第1章 #6
リーゼとカノンは、午前のうちにアーベルの呼び出しを受けた。昨日聞かされたとおり、大司教から話があるということだった。その話は館ではなく、今の時間なら人のいない聖堂ですることになった。
薄暗い聖堂の中、クラウス大司教はその中央でリーゼたちを待っていた。
「連れてきました」
「ご苦労。……さて」
クラウスはリーゼたちにそれぞれ目をやると、ゆっくりと口を開いた。
「昨夜の報告は聞いた。君たちの、我々の見えない悪魔に対する索敵能力は、それとの戦いにおいて十分に使えると確認できた。そこで、これからもその能力を生かしてもらいたい」
カノンはきょとんとした顔でクラウスの話を聞いていた。そこでリーゼは今更ながらある疑問を思い立った。
「あの、この町以外で悪魔が襲ってきて、それと戦う組織があることを聞いた事がないのですけど……この町には特別に多くの悪魔が来るのですか?」
クラウスは一度頷いて、そして答え始めた。
「それはこれから話すことに関係がある。……この町にやってくる悪魔は、ほぼ東の山からやってくる。……まだここに来て二週間の君は知らないかもしれないが、その山頂を中心に我々が設定した立ち入り禁止区域がある。我々はその中に悪魔が……そうだな……湧き出す、と言うのか……地点があると考えている。最終的には、そこを見つけ出し、封印、あるいは破壊すことが目標だ。……しかし、その領域はとても広い。普通の退魔師が使える索敵魔術の効果範囲ではどうしようもなかった。……しかも、その地点はどうやら移動しているらしい」
「そこで、直接目で見て探す……と」
クラウスは頷いた。しばし沈黙が訪れたが、そこで後ろに控えていたアーベルが口を開いた。
「……そこでリーゼさん?体力に自信は?」
「少しなら……」
次にアーベルはカノンを見た。
「カノンはどうですかね?」
カノンは、全然、と言うように首を激しく横に振った。二人の反応を見たアーベルが苦笑いしてクラウスを見た。
「……あの山けっこう高いんですよね……。斜面も急ですし……」
「ああ、その時には、二人とも頑張ってもらおうではないか。なに、引きずってでも見つけさせる。嫌なら足を鍛えるんだな」
その言葉に一瞬カノンが嫌そうな顔をした。
「まあ、すぐに山を探し回るわけではないよ。まだ君たちは退魔師の仕事には不慣れだろうからね。……ということだ、頑張ってくれたまえ」
「……お話はそれだけなのですか?」
アーベルは、あっけない、と言った顔でクラウスを見ていた。
「あの山の件は、この地区の教会における重要な問題だ。つまり、ここの大司教座が重大な責任を負っているのだよ。だから私が彼女たちに話すことにしたんだよ」
クラウスは二度頷いた。
「なるほど……。そういうわけですから、よろしく頼みますよ」
「はい」とまずリーゼが、続いてカノンが、「はい」と返事をした。
「では、行ってよろしい……、そうだ、リーゼさん、少し話がある。……向こうで話そう。アーベル司教、君たちは行っていい」
アーベルは一礼をし、その場をすたすたと立ち去っていった。カノンは一度リーゼと目を合わせた後、アーベルの後を付いて聖堂から出て行った。
クラウスの言う、向こう、というのは彼の私室であった。そこにリーゼが入って扉を閉めると、すぐにクラウスは椅子に座って話し始めた。
「……ミスラ王国王室礼拝堂付司教、イラリオン・アルザスの行方が分からなくなっている」
扉を閉めたばかりのリーゼは彼を振り返った。
「我々が向かわせた調査員が王都に付いた時には、すでに彼は王都から消えていたとのことです」
リーゼは沈黙した。悪魔と契約したその男は、「銀の心臓」を手に入れるために、逃げようとリーゼの前に現れた。もっとも彼はリーゼから何も得ることはできなかった――リーゼ自身が「銀の心臓」を持っているという確信以外は。
彼の「銀の心臓」に対する興味の度合いは、リーゼを襲ったことからも明らかだった――もっとも彼が襲ったのはリーゼが「銀の心臓」に関係ないと思ったからであるが、リーゼにはその印象が色濃く付きまとっていて、リーゼは彼がもう一度現れるのではないかという恐れを覚えた。
肝心の「銀の心臓」については、リーゼは全く分からない。彼に渡せるものならとうに渡している。
「教会としては、当然彼を放置できない。……我々は、彼はあなたを探していると推測している。……彼は貴女がここにいることを知っているのですか?」
「いいえ」リーゼは首を横に振った。「彼には行き先のことは何も話していませんから」
