騎士団に屋敷を包囲された。平民商人への報酬を踏み倒しただけなのに
王国史上、初めて保険金が支払われた。
王国商業保険組合が設立されてから、二百年以上。
貴族と商人の契約を保証するこの制度で、実際に保険金が支払われたことは一度もなかった。
その記録が、ついに破られたのである。
原因となったのは、ある子爵の判断だった。
本人は、それを大変賢い判断だと思っていた。
◇
「領地の利益の半分を寄越せだと? ずいぶん欲深い女だな!」
バルド子爵は、執務机の向こうに立つ女性商人を笑った。
半年前、領地の商業収入を増やすために雇った女である。
当時、領内の市場は、新しく開通した街道に商人を奪われていた。
女商人は輸送商会との交渉を重ね、領内の倉庫を新しい中継拠点として使わせることに成功した。
商人の往来が戻り、市場は活気を取り戻した。
そして、子爵家の収入も大きく増えた。
女商人は契約書を差し出した。
『事業改善による初年度純増益の五割を成功報酬とする』
バルド自身が署名した契約書だった。
だが、彼には不満があった。
事業が成功するかわからないからこそ、こんな条件を認めたのだ。
実際に成功してみれば、報酬はあまりにも高い。
「領地の倉庫も市場も、もともと私のものだ。なぜ平民のお前に半分も渡さねばならん?」
「契約でございますので」
「契約、契約とうるさい女だ。銀貨一枚なら褒美としてくれてやる」
「では、契約どおりのお支払いは拒否されるのですね?」
「そうだ!」
女商人は少し考えたあと、静かに頭を下げた。
「承知いたしました。では、保険組合にお願いすることにいたします」
「保険組合?」
「今回の契約には、商業保険が付いております」
「ああ、商人どもが金を出し合っているという、あれか」
バルドは鼻を鳴らした。
「好きにしろ。誰が来ようと、払わんものは払わん」
「かしこまりました」
女商人は一礼し、部屋を出ていった。
泣きわめくでもなく、怒鳴り返すでもない。
ずいぶん諦めのよい女だ。
バルドは満足げに椅子へ深く腰掛けた。
これで領地の増収は、すべて自分のものになった。
◇
五日後。
保険組合の使者が訪れた。
初老の男で、服装は地味だった。
「バルド子爵閣下。先日の商業契約について、お話を伺いに参りました」
「何だ。あの女の使いか?」
「契約内容と収益を確認いたしました。報酬額に計算上の誤りはございません」
「だから何だ?」
「契約どおりのお支払いをお願いいたします」
「断る」
使者は落ち着いた様子でうなずいた。
「契約金額にご異議がございましたら、裁定を申し立てることもできます」
「異議などない。金を払いたくないだけだ」
「……承知いたしました」
使者は書類を一枚取り出した。
「当組合は、まず契約当事者の間に入り、支払いについて仲裁いたします。それでも履行されない場合は、商人に保険金を支払います」
「ならば払えばよかろう」
「保険金を支払った場合、債権は当組合へ移ります。その後は、当組合から閣下へ返済を求めることになります」
「結局、貴様らが金を寄越せと言いに来るだけではないか」
「左様でございます」
バルドは笑った。
「商人の組合が、子爵に取り立てか。面白い冗談だな!」
使者は笑わなかった。
「十日間、お待ちいたします。その間にお支払いいただければ、保険金の支払いは発生いたしません」
「何日待とうが同じことだ。払わん!」
「承知いたしました」
使者は丁寧に一礼した。
「それでは、規定に従って手続きを進めます」
◇
十日後。
女性商人に、契約報酬の全額が支払われた。
王国商業保険組合、設立以来初の保険金支払いだった。
女性商人は金を受け取り、新しい事業の準備を始めた。
一方、バルドのもとには通知書が届いた。
『保険金の支払いを完了いたしました。債権は当組合へ移転しております』
「ほう。あの女、金をもらったのか」
バルドは満足げに笑った。
「よかったではないか。これで誰も損をしておらん」
通知書の下には、返済期限が書かれていた。
バルドは読み飛ばした。
あの地味な使者が、また金を寄越せと言ってくるだけだろう。
そんなもの、追い返せばよい。
だが、数日後。
領内の取引に異変が起きた。
王都の商会が、後払いで納入する予定だった織物について、全額前払いを要求してきたのである。
「何だと! 我が家を信用できぬというのか!」
執事が困った顔で答えた。
「保険組合が、当家との新規契約について保証を停止したそうです」
「保証などなくても、子爵家の名がある!」
「商会は、前払いでなければ納入できないと……」
「ならば別の商会に頼め!」
しかし、別の商会も同じ回答だった。
建築資材の納入も止まった。
新しい取引の申し込みも断られた。
「商人どもめ! たった一度のことで大げさな!」
バルドは怒鳴った。
だが、困ったことはそれだけではなかった。
隣領の伯爵から、怒りに満ちた書簡が届いたのである。
『貴殿はいったい何をした!』
バルドは首をかしげた。
『王国商業保険組合が、貴族向けの保険料を引き上げた。原因は貴殿が史上初の保険金支払いを発生させたことだというではないか!』
「馬鹿な!」
一人の平民への報酬を踏み倒しただけだ。
なぜ隣領の伯爵が怒る?
