やみめ峠の岩娘
丸い月の出る夜に、やみめ峠に行ってはならない。
ましてや車でなど尚更だ。
やみめ峠の岩娘に、岩肌の中に閉じ込められてしまうぞ。
「と、いう話なんだが」
「参ったねぇ、そりゃ」
涼しくはない満月の夜。やみめ峠をドライブしていた俺は、オカルト好きな同乗者にそんな話を聞いていた。
ずっと同じ道が続く山道で、それは暇潰しの薬のようなものだった。
やみめ峠は俺らの地域での通称で、漢字で書くと闇目峠なんていう中二病じみた名前で、
夜に通ると誰かに睨まれてるような感覚に陥るくらい圧迫感を感じることからついたらしい。
まあ、その由来も隣で嬉々としてオカルト話をしている同乗者から聞いたものだから定かではないが、
とにかく夜にはやみめ峠と呼ばれるのも分かるくらいにこの辺りは暗くなる。
変に切り立ってそびえる左側の崖と、いきなり90度近い曲がり角は当たり前な悪路がそれを加速する。
道を走っているはずなのに目の前に壁が現れるのだ。
岩娘がやってこなくても、岩肌に閉じ込められてもおかしかないわなと思えるくらいの酷い道。それがやみめ峠だ。
今だって結構ハンドル捌きに苦労している。正直、横でのほほんとしている同乗者がうらやましいくらいだ。
簡単に状況説明を終わらせると、再び同乗者が語りを再開した。
「この岩娘って妖怪にまつわるエピソードが、またすごく面白くてね。今回君が仕事でどうしてもここを通らなければいけないと聞いてついてきたのも、僕の好奇心と老婆心、とでも言えばいいのかな、そんなものに突き動かされたからなんだ。
好奇心はもちろん岩娘を見たいという気持ち。老婆心は君に岩娘のことを知ってもらって欲しいという気持ちだね。
単語の意味なんかわざわざ説明しなくても聡明な君なら分かっているだろうけど、ここが結構重要なんだ。
岩娘もね、こうして満月の夜にここをドライブしていたんだそうだよ。もちろん、今の僕と君のように二人でね。
そして運悪くハンドル操作を誤り、崖下へと転落してしまった。男と女は30m下の地面に、車と同時に激突したんだ。
あ、少し疑問があるだろうから答えておこう。車というのはもちろん、今僕達が乗っているような乗用自動車さ。
岩娘はけっこう新しい妖怪なんだ、僕達の中ではね」
僕達、という言い方が鼻にかかって少し質問しようとしたが、すぐに俺は理解した。
この同乗者、大学でオカ研にでも入っているのだろう。
いろんな地方からこういう妖怪話を集めてかっこはてな、どんちゃん騒ぎかっこはてなをするサークル、
というイメージしかないが、同乗者の所はまたマトモに活動してる方と捉えた方が良さげだ。
乗用車が発売されてから出来たような妖怪まで集めてるんだからまあ、天晴れというべきなんだろう。
ここは地元ではないと言っていたし、地元の妖怪を調べた訳でもなさそうだし。
おっと、今の曲がり角はひでえ。ガードレールが見えなかった。つーか、無かった? ひでえ道すぎるだろ。
「……それで? 落ちた二人はどうなったんだ」
「生きてたよ。奇跡的にね。車は大破してしまい、二人とも足を骨折してしまってはいたけど、命に別状はなかった。
ただ自動車があるといっても携帯は無い時代でね、それもこんな山の中、やみめ峠なんて悪路での話。
助けを求めることも出来ず、二人を探す救助も難航するわで、二人はどんどん衰弱していったそうなんだ」
「そいつは大変だな」
「ああ。そうして時間はどんどん過ぎていき……丸かった月が欠け切り、真っ黒になってしまった頃。ついに二人の元に救助隊が到着、したところまでは良かったのだけれど」
「……」
含み笑いをしながら、同乗者はそこで一旦話を止め俺の反応を見た。
こういう時、例えば俺がそのへんでホラー映画にきゃーきゃー行ってる女学生とか、同じくぎゃーぎゃー言うかあるいは見栄張って「おれ、怖くないもん」とか言いつつお漏らしするガキンチョとかだったりしたらすかさず話の続きをせがむのだろうが、生憎俺はもう二十歳を迎えようとしているれっきとしたオッサンだ。
いや、一歩譲ってお兄さんにしてくれて構わないんだぜ? 駄目じゃないよな。
まあなんというか、そんなお兄さんかっこわらいが、まさかここで即座に続きをせがむ訳には行かない。
立場ってもんがある。面子ってもんもあったりする。
見栄張ってるという意味ではガキンチョと大差ないかもしれないが。俺は三秒待って、
「それで、二人とも死んでたってわけか」
と言ってみた。 その、三秒考えて出した短絡的な答えに同乗者は待ってましたかのように手を叩き、
「普通はそう思うだろう? でも違ったんだ」
「ほう」
素直に驚く。じゃあ何だってんだ? 仲良く救出されたんなら妖怪にはならないだろう。
「さっき二人は奇跡的に助かった、と言っただろう? そして足を骨折したとも。確かに二人は助かったんだが、月が欠け切るまでの間ずっと動けなかったんだ。
言い換えればこういうことさ。彼らは二人とも生きていた。しかし、同じ場所に落ちたわけじゃなかった。
つまり。30m落ちる途中で、女の方は車から放り出されてしまっていたんだ。
そして、車のそばに男が。それより10m離れた、死角になる岩場に女が倒れていて。
救助隊に発見されたのは、男だけだったのさ」
「で、男だけが助かった、ってわけか」
「いや、さらに酷い話だよ。男が見付かったことにより、なんと捜索は打ち切られてしまったんだ。
もとから、捜索願が出されていたのは男だけだったのさ。女の方はあまり血縁者に恵まれてなかったらしく……既に、見捨てられていたんだ。やみめ峠の闇に、生きながら放り込まれていたのさ」
「はあ? なんだよそりゃ、そんなの男の証言があれば」
「男がドライブしてからの記憶を失っていたとすればどうだい?