クラウスは背を椅子にもたれかけた。
「……だとすると、彼はあちこちを探し回っているわけだ……。これは厄介……、いえ、とにかく、これは教会にとって放置できない案件です。早急に探し出して処分させなければ……」
そのまま少し黙ったクラウスに、リーゼはこの部屋を出る許しをそれとなく期待したがそうはならなかった。
「それでですね、その王都に向かわせた調査員が持ってきたものです」
クラウスは彼の机の脇に置いてあった何枚かの紙――何かの記事が書かれている――を示した。
「そう、王都で拾ってきた記事です――見ますか?」
クラウスの言葉とリーゼの反応を観察するような態度から、リーゼにはなんとなく察しがついた。
「それは……私についてのものですか」
「そうです」
そしてそれらには、うわさ話のならば悪口、まじめなものなら批判が書かれているに違いなかった。
「構いません。見せてください」
クラウスはそれらをリーゼに手渡した。リーゼはそれぞれに十秒ほど目をやるだけにし、隅まで読み通すことはしなかった。そこにはやはり虚飾されたリーゼの悪評が扇情的に並べられていた。そしてリーゼが逃げたことは知れ渡っているらしく、懸賞金を出すらしいといっているものもあった。そしてあちこちでリーゼの国外逃亡を指摘する文面があった。二週間経てば当然だろう。
「……嘘ばかりですね」
「ふむ、やはりそうですか。」
クラウスはリーゼの顔を見ながら紙を受け取った。それから少しリーゼの顔を見続た。
「大丈夫ですよ。あなたは我々が保護していますから。ご安心を」
それで彼の話は終わりだった。リーゼは不安げな顔などはしたつもりでなかったのだが、彼の目にはそう映っていたらしい。なんとなく晴れないこの気分が原因かもしれない。やはり嘘と分かっていても見るべきではなかったのだろうか。気にするまいとしても、どんよりとした何かがリーゼを覆い続けた。
こういうことは慣れているはずなのに、とリーゼは自分の精神面の成長の無さに自己嫌悪し、余計に気分が悪くなった。
聖堂を通って外に出ると、今にも降りだしそうな雪雲が空を覆っていた。歩き出そうとすると、横から声がした。
「リーゼ」声をかけてきたのはカノンだった。どうやらリーゼを待っていてくれたようだ。
「どうしたの?お説教でもされた?」
「うん、そんなところだな……」
リーゼの表情が暗いのをカノンも読み取ったのか、しきりにリーゼのことを気にかけてきた。
「大丈夫だった?何で怒られたの?」
「え、いや、大したことではないよ。……まあちょっとしたお小言だったのだ」
適当にカノンの想像に合いそうな嘘を伝えた。
「リーゼが怒られて泣きながら出てきたらどうしようかと思ってた」
「そんな事はしない……。というより、それはカノン、其方のことであろう?」
一週間くらい前のことだ。ブラトという体格のいい男が退魔師の館にいるのだが、どうもカノンに非があって彼女を怒鳴りつけた。その時リーゼは近くにいたのだが、ブラトが何を言っているかは良く聞き取れなかった。その時は掃除をしていたから、おそらく掃除の仕方かなにかが問題だったらしい。とにかく彼は少しの間カノンを叱責し続けた。その途中でカノンはめそめそと泣き出し、口はブラトにも小さく「はい」と答えるだけになった。
めそめそしやがって、とブラトは呆れた様子でカノンから離れていった。ただ、その時リーゼの方に歩いてきたので、「お前もぼーっと突っ立ってるんじゃない!」とリーゼはとばっちりを受けるような形で彼の怒声を浴びることになった。
「大丈夫か?」リーゼが尋ねると、「大丈夫……」とカノンは言って、手で涙を拭うと床磨きを再開した。
しかしその後は一日中意気消沈した様子で過ごしていた。
「だってあの人、突然あんなに怒鳴るんだもの」とは、今のカノンの談だ。「それに顔も怖いし」
それはリーゼも思ったことだった。「確かに」と頷いた。
「カノンはあの人がやっぱり嫌い?」
「嫌いというより、少し苦手、かな。……たまに怒られるだけならいいんだけど、わたし、あの人に見えた悪魔の位置を教えなきゃいけないのよ。……毎回あの目で睨まれるんだから……」
町の西側に展開する退魔師の隊を率いるのはブラトで、その隊の目となるのはカノンだと決まっていた。
「大丈夫だ、そのうち慣れる」
「あのね、私がここに来た時からずっと苦手なのよ。それにあの人、わたしみたいな子供嫌いって言うわ」
「それじゃあ、頑張るしかないのだな。子供に見えないように」
カノンは、他人事だと思って、とため息を吐き俯いた。




