9-17 山中
不思議なことに、その一歩を踏み出したあとのことは、よく覚えていない。
気がつけば、小十郎は地面に仰向けに倒れていた。
背中に冷たいものが染み込み、湿った落ち葉と腐葉土の匂いが鼻を突く。肺の奥に微かな火の匂いがまとわりついて、どこかで何かが燃えていたことを、ぼんやりと思い出した。
夜だった。空を見上げれば、木々の合間からわずかに朱を含んだ暗闇が覗いている。
月の気配はなく、空気は冷え、音という音がすべて布越しに聞こえるような、こもった静けさに包まれていた。
どれほど時が過ぎたのだろう。頭の中が霧に包まれたようで、思考がうまく働かない。
唇を舐めると、鉄の味がした。口の中に血と砂が混じり、歯がざらつく。
視線の先に、木の枝が折れてぶら下がっているのが見えた。二本、三本、いずれも異様な角度で折れ曲がっている。それが自分の身体が通った痕跡だと気づいたとき、ようやく小十郎は今の状況を思い出した。
冷たいものが、背筋を通って這い上がってくる。
飛び降りた。あんなに高い土塁の上から。
そうだ。敵に追われ矢を背に受けながら、囮の印首を抱えて……飛んだ。
記憶が断片的に蘇ってくる。足元が宙に浮いた感覚。風を切る音。そして、どこかで誰かが叫ぶ声……。
意識が戻るにつれ、遅れて痛みが押し寄せてきた。
右の腕が焼けるように痛む。矢がかすったのだろう。袖が裂け、血が布を濡らしている感覚がある。
脇腹も鈍く疼く。呼吸するたびに肋骨が軋んだ。折れているかもしれない。
体中のあちこちを擦りむき、背中には尖った石と枝が突き刺さっているような痛みがあった。
だが致命傷ではない。まだ動ける。まだ生きている。
遠くでほら貝が鳴った。谷を渡るような、低くくぐもった音だ。追撃の合図か、あるいは攻勢の始まりか。小十郎は息を止めて耳を澄ませた。
音は一度だけ鳴り響き、そして静寂が戻る。いや、そもそも静けさなどありはしなかった。
遠くで怒号や剣戟の音が聞こえる。大勢が命を削り合う音だ。
戦はまだ続いている。
木の切れ間からのぞく土塁の上で、チカチカと炎が揺らいだ。松明だ。
こちらを見下ろしているような影が、火を背にしてわずかに動く。
見つかったかもしれない。ここに居てはいけない。
心臓が激しく鼓動を打ち始める。喉が渇き、手のひらに汗がにじんだ。
痛みがますます強くなってきた。
だがそれこそが、生きている証だ。
小十郎はもがくようにして体を横向きにし、地面に片肘をついた。激痛が背筋を駆け上がる。息が漏れ、思わず目を閉じた。
だが、動ける。手足の感覚はある。立てはしないが、這うことならできるかもしれない。
痛みをこらえて目を開けると、木々の隙間から見える夜空に火の粉が舞い上がっているのが見えた。山中御殿が燃えているのだ。
暗い空がほのかに赤く見えるのは、夕日が残っているからではなく、赤い炎が夜空を照らしているからか。
ザアアアアッと夜の山が木々を揺らす。
風が吹くたびに、焦げた臭いが濃くなっていく。風向きが変われば、この谷も火に包まれるかもしれない。
逃げなければ。敵に殺されるのも、火に飲まれて死ぬのも嫌だ。
そのときだった。近くの茂みが、ごそりと音を立てた。
小十郎はもがくのをやめ、息を止めた。
足音がする。人の歩みだ。重く、しかし慎重だ。踏み鳴らすでもなく、確かめるように地を踏む足取り。一歩、また一歩と、確実にこちらに近づいてくる。
小十郎は必死に呼吸を整えようとしたが、荒い息遣いが止まらない。相手に聞こえてしまうかもしれない。包みを抱える腕に力を込める。たとえ偽物でも、敵に渡すわけにはいかないのだ。
至近距離で足音が止まった。
静寂。
茂みの向こうで、かすかに枯れ枝を踏む音がする。相手も警戒しているのか、それとも……。
小十郎は泥まみれの腕で包みを抱え込むようにした。痛みで震えるが、手放すわけにはいかない。もし敵だったら、最後まで抗わなければならない。
茂みが開かれ、一人の男が姿を現す。
「……生きていたか」
低い声だった。枯れた喉の奥から搾り出すような響きだ。
この距離まできてようやく顔を判別することが出来て、小十郎はかすかに目を見開いた。
染谷だ。
隠し通路を通って山中御殿へ向かっていたはずではなかったのか。
染谷の表情は読めない。片目が闇に沈み、もう片方の目だけが、わずかに光を反射している。その目が、見る者を圧するような気配を纏い、暗がりから小十郎を見下ろしていた。
「土塁の上に立ったお主を見た。……まさか飛ぶとはな」
染谷はガチャリと鎧がこすれる音を立てながら、片膝をついた。
今だ腕に抱きかかえたままの羽織に険しい表情を向け、「……大殿か?」と問うてくる。
小十郎はぐっと腕に力を込めた。誰が聞いているともわからない場所で、安易な返答は出来なかった。
どのみち、近くに来ればわかる。人の首が包まれているにしては小さく、重さもないからだ。
小十郎の微妙な反応を見て、染谷は納得したように頷いた。
「わかった」
何が「わかった」なのか。そもそも染谷はどうしてここにいるのか。抜け道とやらがこのちかくにあるのか?
小十郎の意識はもう限界に近く、考えをまとめることができなかった。息は荒れ、身体は震え、目の前の染谷の顔も、滲んで揺れている。
「立てるか」
問われても、答える気力すらない。
染谷の手甲に覆われた手が、小十郎の肩に触れた。おそらく一番出血している場所なのだろう。
小十郎はぎゅっと目を閉じた。自分の身体がどんな状態か、見る勇気が持てない。
手も足もあるとは思うが、すべてが無事なわけがない。何しろあの高さから飛び降りたのだ。
もう一度目を開けて、折れた木の枝を見る。……本当に、よく生きていたな。
真上を見た小十郎の視界に、強面すぎる男の顔が強引に割り込んできた。
びっくりした。
「……息をしろ」
その表情は心配そうというよりも、怒りをこらえているように見えた。
強面顔が急に至近距離に出てきたら、誰だって驚く。
そう言い返してやりたかったが、小十郎の意識がもったのはそこまでだった。