9-12 下屋敷~山中御殿
凄まじい悲鳴が起こった。
起き上がった小十郎は、あっけにとられて燃え上がる兵らの姿を見つめた。
いやいや、ただ油壷に小石をぶつけただけだぞ。それで壷が壊れるかも微妙なところだった。
だが結果は、油壷を持っていたひとりではなく、その周辺にいた者たちまで巻き込まれて大炎上している。……何がどうなった?
たまたまこんなことが起こるわけがないから、半助が何かをしたのだろう。あるいは、大量の油が着物についていたか、足元あたりにこぼれていたのかもしれない。
「急ぎましょう」
火をつけた張本人である半助が、何事もなかったように言った。
思わず正気を疑いながらその顔を見返したが、同じ遊撃隊の面々はそれ以上の顔色の悪さで小十郎を見ている。
こんな事になると思っていなかった。
小十郎は、誰に向かって言えばいいのかわからない言い訳を、胸の中に飲み込んだ。
過剰なほどの燃えっぷりになってしまったが、そもそもあの連中は、空堀の中に油を撒いて火をつけようとしていたのだ。だからこれでいい。
無理やりに納得して頷く。
大勢に紛れて堀の底に下り、先導する半助に続いた。その時の小十郎が考えていたのは、迷子にならないように、ということだけだ。
誰かに切られるとか、敵だと思われるかもとか、そういうことを考える以前の問題で、人ごみを躱しながら進む半助を見失わないようにするだけで精いっぱいだった。
競り合いがそこかしこで起こっている。
誰が敵で、誰が味方かもわからない。
両方が尼子の旗を背負っているので、なおの事混迷を極めており、無傷で堀を突っ切れたのは奇跡に近かった。
最後の最後で、大勢に囲まれて進むべき方向までわからなくなったところを、遊撃隊の男に捕まえてもらってなんとか迷子を回避した。
ようやっと空堀の底を抜けたが、今度は急斜面を上がっていく必要がある。
堀には上り下りする専用の通路があるが、もちろん攻め込まれることを考慮していて、その道は極めて狭く迎撃に向いた構造をしている。
精々大人一人がすれ違える程度の幅しかない道を、なんとか見とがめられずに上り、最後の方は逃げ惑う大勢に紛れ込む形でなんとか石垣の上まで到達した。
果たして、すれ違ったどれだけが味方で、どれだけが敵だったのか。おそらく旗指物の布地の色で判別するのだと思うが、どちらがどちらなのか知らない者にとって意味はない。
だが、これが大殿へ向けた奇襲であり、尼子本家を乗っ取る意味があるのだとすれば、十分な準備をしたであろう攻め手のほうが多いのは必然だ。
小十郎たちにできるのは、見とがめられることなく少しでも先に進む事だけで、途中の抗争に加わることはなかった。
息を殺して斜面を登り切り、その場に片膝をついた。肩で息をしながら背後を振り返る。
眼下には地獄のような混乱が繰り広げられていた。敵味方の兵が入り乱れる修羅の場だ。
堀の上から矢が放たれ、鬨の声が重なり、槍と槍、刀と刀がぶつかり合う音が響き渡っている。
地底から這い上がってくるような絶叫。斬られた者が土に伏し、よろめいた兵が仲間に押しやられ、まさに混戦状態。
誰が敵で誰が味方か、きちんと把握している者はどれだけいるのだろう。
小十郎は目を細め、息を整えるしばらくの間、その場に立ち尽くした。
そして、ゆっくりと正面に向き直った。
明るいうちに仰ぐように見上げた山中御殿が、真っ暗な夜の空を背に立ちはだかっている。
木が燃える臭いがするし、実際に煙が立った様子も見ていたのに、その堂々たる威容は微塵も揺らぎないように見えた。
いや、どんなに巨大な竜であっても、幾度も幾度も切りつけられたら倒れるに決まっている。
小十郎は、今まさに山中御殿に攻め入ろうとしている軍勢を背後からじっと見つめた。
彼らが急いでいるのは、尼子家の正統なる当主の帰還までにすべてを終わらせたいからだ。
通常、味方の消耗も考えると、このように混戦になる状況は避けたいと思うはず。
敵も焦っている。
まだ、竜は討たれていない。
半助が言っていた通り、堀を抜けるよりも、山中御殿を囲む敵を突っ切って中に侵入するほうが何倍も難しかった。
混戦に紛れるわけにもいかない。どちらの陣営が相手でも、怪しまれたら切り殺される。
そんな中、小十郎たちが敵の目をかすめることが出来たのは、ひとえに内側からの気合の入った迎撃があったからだ。
攻勢も必死なら、守勢も必死だった。
半日もしないうちに状況をひっくり返す兵力が駆け付けてくる。互いにそのことがわかっていたから、今この瞬間に激しい衝突が起こった。
小十郎たち遊撃隊は、その瞬間を見逃さなかった。
石垣を登り、わずかに手薄になっている塀を越える。
攻め手は、梯子を上る小十郎たちを味方だと思っていただろうし、守る方は他に気を取られそれどころではなかった。
山中御殿の内側に転がり込むことが出来たのは、本当に運が良かったからだし、もう一度やれと言われても無理だと断言できる。
「目代様よりご伝言!」
さすがに侵入に気づいた大殿側の兵が切り掛かってくる寸前、小十郎は声を張り上げた。
同時に、同じ梯子を使って塀を越えてきた者たちに、残りの遊撃隊の男たちが切り掛かる。
「大殿はいずこか!」
すっかり息が上がり、腰も抜かした小十郎は、その場にへたり込みながらなおも大声で叫んだ。
この状況で、味方が数人増えたところで戦況はかわらない。
だが、小十郎は信じていた。
自身のこの行動が、わずかながらも時間を稼ぎ、宗一郎の兄君の帰還まで巨竜を生きながらえさせるだろうと。