9-11 下屋敷5
真っ先に、宗一郎の父君である大殿の安否を確かめなければならない。
可能ならばその無事を確保しなければならない。
やるべきことはいくらでも思い浮かぶのに、それをやれる者がいない。
正確には、やろうとしている者はいる。目代様や染谷だ。だがあの大きくて深い堀がそれを妨げている。
「お主はすぐに山吹城へ戻れ。若にこのことをお伝えし、速やかに対処を……」
「それだけお話できるのなら、大丈夫ですね」
小十郎は、目代様の言葉を遮り、真っ赤に染まった片腕をジロジロと見降ろした。
「人は、腕を失った程度で死にませぬ」
見たところ、目代様の負傷は肘から下だ。止血も済んでいる。確かに顔色は悪いが、命の危機とまでは行っていないと思う。
「まずはこの状況をなんとかしましょう。三日かけて山吹城に戻ったとしても、兵を率いて戻ってくるのに十日もかかるようでは役に立ちません」
ぐっと奥歯を食いしばる。
「兄君はどれぐらいで戻れますか。どれほどの兵を率いておられますか」
宗一郎の兄である尼子家の当主は、現在尾高城にいるそうだ。率いている兵は五千。
急ぎに急いだとして、戻ってくるまでに一刻。だがこれは単騎の場合なので、兵を率いて戻るのなら数刻は掛かるとか。思いのほか近い。
「すでに急使は送っているのでしょう? では早ければ半刻後にはお戻りですね。我らがするべきなのは、大殿のご無事を確かめることです」
小十郎は素早く周囲を見回し、山吹城では目代様のお側にいた側近たちが、誰一人としていないことを確かめた。兄君への使者として出たのだろうか。あるいは、目代様をお守りして……首を振って、よくない想像を振り払う。今は憶測で何かを考えている時間はない。
「敵も、兄君がどれぐらいで戻られるか考慮しているはずです。それまでに済ませようとしているでしょう。急がねばなりません」
事情をよくわかっていない小十郎でも、決起した者が狙うのは大殿の首だとわかる。
下々の家臣が代替わりの事を知らないぐらいだから、家中における兄君の権力はそれほど大きくないとみるべきだろう。今となってみれば、それも連中が意図してそうなるように仕向けたのかもしれない。
この状況で大殿がいなくなり、富田城を奪われたら、若い兄弟にとっては風下もいいといころだ。手も足も出ない状況になるのではないか。
「山中御殿に向かう抜け道がある。今、通路を掃除させているところだ」
目代様の声が、心なしか強くなった。顔色は変わらず悪いが、目に気力がある。
小十郎は小さく首を傾げた。
「敵も知っている通路を使うのはどうでしょう。待ち伏せされているのでは」
新宮党とやらは、十分な準備をしたはずだ。兄君も宗一郎もいない、兵も手薄になる時期を慎重に見極め動いたはずだ。
そんな連中をかいくぐって、大殿の身柄を確保できるだろうか。それにすべてがかかっているといってもいい。
小十郎はじっと目代様を見つめた。
目代様も小十郎の顔を見つめ返してくる。
……ドクッと心臓が大きく脈打った。
待て、小十郎がそれを決めるのか? そんな馬鹿なことがあるか。下っ端の家臣にそんな権限があっていいはずはない。
だが間違いなく今が岐路だ。それがはっきりとわかった。
ふと、懐に潜めた宗一郎の文に重さを感じた。ズシリと重いのは、息子が父を想う軽くはない感情だ。
山吹城に戻って、「無理でした」「できませんでした」と報告するのか? どの面下げて?
脳裏に過るのは、何かを耐えるような宗一郎の顔だ。泣き顔に見えるのがズルい。
――ああ、わかった。わかりましたよ!
小十郎はぎゅっと眉間にしわを寄せて、口の中で呟いた。
そこで確実に、何かが変わったのを感じた。
染谷をはじめとする部隊が隠し通路とやらから攻め込むのは、そのまま続けることにした。
半助先導の遊撃隊が、大勢が右往左往する空堀を通って山中御殿に潜入する。
小十郎はその遊撃隊の一員として、十名ほどの男たちとともに目代様のもとを離れた。
見送る目代様の、「くれぐれも頼む」と言いたげな視線に目礼する。
腕などからきし立たない小十郎に期待しないでほしい。そう思いながらも、感情的にも状況的にも無下にはできない。
目代様も染谷も見えなくなってから、ようやく重くため息をついた。
小十郎を全く信用していない遊撃隊の面々が、ジロジロとこちらを睨んでくるが、本当に勘弁してほしい。
「堀を抜けるまでは楽に行けます。問題はその先です」
半助のその言葉に、小十郎は小さく頷いた。
再び堀の際まで戻ると、そこは旗指物をつけた兵らに埋め尽くされていた。覗き込むと堀の中に、端や小者らが駆け込んでいく。
堀際にいる兵らが、油壷を持っていることに気づいた。これはちょっと良くないんじゃないか。
半助に向かってそちらを指さすと、難しい顔をされた。
仕方がないので、足元に落ちていた小石を拾って投げた。礫は得意だ。小弓と同じ要領だから。
目指す標的は、もちろん今にも撒かれようとしている油の壷だ。
小石を投げた瞬間、ぐいと誰かに襟首をつかまれた。
踏ん張れずにすってんと真後ろに倒れ、そのまま茂みに仰向けに引きずり込まれる。
遊撃隊の面々から、「何をやってるんだ!」と責めるような視線を浴びたが、半助は違った。
その瞬間も手元も見えなかったが、動きだけで何かを投げたのがわかった。
ボッと火が付く音がした。同時に、怒声と悲鳴が上がった。
仰向けに倒れていた小十郎は、何が起こったのかさっぱり分からずに、慌てて首だけ起こして様子を見ようとした。
だが見えたのはうっそうとした茂みと、薄闇の空だ。
夜の空に月はなく、星も見えない。
ただ、音を立てて炎が立ち、周囲に熱気が立ち込めるのを感じた。