来たけど、カノンには何もなかった」
「よく無事だったな」
「……彼は何がしたいのか全く分からない」
リーゼはため息をついて残りのパンを口に入れた。隣のカノンの皿にはまだパンが残っていた。
「あの宝石みたいなものが欲しかったんだよね?」
「そうなのだが……あれが何なのか私は知らないんだ」
カノンは少しの間何かを考えている顔をしていたが、「まあ、リーゼが無事ならそれで十分だよね」と言って締めた。
食事を終えた後のリーゼたちの予定は廊下の床磨きに決まっていたが、水を汲んできて始めようかというときに居残っているアーベルに声をかけられた。いわく、「もうすぐ外に出ているのが戻ってくるから先に二階からやりなさい」とのことだった。リーゼは汲んだ水の入った木のバケツを上まで運んだのだが、水の重さに体を取られたのか少し体がふらふらした。
実際に拭く前に床を軽く掃いていたのだが、どうも体が重いと感じた。今さっきふらふらしていたのは、水の重さのせいではなかったのかもしれない。
床を掃き終え、床磨きを始めたところで階下が騒がしくなった。どうやら町の中でアルザスを探しているこの館の退魔師――二手に分かれているのだが、おそらくその一方――が戻ってきたようだ。
しばらくすると彼らはまた外に出ていったようだ。アルザスはまだ見つかっていないらしい。
「早く見つかるといいね」
カノンが床を見つめながらポツリと言った。
「もうとっくに町の外に逃げたと思うのだがな……いくらなんでも」
昨夜彼が現れてからすでに半日は経過している。彼は傷を負ったのでそう遠くへは逃げられないというのがクラウスの言であったが、これだけ時間があれば十分に逃げることもできなくはないだろう。
「うーん、そういえばなんですぐに追わなかったんだろうね。悪い人だってわかってるんだから、時間を置く意味ないよね……」
「ううん、そう……、夜は他に悪魔とかが出るから、危ないと考えたのかもしれないな……」
そうリーゼは自分で呟いてみたものの、少しばかり納得がいかない気がした。だがその点を突き詰めようとしてもうまく頭が回らない。これを考えるのは後にすることに決めた。
日が傾くころになって、ようやく二階の床すべてを磨き終えることができた。そのころには自分の体調がだいぶ思わしくないことをリーゼは自覚していた。どうにも体が自分の思ったように動かない。それに頭が重い。
それをカノンに伝えると、「もう終わったし、お部屋で休んでいたら?あとは私がやるから……うん。アーベル司教とかには私から言っておくから」と促した。この好意には甘えることにして、リーゼは部屋のベッドに入った。しばらくすると頭の重みが次第に痛みに昇華していった。途中から頭痛があまりにもひどくなって、ベッドの上で体を縮めて唸っているうちに、リーゼは眠りについてしまった。
まだ夢を見るには早い時間だ。それでもリーゼは夢の続きに立たされた。それはあの笑い声という点で連続であった。ただ場が違う。今の舞台はついこの間まで自分がいたあの王宮であった。それにしても視点が低いと思ったら、リーゼは幼い姿をしていた。
あらゆる方向から飛んでくる笑い声は、単なる談笑の声であった。しかし、幼いリーゼにはそれがどうも自分に向けられているようで、逐一あたりを見回していないと気になって仕方がなかった。実際のところ、それはリーゼに向けられてはいなかった。だが、完全なリーゼの被害妄想というわけでもなかった。その談笑の一部は、リーゼの母を笑の種にしたものだった。居たたまれなくなったリーゼは、隅の方で隠れるようにしてじっとしていた。
それからしばらくすると、リーゼに手が差し伸べられた。母の手であった。リーゼはじっと下を向いていた。
「あなたが気にすることではないのよ」
母はすべてわかっているようだった。いちどお部屋に戻りますか、と母が聞いてきた。リーゼは頷いて、母に連れられて部屋に戻ることを選択した。リーゼが部屋に入ると、部屋の扉を閉じて、母はすぐにどこかに行ってしまった。ここまでずっと下を向いていたリーゼは、結局母の顔を見ることができなかった。ひょっとしたら、現実のリーゼが母の顔を覚えていないからかもしれない。
あまりに寝苦しくなったのか、リーゼは目を覚ました。背中が汗でぐっしょりと濡れていた。どうやら熱もあったようだ。今は何時だろうか。部屋の中も外も暗いからおそらく夜だろう。だとすれば今は早朝だろうか。だいぶ長いこと寝ていたような気がした。
月明かりに目が慣れると、隣のベッドが空になっているのが見えた。カノンが眠っていないということは、まだ宵の口からそれほど時間がたっていないのだろう。カノンには夜更かしという趣味はなかったはずだ。
喉もかわいてきたので、起きて階下まで行くことにした。だがちょうどリーゼがふらふらする体で立ち上がったときに、カノンが扉を開けて部屋の中に入ってきた。
「あ、起きたの?……大丈夫?さっき苦しそうだったよ?」
「うん、大丈夫だ」
リーゼは歩いて水を飲みに行こうとした。
「どこ行くの?」
「喉が渇いたから、水を飲みに」
「それなら、持ってくるよ。待ってて」
カノンは扉をそっと開け閉めして水を取りにいった。リーゼは部屋にある椅子に座ってカノンを待った。階段を上り下りするから結構待たされるかと思ったが、それほど待つことなくカノンは戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
リーゼは水の入ったコップをカノンから受け取った。冷たいガラスの感触が手に気持ちよく馴染んだ。リーゼはコップの半分ほどまで一気に飲んだ。
