10-4 病室4
その時察したのは、尼子本家の確執だ。
大きな家にはそれなりにあると噂では聞くが、小十郎のような下々の者には本来かかわりのないことだ。
だが空気を読むまでもなく、真正面から向けられる敵意が真実を告げていた。
小十郎は無難に、気づかないふりをしようとした。
頭を下げて黙っていたら、穏便に済むかもしれない。そんな期待をした理由は、雲の上のお偉いさんには、あまり関わりたくないという思いからだが……時すでに遅し。
「兄上っ!」
ここ数日で聞き慣れてしまった藤姫様の声に、内心で溜息をついた。
そろそろ来る頃だと思ってはいたが、鉢合わせしてほしくなかった。
「……藤乃」
兄君の声色が、急に取ってつけたように平淡になった。……気のせいか?
小十郎は気づかれないように顔を少し上げた。
部屋の外で兄と妹とが向かい合っている。藤姫様は見るからに怒り心頭で、対する兄君は冷ややかな表情。
もっとよく観察したかったが、虎之助殿とやらがこちらをじっと見ていたので、さりげなく視線を床に戻した。
「小十郎は療養中なのです!」
「小十郎な。随分と親しくなったものだ」
「し、親しくなど」
「どこの馬の骨とも知れぬ若造に、二の丸に部屋を与えるなどどうかしている」
「父上のご命令ですっ」
「つけこまれたとしか思えぬ」
「兄上っ」
兄妹の言い争いはますます激しくなる。
藤姫様の憤懣は露骨に伝わってくるが、兄君のほうには、この部屋に突進してきたときのような熱量は微塵も感じられなかった。
むしろ皮肉気で、嫌味な口ぶりだ。
こんな言い方をされたら、姫君のほうも反発したくなるだろうに。
小十郎はしっかりと頭を下げたまま、どうしたものかと思案した。
ここで口を開くと、絶対にややこしいことになる。だが、流れに任せていてうまくいく予想ができない。
思い切って、そろりと顔を上げた。
言い争いをしている兄妹の様子を伺おうとして、虎之助殿と目が合った。
じっと見返したのは、喧嘩を止めてくれという懇願からだが、おそらくはいつものことなのだろう、虎之助殿は気にもしていない様子だ。
「ずうずうしく二の丸に居座って、不相応だとおもわぬのか、下郎」
互いに視線で意思疎通をしようとしていた矢先、唐突に矛先がこちらを向いた。
いや、そもそも小十郎を追い払うためにここに来たのだろうから、唐突ではないのだろう。
だが、あまりにも頭ごなしだったので、面食らってしまった。
……下郎だなどと、初めて言われた。
小十郎は当惑し、とっさに反応できなかった。
兄君はそれを愚鈍と思ったのか、苛立たし気に足を踏み鳴らした。
「何を企んでおる! 宗一郎に命じられたか」
「兄上っ」
思わずひやりとするような兄君の声と、これまで以上にいきり立った藤姫の声。
これはいけない。
小十郎は思い切って「あの!」と声を上げた。
「ご不快に思われたのなら申し訳ございません。すぐにも城を下がります」
「その必要はありませぬ」
兄君と向き合う藤姫が、ぐっと胸を張った。そうすると兄君よりも背が高い。
兄君のほうが短躯というわけではなく、姫が大柄なのだ。
「小十郎は、わたくしと父上とを救ってくれました。間に合わなんだ兄上とは違います!」
「……なんだと」
兄君は激怒の表情で半身を引き、腰の刀に手を当てた。
ああ、本当にまずい。
小十郎は立ち上がろうと腰を浮かせて、痛みに膝をついた。とっさに動けない不甲斐なさに歯噛みしながら、片手をついて這うようにふたりの間ににじり寄る。
もちろん、兄君にそんなつもりはなかったはずだし、藤姫様も兄から手討ちになるとは思っていないだろう。
だが、見ている方は冷や冷やした。
そんなつもりはなくとも刃傷沙汰になることはある。万が一にも、姫君が傷を負ってはいけない。
「お許しください」
小十郎は、おそらく腰が引けたみっともないありさまには違いないが、なんとか姫君の盾になれる位置まで進んだ。
「今すぐ下がります故、ご堪忍ください」
急に動いたせいで、あちこちがものすごく痛む。特にわき腹と左足が。
小十郎はゼイゼイと荒い息を継ぎ、なおも何かを言おうとした藤姫様を手を上げて制した。
「大殿と姫君のことをご心配なさっておいでなのですよ」
兄君が心配するのは、当たり前だ。
あやうく城が落ちかけ、大殿は死を選ぶところだった。姫君もご無事ではいられなかったかもしれない。
間に合わなかったというのが今回の内乱のことで、戦を収めたのが兄君ではないなら、なおのこと、忸怩たる思いでいるだろう。
そんな負い目を正論で責められたら、余計に感情がこじれるのは無理もなかった。
「ご城下のほうにあてがございます故、そちらに参ります。ご不審な点は存分に詮議していただいて構いません」
小十郎が背筋を伸ばして兄君を見上げると、兄君は不機嫌そうな表情のままこちらを睨み返してきた。
だが、腰にあった手が下がっている。とりあえず流血沙汰は回避できたか。
「お望みなら、すぐに山吹城へ戻ります」
小十郎自身が疑惑の目で見られるのは仕方がないが、宗一郎への懐疑は困る。
この状況で兄弟間がぎくしゃくするのは、ただの兄弟喧嘩で収まらず、お家の存続にもかかわりかねない。
まったく似ていない兄妹だが、不服そうな表情だけはそっくりだった。ふたりは同じ角度で唇をへの字に曲げ、苛立った様子で口をつぐむ。
小十郎は浮かせていた腰をぺたりと廊下の床に落とした。痛みが限界に達したからだ。
「小十郎!」
姫君が思わず、といった感じで手を伸ばそうとしてきた。
「だ、大事ありませぬ」
ようやく言い争いが収まりそうだったのに、また揉めては困る。
慌てて立ち上がろうとしたところを、腕を掴まれ支えられた。
右腕を掴んでいるのは虎之助殿、左腕を掴んでいるのは姫君のお付きの年寄だ。
姫君ではなかったことに、心底ほっとした。