溶ける記憶のチョコレート
雪の粒子が、窓ガラスにそっとキスをしては、ゆっくりと身を溶かしていく。2月14日の朝、東京の小さなアパートで、アヤカはキッチンのカウンターに立っていた。28歳。グラフィックデザイナー。独身。毎年この日に、自分用のチョコレートを作る。習慣? 違う。これは呪いだ。甘い呪い。苦い呪い。溶ける呪い。
指先が冷たい。暖房の効いた部屋なのに、心の底だけが永久凍土みたいに凍えている。鍋にカカオの塊を放り込む。弱火。ゆっくり。ゆっくり溶けていく。ビターな香りが、鼻腔をくすぐり、部屋を満たす。甘いのに苦い。苦いのに甘い。10年前の記憶が、香りと一緒に這い上がってくる。
タカシと過ごしたバレンタイン。彼に渡したチョコは、ダークにラズベリーの酸味を忍ばせたものだった。
「君の笑顔みたいに甘酸っぱい」
あの言葉、今でも耳の奥で反響している。溶けたチョコを型に流し込む。指で表面をなぞると、温かくてねっとりした感触が残る。一口、かじる。
苦味が最初に広がる。続いて酸味が舌を刺す。甘さが、遅れて追いかけてくる。遅すぎる甘さ。遅すぎる想い。涙腺が、許しを乞うように緩む。甘酸っぱい、とはこういう味のことだ。失ったものを、溶かしながら思い出す味。
チョコをラッピングする。赤いリボンを結ぶ手が、微かに震える。外は雪がちらつき、街はバレンタインの喧騒に染まっているはずだ。她はコートを羽織り、クライアントの元へ向かう。心の中で呟く。今日も一人で終わる。仕事が忙しいから。恋愛に余裕がないから。……違う。怖いからだ。もう一度、心を溶かされて、固め直すのが怖いからだ。
午後。渋谷の雑踏を抜け、カフェに入る。コーヒーの香りが、凍えた肺を温める。窓際の席。ノートパソコンを開く。打ち合わせの疲れが肩に居座る。ラテの泡が、柔らかく揺れている。
ふと、隣のテーブル。視線が、吸い寄せられる。そこにいた。タカシ。30歳。穏やかな目元は変わらないのに、頰が落ち、疲れの影が住み着いている。指輪がない。左手の薬指が、空白を主張している。
「あ、アヤカ?」
声が、低く響く。カフェのBGMが遠のく。周囲の話し声が、霧のようにぼやける。
「久しぶり……何年ぶり?」
心臓が、耳元で暴れる。タカシは隣に移動し、微笑む。
「10年か。変わらないな」
視線が、アヤカのバッグから覗く赤いリボンに止まる。
「それ、昔みたいだな」
頰が熱くなる。チョコをテーブルに置く。
「自分用だけど……分ける?」
タカシが頷く。包みを解く。チョコを割る音が、乾いて響く。一口、かじる。カカオの香りが、二人の間を漂う。
「この味、忘れられなかった」
その一言で、アヤカの胸が締め付けられる。忘れられなかったのは、味だけじゃない。君の存在が、ずっと、心の奥で溶けずに残っていた。二人は話し始めた。タカシは転職したばかり。離婚したばかり。すれ違いが続き、結局、別れた。
「お互い、仕事優先だったよ」
アヤカは自分の日常を語る。デザインの仕事。夜遅くまでパソコン。締め切り。疲労。止まれない。
「私も、変わらない」
会話の合間に、もう一口チョコ。溶ける温かさが、甘く酸っぱく広がる。アヤカは思う。この味みたいに、私たちの関係はいつも中途半端だった。甘い瞬間はあった。でも、苦味が残る。タカシの目が優しくなる。手が、そっと触れる。カフェの外で、雪が本格的に降り始めた。店を出て、街を歩く。雪の冷たさが頰を刺す。足音が柔らかく響く。
路地裏。タカシが引き寄せる。軽く、キス。唇の温かさが、雪の冷たさとぶつかり、心を溶かす。切ない甘さ。でも、これは幻だ。アヤカは自分に言い聞かせる。もう、戻れない。
夕方。公園。バレンタインのイルミネーションが、雪を優しく照らす。ベンチに座る。タカシが肩を抱く。
「また会えてよかった」
アヤカは胸ポケットから、もう一つのチョコを取り出す。本気のチョコ。表面に小さなハートを刻み、中はビターとミルクの層。
「これ、あなたに」
タカシが受け取り、かじる。
「甘いけど、どこか切ない味だ」
声が震える。アヤカの心の中で、葛藤が渦を巻く。想いが再燃する。でも、現実が重い。仕事。年齢。別れた理由。タカシも、同じだ。
「俺、再婚なんて考えられない。でも、君のことは……」
言葉が途切れる。二人は抱き合う。雪の粒子が首筋に落ち、冷たく溶ける。キスの後味が、唇に残る。甘酸っぱい余韻。でも、アヤカは知っている。この温かさは、チョコのように溶けて消える。
夜。駅での別れ。電車の扉が閉まる音が、耳に残る。
「またバレンタインに会おうか」
タカシの言葉に、アヤカは微笑むだけ。連絡先を交換した。でも、未来は約束しない。アパートに戻る。残ったチョコを溶かし、紅茶に入れる。熱い液体が喉を通る。甘酸っぱい味が、涙と混ざる。窓辺で雪を見る。切ない。でも、この痛みが、私がまだ生きている証だ。甘酸っぱい記憶は、溶けても、消えない。




