9-16 山中御殿~
走る。走る。走る。
燃え盛る山中御殿を背に、丸めた打掛を、大事に腕に抱えて。
小十郎だけではなく、あの場に残っていた数人が、囮役を買って出た。
正直、ひとりではすぐに捕まっていただろうから、ありがたい。
暗い夜だ。幾度も躓きはしたが、一度も転ばずにいるのは奇跡だった。
きっと運が味方をしている。
大殿は、どれほど声を掛けようが揺すろうが、ピクリとも反応しなかった。
すぐそこまで近づいている敵を前にして、誰もが第一声を飲み込み黙った。
大殿の望み通りにするか。それ以外の道を取るのか。
謀反により大殿が討たれたと知れわたれば、大きな混乱が沸き起こるだろう。ここにいる者たちはもちろん、その家門も、厳しい局面にさらされる。
尼子が揺れれば、間違いなく毛利が仕掛けてくる。毛利だけではなく、そのほかも。
大殿の死そのものよりも、それによってもたらされる災禍をいかに抑えるかだ。
回避するためには、何としてでも大殿に死んでもらっては困るのだ。
即座に判断を下さなければならなかった。
「半助、大殿を背負ってこの囲いを抜けよ」
小十郎考えた末にそう言うと、周囲は一斉にぎょっと息を飲んだ。
「何を馬鹿な! 素破ごときに大殿を任せるわけにはいかぬ!」
案の定、真っ先に反対してきたのは側付きの男だ。その場にいる全員が同意見のようだ。当の半助でさえ、当たり前だとばかりに頷いている。
「では最悪の場合、即座に大殿の首を落とし、それを持って逃げ切れますか」
だが続く小十郎の問いに、反対していた男たちが軒並み黙った。これだけの敵に囲まれて逃げおおせる自信がなかったのだろう。
小十郎とてそうだ。担いででも逃げようと考えてはいたが、それもここまで敵に囲まれた状態では難しい。
「大殿を失うわけにはいかないのです。……生きていようが、死んでいようが」
真正直にそのことを告げると、信じがたいものを見る目で睨まれたが、首を渡すわけにはいかない、ということには同意してくれた。
そうしている間にも、ろうそくから燃え移った火がますます大きくなり、炎の幕の向こう側からは大勢の敵の怒声が聞こえてくる。
議論している時間はなかった。
「わかった」
最終的に、そう決断を下したのは側付きの男だ。
「脇坂さま!」
小姓たちが気色ばんだが、その真っ赤に充血した目で見据えられて黙った。
「だが我らが向かうのは城ではない」
残り少ない武士たちが、素早くこの先の動きを確認する。
その間に小十郎は、意識がない大殿の身柄を半助の背に乗せ、落ちないように固定する助けをした。
枯れ枝のようにやせ衰えている大殿だが、もともとの体格がいいので、結構ずっしりと重い。
触れた手の冷たさに、今わの際の小助を思い出してしまい、再びジワリと涙がにじんだ。
生きて欲しい。まだ死んではいけない。
祈りを込めて、最後にその手をぎゅっと握った。
半助は、ただ一つの指示を受けて、その場から早々に去った。
もちろん、全員が半助に任せることに納得したわけではなく、後を追おうとした小姓もいたが、敵の怒号がその足を止めさせた。
小十郎は黙って、姫君の小袖を腕に抱えなおした。丁度、印首にみえる大きさだ。
それを見た他の武士たち、伝八までもが、同じように布を丸め小脇に抱える。
それ以上の言葉は不要だった。互いに視線を合わせることもしなかった。
ドーン、ドーンと、大きな音とともに、炎の幕がメキメキと音を立てて崩れはじめる。
水ではどうにも火が消せず、建具を壊して侵入を試みているようだ。
その場に残っていた全員が、一斉に四方八方に向かって駆けだした。
そして走る。ひたすらに走る。
小十郎お得意の、人目のつかない場所に潜り込むという手段が今回は使えない。
むしろその逆で、できるだけ目立つように。大殿、あるいはその印首がどの方面に運ばれているのか、判断に迷うように。
「あそこだ!」
怒声が聞こえる。
振り返らなかったから、それが小十郎を目指してのものなのか、他の誰かなのかはわからない。
塀を越える自信がなかったので、土塁のほうに進んだ。
土塁の根本は緩やかな斜面で、もちろんそれでもそこを道具無しで登るのは難しいのだが、幸いにも、土塁の上に上がるための階段がところどころにある。
敵が塀のほうに集まっていて、土塁方面には少ないというのも大きな理由だった。
息が上がる。あばらが痛い。もう走るのは無理だ! そう全身が悲鳴を上げる。
それでも小十郎は、真っ暗な空へと続く階段を登り続けた。
ようやく土塁の上に到達した。そこにもぐるりと白壁が続いている。
だが矢狭間と矢狭間の間に木部があって、そこを足場にすれば乗り越えられそうだった。
「待て!」
足を掛け、上ろうとしたところで呼び止められた。十人程が追ってきている。
逃げるためには、ここで足場から下りるか、塀の上に上るか。二択ではあるが、選べるのはひとつだけだった。
改めて打掛の包みを抱えなおす。わずかに漂う香の匂いに、姫君の美しい顔が脳裏に過った。
宗一郎の姉君だろうか。あるいは従妹? どこか本城の姫にも似た雰囲気だった。……だから嫌だったのかな。
小十郎は、やけにゆっくりとした思考で、そんなことを考えていた。
「小十郎様」
小菊の泣き顔。
「若さま」
春の、小助の心配そうな顔。
それから、実家の母と兄。
宗一郎や根津様、目代様の顔まで思い出していた。
彼らは一様に不安そうな、心配そうな顔をしてこちらを見ている。
人は、あの世に向かうときに走馬灯を見るという。これがそうか……。
壁の上から、月も星も見えない暗い夜空を仰ぎ、小十郎は「ああ」と声を出して息を吐いた。
ビン! と弓を引く音がした。
不思議と怖くはなかった。
そうか、死ぬのか。
淡々とそう感じ、無の境地で一歩踏み出した。
「ご武運を」
姫君の、気丈にふるまう声が最後に耳に残った。