続いて、別の貴族からも書簡が届いた。
『鉱山設備の購入条件が悪化した』
『商会から長期契約の見直しを要求された』
『貴殿のせいで、我々まで契約を守らぬと思われている』
「私は貴様らに何もしておらんぞ!」
バルドは書簡を床に叩きつけた。
◇
再び、保険組合の使者が訪れた。
「子爵閣下。保険金の返済期限が過ぎております」
「また貴様か!」
「お支払いをお願いいたします」
「払わん!」
「では、正式な回収手続きへ移ることになります」
「好きにしろ!」
バルドは、机に積まれた抗議の書簡を指さした。
「それより、なぜ他の貴族まで騒いでおる! 私と貴様らの問題であろう!」
使者は静かに答えた。
「これまで貴族の方々は、契約に争いが生じても、仲裁の段階で必ず決着をつけてこられました」
「だから何だ?」
「保険金の支払いが必要になったのは、閣下が初めてでございます」
「それがどうした!」
「商人たちは今、ほかの貴族も同じように支払いを拒否するのではないかと懸念しております」
バルドは鼻を鳴らした。
「ならば保険料を上げればよかろう」
「実際に引き上げられております」
「では解決ではないか!」
「保険料が上がれば、商人も貴族も取引を控えます。すでに街道工事や鉱山開発にも影響が出ております」
「それは商人どもの勝手だ!」
「……左様でございますか」
使者は小さく息をついた。
「では、最後にもう一度だけ確認いたします。お支払いいただけますか?」
「何度言わせる! 払わん!」
「承知いたしました」
使者は一礼した。
「それでは、こちらでの交渉は終了といたします」
「二度と来るな!」
「はい。私が伺うことは、もうございません」
使者は帰っていった。
バルドは勝ち誇った。
ついに諦めたか。
商人の組合など、所詮はその程度だ。
◇
翌朝。
子爵邸が、王国騎士団に包囲された。
「閣下! 大変です!」
執事が青ざめて駆け込んできた。
「王国騎士団が、正門と裏門を封鎖しております!」
「何だと!?」
バルドは窓に駆け寄った。
庭の向こうには、王国の紋章を掲げた騎士たちが整列していた。
何十人もいる。
「な、何の騒ぎだ! 私は何もしておらんぞ!」
そのとき、扉が開いた。
鎧姿の騎士団長が入ってきた。
「バルド子爵」
騎士団長は王家の印章が押された書類を広げた。
「王命により、貴殿の身柄を拘束する」
「お、王命だと!?」
バルドは目を見開いた。
「待て! 私は王家に何もしておらん! これは商人との金銭問題だぞ!」
騎士団長は眉一つ動かさなかった。
「貴殿は、王国商業保険組合からの再三の請求を拒否したな?」
「そ、それがどうした! なぜ保険組合の取り立てに騎士団が出てくる!」
騎士団長は、しばらくバルドを見つめた。
そして、静かに答えた。
「貴族相手に取り立てをするには、権力と武力が必要だ。その担当が誰かなど問うまでもないことだ」
「……は?」
「王国商業保険組合は、王家が設立した直属機関だ。保証金を支払った時点で、貴殿の債権者は王国になっている」
バルドは固まった。
「お……王国……?」
「そうだ」
「では、あの使者は……」
「王国保険組合の職員だ」
「……」
「二百年以上、保険金の支払いが一度もなかった理由が、ようやくおわかりになったか?」
バルドは何も答えられなかった。
騎士団長は続けた。
「これまでの貴族は、皆、誰を相手にしているのか理解していた。だから、仲裁の段階で決着をつけていたのだ」
バルドの膝が震え始めた。
「ま、待ってくれ……私は知らなかったのだ……!」
「知らなかった?」
「王家の組合だなどと、誰も教えてくれなかった!」
「契約書に記載されている」
「……え?」
「保険証書にも、王家の紋章がある」
バルドは口を開けた。
だが、何も言えなかった。
確かに、契約書はあった。
保険証書も渡されていた。
しかし、そんなものを真面目に読んだことはない。
「い、今から払う! 金ならある! 全額払ってやる!」
騎士団長は首を横に振った。
「その申し出は記録する。だが、王国の正式な回収手続きはすでに始まっている」
「そんな馬鹿な!」
「貴殿には、何度も支払いの機会が与えられた」
騎士団長は書類を閉じた。
「お連れしろ」
騎士たちがバルドの両腕をつかんだ。
「待て! 私は子爵だぞ!」
「承知している」
「子爵をこんなふうに連れていってよいと思っているのか!」
騎士団長は淡々と答えた。
「だからこそ、王命をいただいている」
バルドは、自分の屋敷から連れ出された。
◇
王都の法廷。
バルドは被告人席に座らされていた。
目の前には、女性商人との契約書が置かれている。