女と一緒にドライブしたことを、事故のショックで男も忘れていたとしたら……
そして、女のことを気にかける“家族”はいなかった。それで全てが、丸い月が無くなるまでに終わってしまった」
結構なスピードを出しているはずの俺の車は、長い長い峠をまだ抜けてくれない。
ことの纏末を聞いて、少しだけ不安になる。もしここで俺が事故ったりなんかしたら。果たして家族は捜索願を出してくれるだろうか。
さすがに出してはくれるだろうが、それで俺は見付けてもらえるだろうか。
岩肌に囲まれたこんな場所で。
丸くなって震えて。
月が欠けて行くのに脅えて。
それで、もし隣の同乗者だけ助けられて、さらには捜索が打ち切られちゃったりなんかしたら。
俺は、どんな気持ちになるだろう。
どんな気持ちで死んで行くんだろう?
「考えたくもねーな、そんなもん」
「どうしたんだい?」
「いや、そんな妖怪がいるなんてのは、考えたくねーなと思ってよ。ちょっと辛すぎるぜ、それは」
「妖怪が妖怪になる前の生い立ちなんて、おうおうにしてそんなものだよ。あるいは死に立ち、死に座りかな。
妖怪なんて呼ばれるようになるくらいだ、やはり普通ではない生き方、死に方をしていたのさ……ところで」
不意に、眼前に壁が迫ってきた。90度近い曲がり角だ。
俺はそこで、既視感を覚えた。さっきも、いや何度も――ここを通っているような気がするのは、気のせいか。
まさか。
「ところで、僕が重要だと最初に告げた言葉を覚えているかな? 好奇心と老婆心。そしてその意味。
好奇心については、ぶっちゃけどうでもいいんだけど。老婆心のほう、覚えているかな?」
慌てたようにまくしたてる同乗者。こんな調子で喋るのは始めてだ。
俺は月を見る。珍しい満月だ。もうほとんど黒く染まっているのに、あれを満月だと言い張るのはいかがなものか。
そうだ。
俺は、知っている。
今日はホントは、新月の日だ。
「丸い月の出る夜に、やみめ峠に行ってはならない。ましてや車でなど尚更だ。やみめ峠の岩娘に、岩肌の中に閉じ込められてしまう。
上手いことを言ったものだと思うよ。これなら満月の日以外は安全だと思うだろうからね。ホントは月なんていくらでも丸く出来るのに、滑稽だ。
それに、ましてや車でなんて煽っておけば、車で来てくれるだろうし。
岩肌の中に閉じ込められるというのも、非現実さがありありと伝わる文章で百二十点。
ホントはこんな風に、いつまでたっても左側に岩肌がある世界に囲まれるだけなのに――文章だけじゃ、誰も気付かない」
同乗者は、笑う。ニヒルな笑みという言葉が似合うおちゃらけた顔で、俺を見つめる。
こんな顔を見るのも、始めてだ。
というか、今日会ったばかりだから、仕方ないっちゃ仕方ないが。
「つまり、岩娘は――」
「そう。岩娘は、“岩娘のことを知ってもらうまで、車で来た奴を岩肌に閉じ込める”妖怪なのさ。
月は関係ない。もっと言えば岩肌なのも偶然、車なのも偶然の副産物に過ぎない。彼女の願いはひとつだけだよ。
彼女はただ、自分の存在を知って欲しいだけなんだ」
「じゃあ、今ようやく峠を抜けたのは……」
「僕が君に、岩娘の逸話を話し終えたからだろうね。運が良かったよ、君は。僕がいなければずっと、あの岩肌に閉じ込められていただろう」
考えただけでぞっとする話だ。確かに、岩娘を知らない奴らだけでやみめ峠に行った日にはみんなお陀仏だろう。永遠のドライブだ。
俺は同乗者の存在に感謝した。そして同時に、一つだけ疑問が沸いてくるのも感じた。
「じゃあ、お前が俺に付いて来たのは、俺がこうなるって分かってたからなのか?
だったら早く言ってくれよな。俺がやみめ峠に差し掛かる前にその話を語ってくれりゃあ、」
「それは無理さ」
「……?」
「だって僕は、ここにしかいないからね」
――そんな言葉が聞こえたような気がしたあと。
俺の隣から同乗者は、忽然と姿を消していた。
助手席のシートを触ってみると、そこに人の温もりは無く。
考えてみれば、いつ同乗者を乗せたのかすら、おぼろげな記憶の中に薄れてしまっている。
「…………ああ、そうか。お前も、だったか」
一瞬だけ後ろを振り返り、俺は呟く。
同乗者に言わせれば聡明な俺は、彼女の正体にすぐ気付いた。
彼女もまた、妖怪になってしまったのだろう。
岩娘を見たい好奇心からここに迷い込み、死んで。
老婆心から妖怪になり、ここに迷い込んだ人に岩娘の話を聞かせる――語り部妖怪に。
じゃあ、もう一つ疑問だ。同乗者は何で、誰も知らないはずの岩娘を知っていたのか?
「……岩娘には、いい“友達”がいたってオチか」
おそらく同乗者だった彼女は今も、岩娘を探している。
或いはすでに見つけて、そばにいるのかもしれない。
そうじゃなきゃ、岩娘誕生の由来なんて語れるはずがないからだ。
……岩娘、ねぇ。そんな妖怪、聞いたこともなかったが。
有名になればいいなおい、なんて、俺は一応新月に祈っておいた。




