11-1 回復
雨が降っている。
小十郎は、軒先から落ちる雫に目をやりながら、シクシク痛む太ももに手を這わせた。
傷自体は治りつつあるが、ふとした瞬間にズキリと差し込むような痛みがある。
幸いにも、歩いたり走ったりに不自由はなさそうだから、それでよしとするべきなのだろう。
「よろしいでしょうか」
室外から声を掛けられ、「どうぞ」と答える。
三沢城跡に作られた仮設の建屋に移り住み、そこで仕事を初めて半月になる。
当初あった反発が完全に払拭されたとは言えないが、頼りない小十郎への助力を買って出る者はいて、それなりにうまく仕事は回っている。
入室してきたのは、四十近い年頃の、もともとは関所務めをしていた男だ。名を田之倉という。小十郎と同じ下級武士に属し、主家は三沢だったが、例の裏切りが発覚してから尼子に降伏した家臣衆のひとりだ。
「失礼いたします」
小十郎に対して、初対面から丁寧な態度を崩さない田之倉は、盆の上に白湯と握り飯を乗せてってきていた。
「また根を詰めすぎておりますよ」
そういって差し出された握り飯には、美味そうな梅干しが添えられていた。田之倉家の奥方による自家製だそうだ。
小十郎は、いっこうに減った気がしない胃のあたりを軽く擦った。
田之倉は、小十郎の年頃だと昼にも何か食わねばもたないと言い張って、毎日この時刻に握り飯を持ってくる。
もとより小食なので、朝晩の二食で十分なのだが、せっかくの親切を無下にもできずにありがたく受け取るようにしている。
田之倉は、文机の脇に積まれた冊子を手に取り眉間にしわを寄せる。
「……もうここまで目を通されたのですか?」
「あと少しですので」
小十郎と似た身分のこの男は、同じく武官というよりも文官気質で、小十郎のもとへもってこられる書類の多くを把握してくれている。
腕が動くなら働けと言いう根津様と違って、病み上がりだからまだ本腰を入れるべきではないと考えているようで、せっせと持ち込まれる仕事を黙って手伝ってくれるできる男だ。それだけでもかなり助かっている。
「量を減らすよう佐田様に具申しておきます」
ちなみに、山吹城にずっといるわけにはいかないと言っていた根津隊の半数が、今はここ、旧三沢城にいる。
おそらくはここにもずっといるわけにはいかないはずだ。
移動するときに、可能なら、小十郎もあわせて連れて行ってほしいところだが……どうだろう。
三瓶山は、大殿が戦の指示を出した最後の場所だ。直接攻め入ったのは兄君だが、何故かそれは公にはなっていない。
病床にある大殿がご自身の武勲にしたかったわけはなく、兄君がそれを汲み取って内密にしたわけでもないだろう。秘密にされているわけでもないのに、兄君の功績になっていないのは、どう考えても何者かの意図が働いている。
兄君の派閥が、それを宗一郎のたくらみだと勘ぐるのは無理もないと思う。
そんな事をする気質ではないとどれだけ言われたとしても、周囲についているのが目代の松田様であり根津様であり、いかにも「そういうこと」をしそうな面々なのだ。
小十郎は握り飯を頬張りながら、同時にため息を飲み込んだ。
きっと小十郎自身も、「そういうこと」をしそうな一味に含まれてしまっているのだろう。そう思うと、何とも言えない憂鬱な気持ちになる。
最近、三瓶山の周辺に、身元不明の間者らしき者たちが入り込んでいる。
富田城を離れてから刺客は来ていないが、兄君派閥からの疑いが確信に近いものになっているのは肌で伝わってくる。
大殿がご存命のうちに、なんとしてもこの不仲を解消しなければ、後々とんでもないことになりかねない。
わかっていても手をこまねいているのは、どこから手を付けたらいいかわからないほどに、対立構造が悪化の一途をたどっているからだ。
これが敵からの工作なら、たいしたものだ。
小十郎は残りの握り飯を黙って口の中に放り込み、ふと頭に過った「解決方法」を素早く否定した。
やられたらやり返せばいいなどと、安易に考えるのは間違っている。
「小十郎!」
何も考えていなさそうなニコニコ笑顔で名を呼ばれ、「また来たのか」とうんざりするより先に反射的に笑顔を返していた。
「殿」
これも良くないのかもしれない。
実は小十郎はいまだ本城家の禄を食んでいる。尼子家の直臣ではない。故に、宗一郎を「殿」と呼ぶのは間違ってはいないのだが、誤解を受けやすい環境ではある。
根津様が混乱を収めた湊一帯から仙ノ山、更には出雲を臨む三瓶山までを宗一郎の派閥が支配しているように見えるのだろう。
そんな事を想像しつつ、小十郎は駆け寄ってくる宗一郎を迎えるために、居住まいを正した。
ちょうど一仕事終わり、墨の付いた手を井戸端まで洗いに来たところだった。
この小道を進めば旧三沢城の馬場だった場所がある。周辺にはなかなかいい草が生えるらしく、馬を通じて武士同士の交流がある貴重な場だ。
宗一郎の愛馬は、大殿から拝領したという若い名馬で、そのこともあって彼がここに来ることはそれなりに歓迎されていた。
とはいえ、間者の目があるので頻繁に来るのは遠慮してほしいものなのだが。
「さあ勝負だ!」
最近将棋に凝っている宗一郎は、会うたびに勝負を挑んでくる。傍目には武術勝負を乞うているように見えるらしく、これもまた誤解の種だ。
帰る時にいつも負けて悔しがる宗一郎の姿が目を引いて、小十郎が見た目に反して、なかなか腕が立つ武功者だなどと噂になっているそうだ。……そんなわけあるか。
まだ若干足を引きずりながら、息を荒げて坂道を上がり、部屋に戻る。
既に宗一郎の到着を知っていたようで、山積みになっていた冊子は片側に寄せられ、部屋の中央に将棋盤が用意されていた。
いそいそと足を踏み入れた宗一郎が、迷うことなく上座に座って腕まくりをする。
いや、上座でいいんだよ。上座で。
だが運ばれてきた白湯を迷うことなく口に含むのはやめた方がいい。
根津隊が厳重に毒見を済ませているはずだが、それでも万全はない。ごくごくと飲み下す前に、せめて一呼吸はおくべきだろう。
小十郎がようやく追いついた頃にはすべて飲み干し、ぷはーっと酒でもあおったかのように息を吐いていた。
「……雨が上がると暑ぅてな」
流石に周囲からの咎めたてする視線に気づいたが、そう言って笑っているところを見るに、深刻にはとらえないないのだろう。
やれやれだ。