『初年度純増益の五割を成功報酬として支払う』
司法官が尋ねた。
「この契約書に署名したのは、あなたか?」
「……そうだ」
「報酬を支払わなかった理由は?」
「高すぎると思ったからだ」
「契約に異議があるなら、なぜ裁定を求めなかった?」
「……」
「保険組合の仲裁を拒否した理由は?」
「……」
「保険金支払い後の返済請求も、繰り返し拒否しているな?」
バルドはうつむいた。
「王家の組合だとは、知らなかったのだ……」
司法官は静かに答えた。
「相手が誰であろうと、契約を守る義務は変わらない」
「だ、だが……」
「しかも、あなたは契約金額に異議がないと明言している。払いたくないという理由だけで拒否したのだ」
バルドは言い返せなかった。
証拠は、すべて残っていた。
最初の契約書。
仲裁記録。
保険金支払いの記録。
返済請求。
最後の交渉記録。
どれも、バルド自身が支払いを拒否したことを示していた。
司法官は続けた。
「本件は、単なる契約不履行ではない。王国が保証した契約の履行を故意に拒み、王国の信用制度に重大な損害を与えた事件である」
バルドは震えた。
「そ、そんな大げさな……」
「王国中の貴族向け保険料が引き上げられ、商業取引に混乱が生じている。これは事実だ」
「私は、そんなつもりでは……」
「意図しなかったことと、責任がないことは別だ」
司法官は判決書を開いた。
「よって、爵位剥奪、財産没収、王領鉱山での終身強制労働を相当とする。爵位剥奪と刑罰については、国王陛下の裁可を求める」
「……え?」
バルドは顔を上げた。
「鉱山……?」
「そうだ」
「わ、私は子爵だぞ!」
司法官は答えなかった。
◇
翌日。
バルドは王宮へ連行された。
国王は、判決書を前にしていた。
「バルド。貴様は王国商業保険組合に、史上初の保険金支払いを発生させた」
「へ、陛下……」
「それだけなら、制度が正常に機能したという話で済んだ」
国王は低い声で続けた。
「だが、貴様は王国への返済まで拒否した」
バルドは床に額をこすりつけた。
「知らなかったのでございます! 保険組合が王家直属とは……!」
「知らなかったから、何だ?」
「それがわかっていれば、すぐにお支払いしておりました!」
国王は冷たく言った。
「つまり、商人の組合であれば踏み倒してよいと思っていたのだな」
「……!」
「貴様のような者がいるからこそ、王国は契約を保証しているのだ」
バルドは言葉を失った。
「貴様一人のために、王国中の貴族が商人から疑われている。街道工事も鉱山開発も、取引条件の見直しを迫られておる」
「お、お許しを……!」
「王国は、貴族であろうと契約を破れば責任を負うと示さねばならぬ」
国王は判決書に署名した。
「爵位剥奪、財産没収、終身強制労働を裁可する」
バルドは崩れ落ちた。
「そ、そんな……! 私は子爵でございますぞ!」
「今は違う」
国王は短く答えた。
「連れていけ」
衛兵がバルドを引きずっていった。
「お待ちください! 払います! 倍でも三倍でも払います!」
国王は振り返らなかった。
「たかが平民一人への報酬ではありませんか!」
その言葉に、国王が足を止めた。
「その『たかが』を守れぬ者に、領地を任せることはできぬ」
それが、バルドが国王から聞いた最後の言葉だった。
◇
王領鉱山。
かつて子爵と呼ばれた男は、粗末な作業着で岩を砕いていた。
「なぜ……なぜ、こんなことに……」
たった一度、平民への支払いを拒んだだけだった。
それが王国史上初の保険金支払いを引き起こした。
王国中の貴族が怒り、騎士団が屋敷を包囲した。
そして今、自分は鉱山で働いている。
「知らなかったのだ……相手が王国だなどと……」
誰も答えなかった。
十二日後。
かつてバルド子爵と呼ばれた男は、採掘現場で不幸な事故に遭い、この世を去った。
事故の詳細について、王国から特別な発表はなかった。
ただ、王国商業保険組合の記録には、設立以来初となる保険金支払いの原因として、彼の名が長く残ることになった。
一方、報酬を踏み倒された女性商人は、保険金を元手に新しい商会を設立し、順調に事業を拡大していった。
彼女にとって、この一件は契約どおりの報酬を受け取っただけの出来事だった。
王国商業保険組合は、その後も貴族と商人の契約を保証し続けた。
ただし、王国史上二度目の保険金支払いが発生することは、長い間なかったという。
なぜなら。
貴族相手に取り立てをするには、権力と武力が必要なのだ。
そして、その両方を持つ者が誰なのか。
今度こそ、王国中の貴族が知っていたからである。




