9-13 山中御殿1
「大江様!」
再会は唐突だった。
駆け寄ってくる男の顔を見た瞬間、小十郎の全身から力が抜けた。
その大声はきっと意図してだ。伝八が大きく手を広げてそう叫んだので、近くにいた者たちの警戒心が明らかに緩んだ。
「伝八!」
小十郎は、その場にへたり込んだまま大声で返した。
互いに両手を伸ばし、互いの無事を確かめるように声を交わす。
「無事か! 頭を負傷したと聞いた」
「何故ここに」
同時にそう口を開き、二人して一瞬言葉を途切れさせ、ともあれ無事でよかったと肩から力を抜いた。
「店のほうにいてくださいと申し上げたはずです」
「そういうわけにはいかぬ」
小十郎はほっと息を吐いた。
見たところ、伝八は元気そうだ。確かに頭部に布を巻いているし、いくらか顔色も悪かったが、想像していたほど悪くはなさそうだ。
もしかすると、不穏だと思っていた三の丸での拘留も、伝八自身が望んでそうしたのかもしれない。
結果論、こんな事になるとわかっていたのなら、それは正しい判断だった。
小十郎は伝八に助け起こされて立ち上がった。
「大殿はご無事か?」
「もちろんです」
やけに素早く大声で帰ってきた返答に一抹の不安を感じながらも、小十郎はとりあえず安堵の息を吐いた。
「目代様から指示を受けてきた。敵を防ぎきれなくなる前に、本丸に移動するようにとのことだ」
ここではそう言ったが、正確には違う。
大殿にはひそかに、富田城から逃れてもらおうと思っている。逃げると言っても、すぐそばまで来ている味方の大軍と合流するのだ。
本丸に敵が攻め込むまでの時間が稼げるのが大きいし、人質にされるわけにはいかないというのもある。更には、敵を城の方向に集中させ、誘い込んで討つという手も取れる。
懸案事項としては、大殿の容体と、もしかすると城を落ちることを拒否されるかもしれない、ということだ。
今の状況下なら、まずは城のほうに逃げるのではなく移る。戦略的にそう説得できると思う。
もちろん、説得は小十郎がするのではないぞ。そういうことは、もっと上のほうの立場の方々が考えることであり、下っ端は言われたとおりにするだけだ。
「急ぎ案内してほしい。書簡を預かっている」
目代様は筆を握ることが出来る状態ではないから、預かっている書簡というのは宗一郎の文のことだ。これを渡せば少しは肩の荷が下りる。
不意に、伝八の視線に何かが混じった。
小十郎はそれを、努めて考えないようにした。
先導して案内してくれる背中を、不安を押し隠しながら追いかけ、時折躓きそうになるのをこらえるために足元を見る。
泥と煤で汚れた袴が目に入り、こんな格好で尼子の大殿と対面するのかと気が引けた。
いや、たとえもっと泥水を浴びていたとしても、鮮血まみれだったとしても、会わなければならない。
宗一郎からの文を届けるという理由よりも、もっと重要なことがある。
彼の父親をこんなところで死なせるわけにはいかない。
病に伏した竜であっても、竜は竜だ。
身内の裏切りに喉笛を食い破られるぐらいなら、最期まで生き汚くあがいてほしい。
山中御殿の奥は静かだった。
敵の侵入を許していないというのもあるだろうが、それ以上に、濃厚に漂う死の気配が沈黙を深めている。
もちろんかすかに剣戟の音や喚声は聞こえてくる。だがここにある静けさは、それらの騒音よりもずっと重く、暗く、まるで深い水の中にいるかのようだった。
「こちらです」
案内されたのは、屋敷の中のもっとも奥まった一角。たどり着くまでにも相当歩かされた。
小十郎はごくりと唾を飲み込み、周囲を覆いつくす闇に瞠目した。
初夏に入ろうかという季節なのに、そこにある暗がりはひやりと冷気をまとっている。
影になったありとあらゆる場所から、冷たい何かがじわじわと滲み出ているようだった。
胸がドクドクと、やけに大きく鼓動を刻んだ。
まだ直接対面していないのに、この障子の向こうにいる御方の存在感に圧倒されていた。
本当に竜だ。巨大な竜だ。
気配だけでそう感じ、緊張で喉がカラカラに乾く。
もはや時間の猶予はないという焦りよりも、一代を築いた出雲の雄との対面に肝が冷えた。
「大江小十郎です」
たったひとり、廊下に控えていた側付きに促されて名乗ると、障子越しに衣擦れの音がした。
深く頭を下げた先で、すっと障子が動く。
鼻を突いたのは、室内に漂う線香のようなにおいだ。病室特有の薬草臭さではない。
それだけで、ズキリと胸の奥が痛んだ。
この部屋の主人に死が近いことを、これまで以上に強く感じ取ったのだ。
もちろんわかっている。どんな人にも、それこそ足軽や農民や僧侶にすら、いずれ死は訪れる。小十郎の父もそうだったし、いずれは小十郎自身も同じ道をたどるのだろう。
だが頭で理解するのと、実際にその命がこぼれ落ちるさまを見るのとは、まったくの別問題だった。
小十郎は、無礼を承知で顔を上げた。
臥所の中からこちらを見ている大殿とは、もちろん初対面だ。
目が合って、そこだけ炯々と力強く光っているのを見て、視界が歪んだ。
「このような場所で死なせるわけにはまいりませぬ」
おもむろに小十郎が発した「死」という言葉に、側についている者たちがぎょっとしたのがわかった。
だが大殿は表情を変えずにじっとこちらを見据えている。
「生きあがいていただくために参りました」
ああ、駄目だ。とても動かせるような容体には見えない。
小十郎は強い口調でそう言いながら、懐深くに抱えた宗一郎の文に向かって深く詫びた。
これからやろうとしていることは、間違いなく大殿の命を縮める。
「あと半日持ちこたえることができれば、殿が戻られます。大殿の首を誰の手にも渡すなと、目代様からのご指示です」
正確には、大殿には本丸のほうに移ってもらい、いよいよ持ちこたえられなくなった場合に抜け道から落ちるという算段だったのだが、今のこの容体でそれがかなうとは思えない。
ひとつ救いがあるとするなら、肉体の衰弱ぶりに対して、目の力がいまだ強いということだ。その気力に掛けるしかない。
臥所から出た手が、すっとこちらに向かって伸ばされた。やせ衰え、干からびた枯れ枝のような腕だ。
緩く手招かれて、小十郎はひそかに腹に息を吸い込んだ。