「調子はどう?」
「良い、って言ったら嘘になる」
カノンはリーゼの額に手を触れた。時々思うのだが、額で本当に熱があるかどうかわかるものなのだろうか。
「うーん、やっぱり熱あるのかな?……リーゼ、どう? 熱っぽい?」
「少しは。……背中が汗をかいて少し気持ち悪い」と、リーゼはじとっとした背中側の服を肌着ごと数回手でぱたぱたとしてみせた。
「着替えるのね?」
「肌着だけ」
ぱっぱと肌着を取り換えたリーゼに、カノンはさりげなくこう話した。
「見つかったよ、あの人」
カノンの言う、あの人、がアルザスのことだとはすぐに気付いた。寝ている間にあっけなく状況が打開したようだ。
「今、何時かな?どのくらい経ったのだ?」
「八時。だから、結構寝てたんだね」
「……それで、彼はどこにいたのだ?」
「ううんと……、ぼろ屋敷って言ってた。ほら、町のはずれにある古屋敷のことよ。前に言ったじゃない」
あの屋敷の荒み具合は、あの王宮の敷地にある旧礼拝堂を思い起こさせた。リーゼはあそこの旧礼拝堂で彼と対面した時のことを思い出した。あの旧礼拝堂と同じくらい荒んだミスラの王宮、そしてその中にアルザスがいる状況がイメージできた。
「これからみんないつもの見回り行くんだよね、大変そう」
「カノンは行かないのか?」
今日はお休みになった、とカノンは言った。「片方いないと配分がわからないから今日は両方いなくていい、だってさ。それにまだ未熟だからね、前に出し続けるのも危ない、って言っていたわ」
カノンは椅子に座り、ふうとため息をついた。
「それで、……彼のことだが……、どうするのだ?」
「ごめん、それは聞いてなかった。浄化でもするのかな?」
それはあり得ない、とリーゼは思った。彼のことをクラウスに話した時の対応を見るに、教会の規律で処刑だろう――。リーゼは自分が思い当った「処刑」――すなわち死の想像に体を震わせた。
ついこの間、自分が処刑台待ちの監獄という部屋にいたときの恐怖が蘇った。それと同時にここにいて本当に安全なのかという不安も襲ってきた。カノンはなんとなくリーゼの様子がおかしいのを察した。
「どうしたの?やっぱり気分悪いんじゃない?」
「ああ……、うん。……ごめん、また休むよ」
それがいいよ、とカノンは頷いた。
リーゼはベッドに深く潜って壁の方を向いて恐怖を押し殺しつつ、さっさ自分が眠りに落ちて次の朝が来るのを待った。しかしさっきまで寝ていたせいか、まったく寝付くことはできなかった。
ふとカノンの方を見ると、カノンは薄明りの下でなにやら本を読んでいた。リーゼの視線に気が付いたのか、「どうかした?」と言った。
「いや、何でもないよ」
「もしかして、明るくて寝られない?」
そういうわけでもない、とリーゼは首を振った。
そう、とカノンはいうと再び本に向かった。しばしの間リーゼはその様子を眺めていた。
どうもカノンはその視線が気になったらしく、今度はリーゼの前にやってきた。
「リーゼ、何か言いたいことでもあるの?」
「別に……、少し、自分が嫌になっただけだ」
何を言ってるの、とカノンは首を傾げた。
「臆病者だよ、私は。だから……」
「弱音なんて、急にどうしたの?」
リーゼはカノンの顔から目を逸らして腰のあたりに目をやった。カノンは椅子をリーゼのベッドのそばまで持ってきて、そこに座った。
「何? やっぱりあの人がどうかしたの?」
「そうだけど、それだけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
リーゼは少しの間、口をつぐんだ。
「死ぬのが怖くなったんだ」
「当たり前じゃないの、そんなの」
しばしの沈黙が二人の間に訪れた。沈黙を破ったのはカノンの方からだった。
「うん、分かってるよ。一回すごく怖くなると、怖くなくなるまでどうしようもないのよね。……もしかして、リーゼ、この病気で死ぬかもしれないって考えた?」
「いいや」
「じゃあ、あの人に殺されるかもって?」
「違う、そうじゃない、そうじゃないんだ」
死への恐怖というのは、少なくてもリーゼは、そのあとに残される空虚に対する恐怖だった。その空虚の恐怖を埋め合わせることもできず、あの地下牢ではただ眼前にそれを突き付けられた。リーゼの精神的な傷という意味でも、いまだミスラ王国がリーゼを探し出して捕まえようとしているという現実的な意味でも、あの時の発狂しそうな恐怖は残り火となってリーゼの奥底にあった。その火が大きく感じているのが、今なのだ。
二人の間に再び沈黙が流れた。
「……ねぇ、リーゼ……。体調が良かったら明日はゆっくり町の中でも散歩しましょう?」
おそらくカノンはなだめようとそう言ったのだろうが、リーゼはそのはぐらかすような言葉に一瞬苛立ちを覚えた。
「明日は、忙しいんじゃないかな。あの人が見つかったんだし、そっちが優先だろうね」
リーゼの口調でそれとなく苛立ちがカノンにも伝わったようで、「あ、うん……ごめん、そうだね……」と一歩引いて言った。
「じゃあ、明後日でも、一週間後でもいいわ」
カノンは椅子から立ち上がると、今度はリーゼのベッドに座り、そして上半身をリーゼの上に重ねてきた。
「大丈夫、わたしたちは明日も――ううん、ずっと一緒にいられるから」
「……うつるから、離れて」
カノンはそれだけ言うと椅子を片付けて机に戻り、再び本を読み始めた。リーゼはろうそくの火に照らされた彼女の顔をみた。少しばかり胸の奥にあった重荷が軽くなったような気がした。




