9-14 山中御殿2
そうだ。今こそ出さねばと、一礼して懐に手を伸ばすと、その部屋に控えていた全員が腰を浮かせて身構えた。
小十郎が気にせず取り出したのは、もちろん刃物ではなく、ようやく渡すことが出来る宗一郎の文だ。
複数の手を介して、いくらかヨレた文が大殿のもとへと渡った。
小十郎は御役目を達成したことに心底ほっとしながら、大殿が文に目を通すのを見守った。
ろうそくの明かりに浮き上がる骨の浮いた顔を観察し、その顔色の悪さを改めて認識する。
そこにあるのは、知識のない素人目にもわかるほどの、明らかな死相だった。
宗一郎のふさぎ込んだ顔を思い出して、ずきりと胸が痛む。
もう長くない。もしかすると数日。いや数刻の可能性もある。
大殿は文に目を通してからこちらを一瞥した。それは眼光鋭い視線で、一瞥というよりも一睨みといったほうがいいかもしれない。
ふう……と、その痩せた肩が上下する。そして再び手招かれた。
こうも何度も促されると、知らぬふりをするわけにもいかず、改めて床に額が付くほど頭を下げてから室内に入る。
大殿のお側にお仕えしている者たちが、さらに警戒した様子だったが、大殿ご自身がそれを腕の一振りで退けた。
「……大江、と言うたか」
「はい」
声にも力がある。病で体力が弱っていても、気力はまだまだまだ衰えていないようだ。
それは、この状況下における数少ない希望だった。
「宗一郎はどうじゃ。仕え甲斐はあるか」
今は暢気にそんな話をしている場合ではない。だが、真正直にそう言える状況でもなかった。
「良くしていただいております」
小十郎は本城家の禄を食む家臣であり、要は頭がすげ変わっただけのことで、てっぺんが誰であろうと大きな問題ではない。暇を請おうとしていたぐらいだし。
だが人として、同世代の男として、嫌悪を抱くような気質ではないと思うし、むしろ助けになってやりたい気にせられる。それは、上に立つ者として重要な資質だと思う。
「誠心誠意お支えしたいと思うております」
小十郎の返答をどう思ったのか、大殿は血色の悪い唇の両端を引き上げた。
「尼子にとって銀山は必要な資源じゃ。決してよその手に渡してはならぬ」
「しかとお伝えしておきます」
言いたいことはわかる。遺言のつもりなのかもしれない。だが小十郎はさらりと流した。そういうことは、直接本人に言ってやってほしい。
それよりも、外の騒ぎが無視できないほどに大きくなってきている。
もしかすると、塀を越えられたのかもしれない。
さっと視界の端で半助が動いた。素早く大殿の傍まで寄り、耳元に二言三言囁く。
大殿は半助の方に目は向けず、じっと小十郎に視線を据えたまま頷き返した。
「ワシはここから動かぬ」
静かな宣言だった。もはや覚悟は決まっているのだろう。
その意思を尊重したい気持ちはもちろんあったが、小十郎の返答は否だった。
「それは困ります」
口をついて出た言葉に、その場にいた全員がぎょっとした。半助も、大殿もだ。
一瞬後に小十郎もはっとして口に手を置く。
「申し訳ございません、つい本音が」
「……本音」
大殿が、あっけにとられてそうこぼし、次いで「くくく」と喉を鳴らした。
「本音、本音か」
小十郎は肩をすぼめて小さくなって、「申し訳ございません」と繰り返す。
だが、言いたいことは変わらない。病で没するのと、裏切り者の手で殺されるのとでは全く違う。
「息子らは敵を許さぬだろう。力を合わせて討つはずじゃ」
自身の死すら勘定に入れて、しっかりとした口調でその先のことを語る。死した後の行く末を見定める強さは素晴らしいことだと思う。だが、すべてがいい方に転がるとは限らない。
その真逆に向かう可能性は? ないと言えるか?
「虎視眈々と機会を狙っている者どもは、好機と思うでしょう」
間違いなく毛利が攻めてくる。毛利だけではなく、これまで尼子の権勢に身を縮めていた中小の領主たちも、我も我もと敵対してくるかもしれない。
最悪なのは、大殿が抜けた穴をうまく塞げなかった場合だ。
兄君にその器量はあるのか? 新宮党とやらを制し、割れた尼子を再びまとめることができるのか? できなかったら、最悪の場合尼子家は滅びるぞ。
「尼子は生き残れるとお思いですか」
小十郎の、震えを堪えたその問いかけに、大殿はたいして思い悩みもせず首を横に振った。
「滅びるのなら、それまでのことよ」
あまりにも容易く返されたその言葉に、心底ぞっとした。
小さな家門の話ではない。どれだけの者の命がかかっているか、わかっているのだろうか。
いや、わかっていて言っているのだ。息子たちにその器量がないなら滅びればよいと断言できるのは、潔いともとれる。
だがそうなった場合、真っ先に狙われるのは、最大の財源である銀山だ。下手をすると、富田城より先に喰われるかもしれない。
そんな事はさせない。
小十郎はすっと背筋を伸ばした。
「なんとしてでも生き延びて頂きます」
「無礼な!」
側付きが気色ばんで怒鳴りつけてきたが、小十郎の目が涙でいっぱいにうるんでいるのを見て明らかに怯んだ。
「某が担いででも逃がします」
枯れ枝のような病人だから、死ぬ気になればできなくはないだろう。
「最期まで生きあがいて、お家の安泰を見届けてください」
そう言い放った瞬間、ぼろりと大粒の涙が両眼から溢れ頬を濡らした。
たとえこの腕を失くそうと、足がもげようと、背骨が折れようと。
故郷を守るためならば、命を掛ける。
それが、大江小十郎の決意だった。




