10-7 脱出
何が起こっているのか、まったく理解できない。いや、何者かに追いかけられているのは確かだし、小刀を投げつけてきたところを見ると襲撃を受けているのは確かだ。
だが思考はそこで止まってしまって、深く考える余裕がなかった。
「舌を噛むなよ」
小十郎を背負った染谷のドスの利いた声と、ガサガサと藪をかき分ける音。ドン! と急な斜面を飛び降りる衝撃。
ひぃぃぃぃぃっ‼
小十郎は心の中でひたすら絶叫していたが、言われたとおりに奥歯を食いしばって声がこぼれるのをこらえた。
なんでこんな急斜面を行くんだ! そう問い詰めたくても、聞ける状況ではない。
間違いなく城の外へ向かう正規の経路ではなく、いや正直、道だとも思えない山の中だ。
先を行く半助の足取りに迷いがないから、きっと忍びが使う裏道的なものではあるのだろう。
だが、小十郎にとってはただの斜面、下手をすると遭難あるいは滑落しそうな山の中だ。
半助の走りは安定しているが、染谷はそういうわけにはいかず、時折草履がズリリと滑るのが本当に怖い。
追っ手の気配はずっとしていた。
引き離せず追尾してくるので、あるいは半助と同じく忍びの者かもしれない。
何故そんな者たちに追われているのだろう。
怖いもの見たさで、ざざざっと揺れる背後の茂みに目を向けた。
ひとりではなく複数。狙っているのは染谷か半助か小十郎か。
……本当はわかっている。連中が殺したいのは小十郎だ。
だが理由が思い当たらない。まさか兄君が? いいや、小十郎のことが殺したいほどに邪魔なら、対面時にバッサリと切り捨てられていただろう。
さっと茂みが途切れた。分厚い雲で覆われた灰色の空と、新緑の青。それを背後に、染谷の身体が宙を舞っている。
ひいえぇぇぇぇぇぇっ‼
必死でしがみついているので口をふさぐことが出来ず、か細い悲鳴がこぼれた。
富田城は山の頂上にあり、ふもとの町に下りるまでにはかなりの高低差がある。この険しさが、富田城を難攻不落にしている。
道なき道を飛び降りて、下って行ける構造では本来ない。
追っ手はかなりの身軽さで、迷いなく半助のたどる道を追尾してくる。
このままだと追いつかれてしまう。足場がいいところで迎撃するべきだ。
小十郎は強くそう思ったが、そもそもそれを伝えるすべがなかった。
声を上げようとすれば、たちまち高低差にガクンとなって、舌を噛みそうになるからだ。
もう辛抱できず、ぎゅっと目を閉じた。
死ぬ。襲撃者に切り掛かられるより前に、崖から落ちて死ぬ。
安全な場所まで行きつける気がまったくしなかった。
どれぐらいそうしていただろう。
情けないことだが目を閉じ、奥歯を食いしばって、ひたすら耐えるしかなかった。
「染谷様!」
ふと、こちらに呼びかける男の声がした。
聞き覚えがある男の声……福船屋伝八だ。
小十郎は思わず目を開けて、さっそく後悔した。
ほぼ垂直の崖の下に、二十名ほどの男たちがいる。木陰から垣間見えるその様子は心強いはずなのに、小十郎の全身から一気に血の気が引いた。
高い高い高いっ!
まさかこの高さから飛び降りるなんてことは……。
先を行く半助の身体が宙を舞った。
染谷も迷いなく、それに続いた。
小十郎の意識はそこでふっつりと途切れた。
その先に何があったのかは、憶測になる。小十郎は気を失っていたし、わざわざ教えてくれる者もいなかったからだ。
追っ手は消えたか、追い払ったか、迎撃したか。
福船屋の男たちは屈強な手練れぞろいなので、たった数人を迎え撃つのに問題はなかったはずだ。
小十郎は失神したまま運ばれた。
城下町にある福船屋の店にではない。別邸か、あるいは臨時で借りたのか。
意識が戻った時にはとりあえずは安全な場所にいて、枕元で染谷と伝八が小声で何やら話をしていた。
薄目を開けてその様子を見つめる。話の内容は頭に入ってこない。
「松田様が……」
かろうじて目代様の名前が意識の端にひっかかり、ようやく思考が回り始める。
小十郎が身じろぐと、いかにも悪だくみをしていそうな二人組がこちらに気づいた。
そろって、あきれ顔ではなく心配そうな表情だ。
「すまぬな。もう少し丁寧に運ぶべきだった」
「痛み止めを飲みますか?」
どうやら恐怖のあまり失神したとは気づかれていないようだ。
「……何故」
どうして襲撃されたのかと聞きたかったのだが、ようやくひねり出した声はかすれ、言葉になっていなかった。
染谷が、何もかもわかっているという風に頷く。
「刺客の出所はわかっている」
小十郎はまじまじと染谷の顔を見上げた。
「お主を姫様の前から消したかったようだ」
「……は?」
とっさに、その言葉の意味を理解することができなかった。言葉を改めてよくよく説明されたが、それでもさっぱりだ。
なんでも、小十郎はとある筋からは「毛利家当主の庶子」と思われていて、藤姫様との縁談の為に富田城に来ていたことになっていた。
そんなわけあるか! 少しでも調べる気になったら、間違っているとわかる与太話だ。
そもそも、尼子と毛利が婚姻同盟を組むだなんてあり得ないだろう。……あり得ないよな?
「えっ、まさかそう言う話が内々に進んでいるとか?」
「そうなのか?」
染谷が静かな声色で問い返してきたので、小十郎は「知りませんよ!」と言いながらブルブルと首を左右に振った。
毛利は公家の大江家を祖先に持っているそうだし、うちもそうだと聞いているが、だからと言って親戚だなどと思ったことはない。
「うちは、由緒正しい貧乏武家です」
自信を持ってそう言い放つと、伝八が小さく噴き出した。この男は大森の町を拠点にしているので、大江家の財政難について知っているのだろう。
「実際にはどうなのです? 毛利との同盟の話が進んでいるのでしょうか」
もし本当だとすれば、悪くはない話だ。
毛利と、たとえ短い間にせよ同盟を組めるのなら、兄君が尼子家を掌握するために必要な時間が稼げる。