9-10 下屋敷4
下屋敷を抜け出したはいいものの、大きな問題が立ちふさがっていた。
山中御殿まで行くには、途中に大きな切堀があるのだ。
進むにはいったん空堀を下りねばならず、下りたとしてもそこには帯曲輪がある。整備された通路は警備が厳重で、敵の攻め手がおいそれと堀を通れないような構造になっている。
進めなくはないだろう。何しろ現状、大勢が右往左往しているからだ。
小十郎が槍すらもたず、棒切れをもって紛れ込んでも、気づかれない可能性は大いにある。
問題は、何が起こっているかさっぱりわからない事だ。
何故山中御殿が炎上し、下屋敷でも剣戟の音がしているのか。
どことどことがつばぜり合いをしているのか、把握ができないうちは、どちらかの味方の振りをするのは危険だった。
どうしよう。
小十郎は、大騒ぎになっている堀を見下ろし、呆然と立ち尽くした。
見とがめられないのは、小十郎と同じように、どうすればいいのかわからずにいる有象無象がいるからだ。
明らかに端と分かる者たちが、本当かウソかわからないことを囁き合っている。
中には、そんな男たちを率いて騒ぎに参戦しようとする者もいる。真に受けて従う者もいれば、慎重になって動かない者もいる。
小十郎はきょろきょろと兵たちの動きを見つめ、どう考えても統制が取れていない、混乱しかない状況と見て取った。
勇気を出して先に進むべきだ。そう思いはするが、一歩が踏み出せない。
これほど大勢が忙しなく走り回っている中を、突っ切れる自信がない。
ばさり、と山中御殿のほうで軍旗があがった。尼子家の旗だ。一瞬、事態が収束したのかと歓声が上がったが、それもすぐに悲鳴に変わった。
堀を覗き込んでいる者たちの背後から、やはり尼子家の旗指物を背負った男たちが襲い掛かってきたからだ。
幸いにもそれは少し離れた場所で、大勢が小十郎のいる切堀への降り口のほうへと走り寄ってきている。
「大江様」
声を掛けられて反射的に身構えた。とはいえ持っているのはただの棒なので、身体を固くしただけだ。
振り返った先にいたのは半助だった。真正面に突き付けた棒先を、危なげもなくさっと避ける。
「お探しいたしました」
「いいところに」
二人は同時に口を開いたが、それ以上続けることはできなかった。
方々から、ほら貝の音が聞こえてきたのだ。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
巨大な山が、竜の巨躯が、今この時にも崩れ落ちようとしている……そんな風に感じた。
「松田様が重傷です。大江様を呼んでおられます」
冷静な半助の言葉が耳を素通りしそうになった。だが現実は逃がしてくれない。
小十郎は、切り立った崖の際に一人立たされたような気がした。
唇が震える。膝も震えている。
「……どこだ」
当り前のように声も震えていたが、思いのほか強い口調になった。
「花ノ壇の帳場です」
花ノ壇というのは下屋敷の通称だ。同じ屋敷内にいたとは知らなかった。
「では、あの騒ぎは」
染谷に詮議されているときから聞こえている剣戟の音は、目代職にある松田様が襲撃を受けた際のものだったのか。
どうしてこんなことに。どれぐらいの負傷なのか。
尋ねたいことは山ほどあったが、そんな間はない。
小十郎は、くるりと踵を返した半助の後に続いて、出て来たばかりの下屋敷へと急いだ。
下屋敷はまだざわついていたが、肌で感じるほどの騒ぎではなくなっていた。案内された先で、どんどん血の臭いが強くなってくる。負傷者も目に見えて増えてくる。
奥まった一室、険しい顔をした兵たちが立ち並ぶ部屋に連れていかれ、廊下で指示を出している染谷と視線が合った。
その顔面に飛ぶ血しぶきを見て、ますます血の気が下がった。
「大江小十郎か」
びいいんと腹に響くような声で呼ばれた。
小十郎は、「はい」とも「いいえ」とも言わずに、染谷の背後を見た。
「目代様は」
おそらく染谷は、部屋に居ろと言ったはずだと咎めたかったのだと思う。だがその言葉を飲み込み、一歩身を引いた。
開け放たれた障子の向こうにあるのは板間。寝具ではなく、着物が無造作に広げられていて、その上に見覚えのある丸顔の目代様が横たわっていた。
思わず足を踏み出しかけたが、染谷に遮られた。
呼ばれているのだと言おうとした小十郎を、眼光鋭い隻眼が睨み据える。
「少しでも怪しい動きをしてみろ、すぐさまその貧弱な首を跳ね飛ばしてくれる」
「どうぞ」
うわの空でそう言い返しながら、威圧的に寄ってくる身体をぐっと手で押し返した。
「それよりも御容態は」
染谷は苦い表情で舌打ちをして、「腕を失くすやもしれぬ」と低くこぼす。
腕だけかとほっとしそうになったが、命の危機なのは間違いない。
「小十郎」
騒ぎに気づいた目代様の声が、小十郎を呼んだ。
押してもびくともしなかった染谷が、そこでようやく一歩引いた。
青白い顔で手招いている目代様と視線が合う。
ざっとみたところ、腕以外の場所はご無事のようだった。
「状況を教えてください」
目代様はふっと目だけで笑った。形だけの笑み、今にも悔し涙がこぼれそうな笑みだ。
「……よくはない」
「それは見ればわかります。まずは、どことどことが争っているのですか? 裏切りですか? 敵襲ですか?」
「新宮党だ」
同じ部屋にいた誰かが息を飲んだ。目代様は気にせずに続ける。
「かつての遺恨がよみがえった」
「よくわかりません」
新宮党、という言葉には聞き覚えがある。だが小十郎は、うろ覚えの知識よりも、現状を知りたかった。
「敵でいいのですね? 大殿は?」
「わからぬ」
「兄君は?」
「殿は尾高城に出征中だ」
小十郎はぎゅっと目を閉じた。
根津様率いる兵と、宗一郎の兄君である当代尼子家当主が率いる兵。つまりまとまった二つの軍事行動のさなかに、本丸で謀反が起こったということだ。