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人魚

作者: 枯れる苗
掲載日:2025/10/29

見慣れたマグカップに、見慣れたカーテン。それだから私の一日は有り触れているのだと実感する。目の前に、人魚が横たわってさえいなければ。

淹れ覚えの無い珈琲が、高く狼煙を延ばしている。息を大きく吸い込んでみるが、何の感動も鼻腔を刺激しない。肩を落としてマグカップを持つ。ソファがその人魚に占領されているものだから、私は部屋の中を適当に歩き始めた。

「何よ、無視? 何とか言ったらどうなの?」

「何とかってなんだろうな。下半身についてるよ、ヒレが」

「貴女は下半身に後脚がついてるわね、はぁ、何、皮肉のつもり?」

とにかく珈琲を覗き込んで無理にでも身体に押し込む。天国とは見慣れた部屋のように窮屈なのか、私にとってここが天国だったのか、とにかく私はここに居た。死して尚、ここに居た。

部屋の隅っこで立ち止まる。昔美術館で買った金色の写真立てを発見したのだ。そこにはやはり、奈緒と私が写っていた。持ち上げてみれば思いの外軽く、簡単に壊れてしまいそうだ。

奈緒はあの時買った遊園地のカチューシャを付けて楽しそうに笑っている。私はなんだか照れくさそうに不細工な面を笑顔に整えようとしていた。高校の卒業旅行だったと思う。その辺はやたら奈緒が遊園地に行きたがったのをよく覚えている。あの頃は良かったな、なんて思って、そういう日々が終わってしまった事を酷く痛感する。

私が死んだのは冬の海だ。暗く冷たい夜の海に身を投げたのであった。本当にただそれだけの終幕で、キリスト教的にいえば天国には行けないはずなのだ。私はきっと地獄に行くわけで、暫く奈緒に会えなさそうな事だけが心残りだった。

人魚の顔は何処か奈緒に似ていた。顔の良い女は天国にしか居ないはずだから、きっとここは天国なのだ。あの子が居ない私の天国。なんとも皮肉な虚しい場所だ。

「ずっとそうやって呑気に珈琲飲んでいるつもり?」

彼女と目が合う、もちろんこいつは奈緒ではない。奈緒はこんな話し方などしないのだ。どちらかと言えばあの子は清楚っぽくて、こんな話し方はまるで私のようだった。冷静にその目を見ていると、やはり徐々にその違いが明確に見えてきて、この子はこの子で重ねるべきでは無い無垢な他人なのだと理解する。

「まぁ、そうね。珈琲があったから呑んだだけだし、その先は何も無いよ」

「暇なのね」

一々腹の立つ女だ。

「暇なのよ」

幻覚ならばせめて奈緒の顔で、奈緒の性格で、あのまま出てきて私を慰めて欲しい。こいつではただ虚しいことばかり思い返してしまう。

彼女の目の前に座ってなんとか言ってみる。

「名前は? ここはどこ?」

「そういう事を一言目から聞きたかったのよ」

彼女は尾びれを揺らして喜んでいる。奈緒にはないはずの醜い尾鰭だ。

「私は人魚、ここから出してくれたらそれで良いわ」

扉の方を見ると、あるはずの黒い扉は無くなっていた。窓の外には魚が泳いでいる。有り得ないはずの光景がやけに私を現実へと引き戻した。私は、やはり海に飛び込んだのだ。

「どうやって出してあげればいい?」

「水を貯めなさい。水道から出して、部屋をいっぱいにするの。そうしたら水圧で開かないはずの窓はちゃんと開いて私だけはちゃんと助かるから」

「私は?」

「助からないわ」

酷く冷たい声色が胸を突く。胸を突いた割には大して響かなかった。思い返せば私はこうなることを望んで飛び込んだのだ。しかしそうなると、ここは天国でもなければ予想通りの地獄でも無いのではないか、残念だ。人魚は実在する、そう思うとなんだか可笑しくなってしまった。死ぬことが分かってから、ようやく世界の真実に到達したような気持ちだ。どうしようもないのになんだか希望で満ち満ちていた。

