タイトル未定2026/03/19 21:03
ジム・ソープはジャイアンツ入団前から著名アスリートであったため、年俸3500ドルというメジャーのレギュラー級の報酬が約束されたが、ベーブ・ルースの新人時代が350ドルであったことと比べればその大物ぶりがわかるはずだ。ちなみにルースがソープの年俸を抜くのは20勝を挙げた一九一七年以降のことである。
人はレオナルド・ダ・ビンチのことを「万能の天才」と呼ぶ。それは彼が超一流の画家であると同時に、優れた医師、科学者でもあったからだ。
ところが当の本人からすると、絵は余技に過ぎなかったようだ。むしろ若い頃はスポーツに熱中し、今日で言うところのオリンピック級のアスリートだったらしい。とにかく何をやるにしても一番でなければ気が済まないタチで、それをやってのけるあたり、人間の能力を超えた超人とでも言うべき存在だった。
ただし、彼の医学、科学分野の理論は時代を先取りしすぎていて、現代でこそその思考や発想が正当に評価されているものの、当時はあまり理解されておらず、画家としての知名度が一人歩きしていた感が強い。
その点、二十世紀を代表する大富豪、ハワード・ヒューズは現代の超人と言えるかもしれない。
彼は若い頃に、世界一のプロゴルファー、世界一の飛行家、世界一の映画プロデューサー、世界一の大富豪になることを目標とし、プロゴルファー以外の全ての目標を達成した男である。
ヒューズは自ら監督、製作を手がけた『地獄の天使』が一九三〇年度アカデミー作品賞を受賞し、一躍映画界の寵児となると、一九三八年には世界一周最速飛行記録を樹立し、飛行機の操縦士としても一流であることを証明した。その後も映画産業や航空機産業などに携わり、一九六〇年代には世界長者番付第一位となった。
これほど異なる分野で頂点を極めるというのは、エジソンやアインシュタインとは全く違うタイプの天才である。まさに彼こそダ・ビンチタイプの万能型と言えるだろう。
前置きが長くなったが、スポーツという限られたカテゴリーの中にも万能型の天才がいた。それがジム・ソープである。
ジム・ソープはオリンピックの陸上金メダリストにして、メジャーリーガー、プロフットボーラーであった。
万能型のスポーツ選手が結構多いアメリカでは、野球とフットボール、野球とバスケット、野球とフットボールという組み合わせのプロなら、ボー・ジャクソン、マイケル・ジョーダン、ボブ・ギブソンなどわずかながら存在するが、三種となるとソープしかいない。
だからこそ、ソープは二十世紀最高のスポーツマンを選出する時、必ずといっていいほどトップになるのだ。
高校時代のソープは陸上競技と野球、フットボールの花形選手だった。
しかし、メジャーリーガーともなると学生時代は野球だけでなく、フットボール、バスケットなど複数種目で大学から勧誘される選手は山ほどいる。ソープと彼らとの違いは、ソープのレベルはカレッジスポーツの枠を超え、いずれも国際的なレベルに達していたことである。
ソープ自身はフットボールに一番力を入れていたようだが、アスリートとしての万能ぶりが買われて五種競技、十種競技,走高跳び、走幅跳びの四種目ででストックホルム・オリンピック(一九一二年)に出場し、五種競技、十種競技で金メダルを獲得している(走高跳びは惜しくも四位)。
ところが、全米一の人気アスリートになったソープを悲劇が襲う。
大学時代にソープがマイナーの野球試合に出場し、試合報酬を貰っていた過去が発覚したのだ。このことがアマチュア資格に抵触するとして、金メダルは剥奪されてしまった。
後にソープの名誉は回復され、メダルも返却されたが、当時はソープがインディアンの血を引く混血であったことが差別主義者の反感を買ったと言われている。白人至上主義の時代に有色人種の血を引く男が、スポーツ界の英雄になることを許さない気風が残っていたのだ。
これによってソープは陸上選手としてのアマチュア資格を喪失したが、野球の腕もプロ級だったので、メジャー球団がこの人気者の獲得に乗り出してきた。
最終的にソープが契約したのは、ニューヨーク・ジャイアンツで、新人としては破格の年俸三千五百ドルであった。
一九一三年、新人のソープは十九試合の出場で打率一割四分三厘、一本塁打と成績は散々だったにもかかわらず、年末にシカゴ・ホワイトストッキングスとの合同海外遠征のメンバーに選ばれている。これは外国を回る際、スポーツ界のヒーローであるソープを看板にしようという意図があったからである。
折しも結婚したばかりのソープは夫人帯同で新婚旅行を兼ねての野球行脚を楽しんだ。
このチームは日本にも立ち寄り、ソープは二試合に出場し六打数三安打と気を吐いた。野球が盛んだった日本では、メジャーの著名選手であるトリス・スピーカーやサム・クロフォードに人気が集中したが、スポーツ界伝説の男ソープのプレーを生で見ることが出来た人たちは幸運だったと言えるだろう。
表敬先のエジプトでは国王から招かれたのはマグロー監督とソープだけだったように、野球が盛んでない国においてはソープの知名度に勝るメンバーはいなかった。
