10-6 病室6
兄君が足音も荒く立ち去った後、藤姫様はものすごく長い溜息をついた。
「そなたは……」
何かを言いかけて口をつぐみ、まじまじとこちらを見下ろしてきて首を振る。
小十郎はペタンと床に尻をつけて、大きく息を吐いた。姫君には申し訳ないが、礼儀を取り繕っている余裕はなかった。
たった今凌いだのは小十郎と宗一郎の進退にかかわる一件であり、「よくやった自分」と全身から力が抜けていたのだ。
姫君付きの年寄が親切に背中を撫でてくれる。
白髪交じりの菊村殿は、小十郎の祖母ほどの御年だが、往年の美貌がうかがい知れるかわいらしい御方だ。
ありがたく笑みを返したが、情けなくも腰が抜け、細かく震えてしまった。
「申し訳ございません。す、すこし気が緩んで」
「よいのです。少し横におなりなさい」
藤姫様は、去って行く兄君の背中をちらりと見送ってから、腰を抜かした小十郎に向き直った。
「兄上を相手に、ようあそこまで言うてくれました」
「ぶしつけで無礼な真似を……」
「いいえ。あれぐらいでよいのです」
美しい頬に華やかな笑みが過った。
その笑顔は、やはり宗一郎によく似ていて、端正で整っている。あきらかに兄君とは系統が違う顔立ちだ。
もちろん、端正な容貌だからといって、必ずしも優れた武勇や智謀を兼ね備えているわけではない。そんなことは誰もがわかっていることだが、目で見てわかる優劣があれば比べてしまうものだ。
「兄上も兄上じゃ。宗一郎を目の敵にするより、やるべきことがあるはずなのに」
藤姫様は、よく通る声でそう言って、年の離れた兄君に対して不甲斐ないと感じていると隠そうともせずため息をついた。
こんな想像をするのは不敬だろうが、実の妹からさえこんなふうに言われるのは、それだけ兄君の立場が弱いということでもある。
小十郎は心底気の毒に思いつつも、おとなしく口を閉ざしておいた。
尼子家のご当主に対して、一介の下級武士ごときが何かを言える立場にはない。
そのあとすぐに栗原様が来てくれた。お忙しそうなのは、負傷した者がかなりの数いるせいと、やはり大殿の容体がよくはないからのようだ。
はっきりとそう言われたわけではないが、深刻そうな表情で察することができる。
大殿が別の場所で療養するという話は、流れたそうだ。移動をするのが負担になるからだろう。
だが小十郎はここを出されることになった。
「……殿からのお達しだ」
「はい」
つまるところ、さっさと城から去れということだ。
兄君はしっかり、大殿や藤姫様と小十郎を引き離す算段をつけたようだ。
大殿が一緒ではないのだから、もちろん向かう予定だった屋敷を使わせてももらえるわけがない。
望むところだ。
「行く当てはあるのか? 染谷殿が預かっても良いと言うておるようだが」
「福船屋が休養する場所を用意してくれるはずです」
それが無理なようなら、松田様にお願いしよう。
小十郎ひとりなら屋敷など不要だ。下町の狭い長屋でもいい。戦の後始末で忙しいからといっても、それぐらいの面倒は見てくれるだろう。
小十郎の早すぎる返答に、栗原様はしばらく何か言いたげだったが、やがて溜息をついて首を振った。
「まだ安静にしておらねば、生涯足を引きずって歩くことになるぞ」
「それは困ります。きちんと静養いたします」
多少の薬は欲しいな。夜になるとまだ熱が出るのだ。
栗原様の目が、庭先のほうを向いた。
……忘れていたが、そこにはずっと半助が控えたままだ。
小十郎が申し訳ない気持ちでそちらを見ると、何故か半助が心得たように頭を下げた。
まだ日が中天に届かないうちに出て行く準備がされ、迎えに来てくれたのは染谷だった。
用意してもらったいくつかの着替えと、薬を抱えているのは半助だ。
二人の間に会話はなく、ギスギスとした雰囲気が居たたまれない。
栗原様も同じことを感じているようで、小十郎ではなく二人の顔を交互に見ながら、この先に注意するべきことを話している。
「まだ熱がでるだろうし、痛むだろう。当て布は一日に三回替えて……」
「わかりました」
小十郎が返事をして初めてこちらを見るありさまだ。
「あまりにも熱が上がるようなら、いつでも呼ぶのだぞ」
親切なそのお言葉に、ニコリと感謝の笑みを返すと、ようやくその表情が緩んだ。
兄君によく似た面立ちと、穏やかな気質……本来は兄君も栗原のような優しさを持っているのかもしれない。
そんな風に思いながら、世話になったことへの礼を述べた。
本音を言えば、これでも遅すぎるぐらいだ。
小十郎の身分を考えれば、もっと早くに城を出るべきだった。
遠巻きにこちらを見ている連中がニヤニヤと笑っている。……追い出されてざまぁみろと思っていそうだ。
小十郎は粛々と、二の丸を後にした。
染谷に背負われて、というのが締まらないけど。
問題はその直後に起こった。
黙って歩いている染谷は足を止めなかったし、数歩先を行く半助も周囲を見回したりしなかったから、すぐには気づかなかった。
数人の武士が三人を囲んでいる。いや数人というには多い。五人以上はいる。
染谷は気づいていても歩速を緩めず、目だけでジロジロと連中を牽制している。
取り立てて目立つところはないが、ここはまだ二の丸曲輪の中だし、男たちの身なりは悪くない。小十郎よりもよっぽど身分が高そうだ。
こいつらは危害を加えてきそうというよりも、ちゃんと出て行くか見届けようとしているのかもしれない。
最初は身構えていた小十郎だが、何もしてこないので気を緩めた。
そんな矢先。
少し先を歩く半助の背中が跳ねた。飛び上がったと言ったほうがいいだろう。
足元の石畳に何かが飛んできたのはその直後だ。
カランと固い音を立てて転がったのは小刀だった。
小十郎の顔面から血の気が下がった。
背負われていなければ、その場で腰を抜かしていたかもしれない。
染谷も、小刀を避けた半助も、顔色一つ変えず、足も止めなかった。
何故。どうして。……小十郎の頭はぐるぐると、いろいろなことを考えて空回りした。
たかが下級武士。命を狙われる覚えなどない。
既に宗一郎の文を隠し持っているわけではなく、何か特別な指示を受けているわけでもないのだ。
その時の小十郎は、自身が置かれている立場をよくわかっていなかった。
いや、立場そのものはそれほど変わらない。
変わったのは、周囲の見る目だ。




