9-15 山中御殿3
大殿はきっと、拒否しようとしたのだと思う。
だがそう返されるより前に、ドンと地面を突き上げられるような振動がした。
剣戟や喚声とは明らかに違う。大きな何かが破壊された音だ。
塀か、あるいは門か。どちらにせよ、いい知らせではない。
「急がねば……」
小十郎は言葉を詰まらせた。
その場にいた全員が、小十郎ではなくその背後に視線を向けていたからだ。
全員の顔色が、紙のように白い。
正確には、大殿の顔色が悪いのは病のせいだし、半助は作り物のような無表情。だがそれ以外の、小十郎を含めた全員の顔色は、重病人の大殿よりも悪くなっていただろう。
振り返る前に、かすかな足音が耳に届いた。ガチャガチャと鳴っているのは、鎧の音だ。
誰も何も言わないので、小十郎は一呼吸おいて、恐る恐る首を巡らせた。
まず見えたのは、遠くの廊下を土足で歩いている数人の男たち。物々しい鎧兜を身にまとい、手に握っているのは抜き身の刀。槍を構えている者もいる。
怖くなって、素早く視線を逸らせた。生き物としての本能だから仕方がない。
だが、目だけがギラギラと苛烈な光を放っている大殿を見て、ぐっと奥歯を食いしばった。
正直に言おう。怖い。本当に怖い。恐ろしくてたまらない。
だが、人はいつか死ぬものだ。若かろうが年老いていようが関係ない。小十郎の「その時」が今ならば、せめて何かの役に立ってから死にたい。
ゆっくりと呼吸を整える。耳を澄ませて、足音までの距離と、残された猶予を素早く見定める。
「伝八」
聞こえているかわからないが、廊下側にいるはずの男に向かって呼びかける。
「合図をしたら、すぐに障子を閉めろ」
小十郎はそう言って、両手両足で這うようにして部屋の隅に移動した。下っ端が恐怖に慄いて腰を抜かしたように見えただろう。
「申し訳ございません」
覚悟を決めて、ひと言そう詫びておく。
小十郎が袖の奥に残していた小石は、たったの三つ。狙いを外しはしないが、うまくいくかは正直運だ。
「今だ!」
小十郎の、小さくひっくり返ったその掛け声に、視界の端のほうで複数人が動くのが見えた。
投げた小石は平べったいいい形をしていたので、狙い過たず燭台に当たった。燭台は重いので、礫が当たったところで倒れるようなものではないのだが、狙ったのは軸ではなく皿だ。正確には、ろうそくそのものでもある。
障子が勢いよく閉まった。その最後の瞬間、向かってくる男たちが慌てて駆けだすのが見えた。
同時に、倒れたろうそくの炎が障子の紙に燃え移る。
小十郎は素早く立ち上がり、近くにある襖を開け放った。
直後、「きゃあ」と、いくつかの悲鳴が上がった。大殿の奥方かご側室か姫君か。狭めの部屋に身体を寄せ合って女衆が集まっている。
人数を見て、全員で逃げるのは無理だと判断した。
さっと見回し、その中で最も身分が高そうな女性を探す。
「大殿の首を敵に渡すわけにはまいりませぬ」
小十郎が挨拶もなくそう言い放つと、一番上座に座っていた年配の女性が、はっと息を飲む音が聞こえた。
「わかりました」
しっかりした声でそう答えたのは、その隣に座る若い姫君だ。
「覚悟はしておりました。父を御頼み申します」
「まずその着物を脱いでください」
小十郎は、姫君が言おうとしたことをろくに聞きもせず、食い気味に返した。
「……えっ」
「山中御殿が燃え落ちる前に城のほうに向かってください。重い打掛を着ていては足が鈍ります。小袖一枚で十分です」
そこで初めて、大殿のほうから姫君たちに目を向ける。
驚愕の表情で見つめ返され、若干怯んだものの、そんな間はないと最後まで言い切る。
「まとまって逃げては捕まります。各々、できるだけ同じ道を通らぬように」
「わかりました」
その時初めて、二人の視線がしっかりと重なった。
普段なら、絶対にまともに目も合わせられない。身分的なものもあるが、こんな圧倒的迫力美人と面と向かって話すなど無理無理。
だがその時の小十郎は、背中で燃え上がる炎と、すぐそこまで来ている敵に意識が向いていて、そこまで気が回らなかった。
一礼して部屋に進み入り、迷いなく脱ぎ棄てられた、鮮やかな垂れ藤柄の打掛を拾い上げる。
そこで一瞬、指先が触れ合った。お互いにハッと息を飲むが、先に手を引いたのは姫君のほうだ。
ゴウ……と炎が巻き上がる音がした。同時に、すぐそこの廊下で大声を張る男たちの声も。
小十郎はちらりとそちらを見てから、拾い上げた打掛をぐるぐると丸めて小脇に抱えた。
「……さあ、行ってください」
すでにもう、廊下とは反対側の襖から脱出が始まっている。女中や女房らが、それぞれが仕える方々の手を引いて、思いのほか健脚で遠ざかっていく。
もう少し猶予があれば、安全に逃がすこともできたのに。
歯噛みしながら、次は大殿だと元の部屋に戻ろうとしたところで、小十郎の背中に声が掛けられた。
「ご武運を」
振り返った時には、小袖姿の姫君が、長い黒髪を翻して襖の奥に消えていくところだった。
そこでようやく、蝶よ花よと育てられた姫君にとって、この状況はさぞ恐ろしいに違いないと思い当たった。
小十郎も怖い。油断したらぶるぶると膝から震えるぐらいに。
だが今は、夜が味方だ。月のない暗闇と、燃え盛る炎の明るさが、逃げる姫君たちの姿を覆い隠してくれるだろう。
小十郎は、脱ぎ捨てられた打掛を数枚抱えて、部屋中の男たちが集まっている大殿の枕元へと急いだ。
先ほどまでは、あれだけ眼光鋭くきらめいていた両目は閉ざされ、さながら屍のようにぐったりと横たわっている。
真っ青な顔なのは見守る全員……半助以外の全員だ。とりわけ、大殿の脈を取っていた医者が、脂汗をにじませながら震えている。
小十郎は最悪の事態を覚悟しながら、臥所に駆け寄った。




