10-1 病室
目を開ける前から、ぼんやりと声が聞こえていた。
誰の声か、何を言っているのかはわからない。そもそもそれは重要ではなく、底へ底へと沈み込むような強い疲労感のほうが勝っていた。
目を開けるどころか、上の瞼と下の瞼が引っ付いて離れない。
「疲れが溜まっていたのでしょう」
そこだけ、急にはっきりと聞き取れた。
「そうだな。良く寝かせてやってくれ」
目代様?
かろうじて、そう考える理性は残っていたが、いかんせん、目を開ける気力がなかった。
次に目を覚ました時、強い既視感を覚えた。前にもこんなことがあった。いや、「前」というには直近だ。
その時と違うのは、今回は身じろぐだけで全身に激痛が走ったことだ。
痛い痛い痛い! なにこれ!
「……おお、起きたかね」
そう言って、涙目になった小十郎を覗き込んできたのは、見覚えのある医者だった。大殿の傍にいたひとりだ。
「息は止めぬがよい。痛みはそのうち引く」
そ、そんなこと言われても……。
言われたとおりに、ただ息を吸って吐くことだけに注力していると、思考を埋め尽くすような激痛が次第に和らいできた。
完全になくならないのは、実際に怪我がひどいからだろう。
「はあ」と息を長く吐き、あばらにずきりと痛みが走ったので、「いてて」とわき腹をさすろうとしたのだが、そうすることによりなおのこと悶絶する羽目に陥った。
だがちらりと見た感じ、両手両足は失っていない。ちゃんと動く。
よかった。小十郎まで武士を続けられなくなったら、大江家はどうなる。困窮する母と兄の顔を思い出したところで、はっと我に返った。
そうだ。戦はどうなった。山中御殿は? 大殿は?
「まあ待て、今はおとなしくしておれ」
学ばない小十郎は勢いよく跳ね起きようとして、あえなく悶絶した。
生まれたての小鹿よりも全身をぶるぶると震わせていると、近くに座っていた医者がポンポンと無事な方の腕を叩いた。
「傷がふさがるまでに相当掛かるだろう。痕も残るだろう。だが、大事なところは傷ついておらぬ故、そのうち治る」
そんなことはいい。……いや、よくはないがとりあえず置いておく。
「大殿は」
ようやくこぼれた声はしわがれて細かった。
「ご無事だ」
老医師のしわくちゃの顔が、なお一層くしゃりと歪んだ。
「お主のお陰だ。大殿はあの場所で最期を迎えるおつもりだった。今は死に損ねたとお怒りだが、これでよかったのだ」
「そうですか」
大国の権力者に睨まれるなんて、安心できる要素ないんだけど!
「何故かあの後、ケロリとして目を覚まされてな。ここ数日は雀の涙ほどしかお召し上がりになれなかったのに、今朝など白粥を食されてな」
怒りが生きる火種になるのなら、まずはよかった。
あの病状から快癒するとは思えないから、焼け石に大量の水を撒いたといったところだろう。
それでも、謀反され首を獲られるよりは、ずっといい。
少しでも長く、尼子内部及び周辺諸国への睨みを利かせていてほしい。
「さきほど、松田様がお越しになられていた」
松田様、つまり目代様のことだ。
「気に入られておるな。後遺症も残らぬだろうと言うたら、ほっとなさっておったぞ」
「目代様のお怪我の具合は? 随分と重傷のようでしたが」
「うむ」
医者は疲れたような顔で、少しだけ目じりのしわを深くした。
「あの腕が使い物になるかどうかは……半々だろう」
たしか切りつけられたのは右腕だった。筆を持つ方の手だ。文官として致命的かもしれない。
武士としても、刀が握れなくなるというのは厳しい。
「だがご本人が、命を拾っただけでも儲けものだったと仰っておられる」
「……そうですか」
もういいお年だから、隠居ということになるのだろうか。
宗一郎にとっては、口やかましくはあっても強い味方だったのに。
「お主はまずはその怪我を治すことだ。若いからと無理をしてはならん」
「はい」
小十郎は素直にそう言って、痛みが来ないよう慎重に息を吐いた。
それにしても眠い。もの凄く眠い。
おそらく、かなりの血を失ったせいもあるのだろう。
会話が途切れると、すぐに瞼が重くなり、瞬きも緩慢になる。
まだ聞くべきことがある。あのあと、戦況はどうなったのだ。大殿がご無事で、白粥を食べながら怒っているのなら、状況は悪くないと見ていいだろうか。
結局謀反者は誰だったのか。どういう結末になったのか。兄君の帰還はまにあったのか。
すぐにも問い詰めたいのだが、いかんせん、目も開けていられない。
さわり、と葉擦れの音が聞こえた。
明るく、風通りの良い病室だ。しかもとても静かだった。
あれほどの激戦があったのだ、死者も重傷者も大量に出たはずで、小十郎のような下級武士の負傷者は、ひとつの部屋に大量に詰め込まれ、うんうん唸るのが定番だ。それなのに……。
落ちた瞼の向こうに影が差した。誰かが来たようだ。
ふわり、と漂ってきたのは、覚えのある香の匂いだった。
誰かの手が額に触れる。ひんやりと冷たく感じるのは、発熱しているからだろう。
そっと濡れた手ぬぐいが額の上に置かれて、耳馴染みのない優しい声が聞こえた、その時には意識は沈みかけていて、何を言われたかまったくわからなかった。