シンクの排水溝の上に逆さにした皿を被せて、蛇口を一気に開く。あっという間に水はシンクを満たし、床に溢れはじめる。

「偉いわ、私の言う通り。はぁ、それにしても暇ね。こっちで私を楽しませなさい」

「傲慢な態度は私を喜ばせるだけだよ」

「気持ち悪い」

テーブルに付属した椅子を持ち出して彼女の前に座った。私の様子をじっと見て、何も言わずに目を逸らした。その様子がやけに物憂げで、またその所為でやけに奈緒と重なった。奈緒の事ばかりが頭を埋め尽くすのはずっと変わらないままだ。

「誰に私を重ねているのかしら? さっきから、その目が鬱陶しいのよ」

「奈緒、私の唯一の恋人」

「女同士で? 気持ち悪いわね」

ビタビタと水が落下していく音が煩く部屋の中を包む。居心地の悪さばかりが目立って仕方がない。奇妙な程に彼女の顔は落ち着いていて、だからこそこの居心地の悪さをここの基本性能だと理解する。

「奈緒は元気な子だったよ。高校の時、ぼっちだった私に声掛けてくれてさ。『可愛いね、私と友達にならない?』ってさ。それからは何をするにもあの子とじゃないと不安だったな」

「聞いてないわ」

「退屈しのぎ、させなきゃじゃん?」

沈黙が了承を意味する。そのように都合よく捉えて私は私で、したい話を始める。

「高校卒業して、あの子しか周りに居なくなったのよ。でもそれが都合良かったな。私もあの子もアルバイトしてさ、時給千円ちょっとで、カツカツの生活で」

「貧乏暮らしも大変ね、鬱々しちゃうわ。私にも珈琲淹れて」

嫌々立ち上がってまた台所へ戻る。オシャレなベージュのポットを取って持ち上げれば、中に余ったままの水が飛沫をあげた。不意に話題が湧いてきて、それを話したい気持ちを堪えつつポットに水を足し火にかける。

「カラオケでね、酔っ払って話す私の話を、彼女ニコニコ聞いてくれたんだ。馬鹿な話なんだけどさ、どうでもいい話なんだけど、それでも今思い返すってことはやっぱりあれが嬉しかったんだろうな」

向こうの部屋で横になる人魚を私は知らないまま、勝手に話し続ける。

「折り紙で綺麗なオブジェ? 作っててさ、すごいねって言ったらくれたんだ」

「どんなやつ?」

「向こうだよ。あっちの寝室の方にある」

寝室なんて、そういえばなかった。思いつく限り乱雑に話してしまう。けれど案外しっかり聞いてくれている人魚が愛おしいではないか。火を止めて、挽かれた豆に熱湯を注ぐ。細かい泡がじんわりと下から浮き出して、そのまま湯気が立ち籠む。顔に当たっても何の匂いもしてこない。鼻が詰まっているのか、心が詰まっているのか、不思議な感覚だった。カップを持ち上げて、振り返る。足元に水がかかって冷たい。もう水面が足の指を沈めてしまった。

「二十歳の時には二人で難しい話を沢山したんだ。将来の話とか、生きる目的とか」

「意味なさそうね」

「あったよ。ずっと楽しかった。でも奈緒、そういうの好きじゃなくてさ」

「付き合ってくれてたんだ」

「そう、付き合ってくれてたの。奈緒、随分辛くなってた。ああ見えて案外真面目な子だったのよ。哲学っぽい本何冊か図書館から借りて読んでたし」

知らないと思ってた? なんて、奈緒に語り掛けてみる。思えば声を出してこんな話をするのは初めてだった。珈琲を一口呑み込んだ人魚は舌を出して随分嫌な顔をする。そんなに嫌なら飲まなきゃ良かったのに。私はまた彼女の前に腰掛けた。気が付けば、水面はもう踝程まで来ている。

「貴方の話は聞かせてくれないの? 人魚さん」

「私は、別になんにもないわ。性格が悪いから仲間から見放されてて、独りでさまよってるだけ」

「それでここに閉じ込められちゃった?」

「閉じ込められた? まぁ、えぇそうだったわね」

そうだった、なんて強がるのはこの子がどうしようもなく想像の産物だからだろうか。きっと思い返すほどの背景もないのだろう。私はただこの空虚な人魚に私の走馬灯を任せる事にした。