メジャーリーグにおけるソープはほとんどが控えで、右翼手としてレギュラーを張ったのは一九一七年のシーズンだけである。それも打率二割三分七厘、四本塁打、四十打点、十二盗塁というのでは、名門ジャイアンツの選手としてはいささか物足りない感は否めない。
このシーズンは開幕から間もなくレッズにトレードされ、終盤にジャイアンツに復帰するという慌しさだったが、レッズ在籍中の五月二日には歴史的な試合に関わっている。
カブスの本拠地、リグレーフィールドで行われたカブス対レッズ戦はヒッポ・ヴォーン(カブス)、フレッド・トニー(レッズ)の両エースの意地がぶつかり合い、九回が終わって両軍とも無安打無得点のまま延長戦に突入した。
十回表一死からレッズのラリー・コフが初ヒットを放つと、次打者の凡退後、エラーで二死一、三塁となり、ソープの打席が回ってきた。
ヴォーンが打ち気にはやるソープの胸元に彼の苦手とするカーブを投じると、ソープは見事これに引っかかりバットの根っこに当ててしまった。ところがフルスイングで引っ張った打球は大きく弧を描くようにバウンドし、ヴォーンの後方にポトリと落ちた。慌てて打球をつかんだヴォーンはもはや一塁は間に合わないと判断してバックホームしたが、これを捕手のウィルソンが後逸し、遂に試合の均衡は破れた。ラッキーな内野安打だったが、これもソープの快足あってのことである。
ソープが挙げた希少な一点のおかげで、十回裏をきっちり締めたトニーは見事ノーヒット・ノーランを達成したが、長いメジャーリーグの歴史の中にも九回終了まで両軍が無安打無得点というのはこの試合が唯一の例である。
監督のマグローともそりが合わず、一九一九年の途中でボストン・ブレーブスにトレードされたソープは、この年限りでメジャーリーガーとしてのキャリアを終えている。六十試合に出場し、三割二分七厘、一本塁打、二十七打点というのは悪くない数字で、五十試合以上出場したブレーブスの選手の中で最高の打率である。
しかも彼は完全に野球から足を洗ったわけではなく、翌一九二〇年は2Aアクロンで三割六分〇厘、十六本塁打、一九二一年も2Aトレドで三割五分八厘、九本塁打とマイナーで冷や飯を食わせておくにはもったいないほどの成績を収めているのだ。
理由として考えられるのは、この頃のソープはアメリカン・フットボールのスター選手としての地位を確立しており、本格的な二刀流というのは、肉体的にも精神的にも厳しくなっていたのかもしれない。
ソープがカントン・ブルドッグズと契約したのは一九一五年のことである。
当時のフットボールには公式リーグというものがなくアマチュア集団だったが、ソープは他チームではプレーをしない条件で一試合二百五十ドルを提示された。こういう契約の形が初めてだったことで、ソープはフットボールのプロ契約一号と言われているが、この金額は今日の六千ドルに相当する高額である。
かつて大学選手権で優勝し、陸軍士官学校との交流戦でも九十七ヤードのタッチダウンを決めて士官学校の猛者たちを驚愕させたソープのフットボールの実力は野球よりも高く評価されていたのだ。
プロ化以前のフットボールの観客は一試合平均二千人程度しか集まらなかったため、ソープの報酬は法外と見られていたが、今日のスーパーボウルに相当するマシロン・タイガースとの優勝決定試合では一万人を動員し、ブルドッグスは一九一六年度のチャンピオンシップを獲得した。最大の功労者はもちろんハーフバック兼コーチのソープだった。
一九二〇年、プロフットボールリーグ(今日のNFL)の結成に当たって、ソープは現役選手でありながら会長に推された。
三十代半ばを過ぎ、走力は衰えても五十ヤード、六十ヤードのパントを楽々と決める脚力は健在で、引退する一九二八年まで、ソープはどのチームでも主力選手であり続けた。選手寿命の短いフットボールの世界で四十歳まで現役というのは異例である。それも一九一五年から一九二二年までは野球と掛け持ちである。
バスケットボールの神様と言われたマイケル・ジョーダンがメジャー入りを目指して2Aでプレーした時の成績が、二割一分二厘、三本塁打、五十一打点(一九九四)であった。この数字ではメジャーで通用しないことは明白で、さすがのジョーダンも翌年からはバスケット一本に戻っている。
また史上初めてMLBとNFLのオールスターに選出されたことで話題を撒いたボー・ジャクソンにしてもNFL在籍はわずか五年に過ぎず、フットボールでの怪我が原因で野球選手としても八年で引退を余儀なくされている。
近代のオールラウンドプレイヤーの代表とされるジョーダンやジャクソンと比べてみても、ソープの身体能力と耐久性がいかに傑出していたかわかるだろう。
引退後もソープは引っ張りだこで、各地での講演会や映画出演などで多忙な日々を過ごしていた。戦争中は海軍に従軍していたが、二度の離婚を経て次第に財政的に窮するようになった。追い討ちをかけるように晩年は癌に侵され、最期はトレーラーハウスの中で息を引き取った。
三十年後、ソープの名誉は回復され、金メダルも遺族に返還された。
MLB成績(6年)’252 7本塁打 82打点 176安打
MLBでのソープは主に控え選手だったので、ワールドシリーズ出場は一九一七年の一試合だけしかない。
外野を守り一打数〇安打であった。