「まぁそれでね、言い合いしたこと沢山あったの。あの子に厨二病だとかつまらないとか散々言ってね、奈緒も奈緒で私に酷いこと沢山言ってたわ」

「仲がいいんだか悪いんだか分からないわ」

「そういうものだよ。私達、二人きりで孤独だったの」

人魚は意を決してもう一口飲む。きっとその深い深い苦味の向こうに何かが見つかるはずだから。私は彼女の嫌な顔を好んで見よう。しかし、思いの外悪くない顔をした。人魚は、この珈琲の香りに何を思うのだろうか。

「あの子が電信柱のところで吐くからさ、私ずっと隣で背中さすってあげたんだ」

その後缶珈琲を一缶、真っ暗な自動販売機で買った。その事はなんだか二人だけの秘密にしておきたい。

「迷惑?」

「まさか。楽しかったよ、そういうのも」

部屋の隅に小さな波が当たって、徐々にその水位が上がっていく様子が見て取れる。目を瞑れば、水音が私の世界を埋め始めた。鼻に冷たい空気が入り込む。心臓の鼓動がゆっくりと加速して、潮の匂いが立ち込め始めていた。夢の中の様な心地が胸の奥から込み上げて、勝手に逃げだした現実がそこで待っているようだった。

不意に目を開くとあの子の姿がない。既に膝元まで上がっている水位にこの時間の終わりを感じ始める。珈琲の匂いもよく分かる。飲み終えたカップは何処へ置いたのだろうか。立ち上がると、水の抵抗を実感する。

「カップ、戻しておいてあげたわ」

水の中を泳ぐ彼女は、絹の布のように美しかった。私の周りを一周優雅に回って、ソファに戻る。垂れた濡れ髪を掻き揚げると、薄桃色の美しい肌が顕になった。

「あら、浮気したくなったのかしら」

「まさか。私は一途だよ」

そんなに愛している人が居たんだけどね。ダメになってしまった。私達ももう二十五歳になって、言い逃れできないほど将来が差し迫っていたのだ。冷房の寒い始発の電車で、私と奈緒の二人だけが電車にいた。あの時私が何を言われたのか、もう思い出したくはないのだけれど、私よりもずっと悲しそうな顔をする奈緒のことを忘れられなかった。その事だけは忘れずに持っていかなければいけない。

「私より先に、貴女に似た人来なかった?」

「知らないわ、私はなんにも知らないの」

悲しそうな顔をしている。そうやって表現する他、私はあの顔について考えたくない。それ以上何も聞きたく無くなった。

「私は、一人きりなのよ」

人魚がひとりでに話し始める。私が望まなければ、どんな話も出来ないものだと思っていた。しかし、人魚は気にも留めず続ける。

「長いこと生きていたのだけれどね、私のことを覚えているやつは少ないと思うわ。そういう風に生きているし、今更それを恥じる積りもないの。でもね、今ようやく分かったの。水を止めて、そうしたら貴女は助かるわ」

「今度は、私だけ?」

「どうかしら」

勝手にわかったフリをして、見透かした気持ちだった。しかし、今またやっとこの人魚さんを奈緒とは別の無垢な他人として認識出来るようになった。認識して、しかしやっぱり奈緒越しにこの子を好きになった。出来る限り、目一杯の笑顔をこの子に向ける。すると、私はあっという間に水に沈んだ。この子が口に酸素を送ろうとする。口を膨らませて、真っ赤な可愛らしい顔で。次第に意識が遠のいて、目を瞑る。

思い返すのはやっぱり、奈緒のこと。二人だけで電車を待っていた。ベンチに座って、何も話さず、繋いだ手から伝わる温度を感じていた。電車が一本来る度に寂しくて、きっとあの子も同じ気持ち。見過ごして、見過ごして、見過ごせない電車を恨んだ。最後の電車が来る。私は立ち上がって奈緒に手を差し伸べた。

「そろそろ行こうか」

目を開けると、真っ暗な海の中だった。霞んでしまう程遠くに、揺れるひとつの尾びれがある。私から離れて遠い海へ泳いでいく。さようなら。


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