2-1 関所と詰め所
まだ薄明かりの早朝、小十郎は例の丸太橋を渡り、再び鉱山に向かった。
昨日落とした丸太は元に戻されていたが、やはりグラグラと不安定だ。
ちゃんとした橋にすればいいのにと思いかけて、首を振る。
そもそも仙ノ山は、尼子と毛利と大内とが権利を巡って争っている地だ。小十郎の感覚では長らく尼子が支配しているように見えるが、この先もずっとそうとは限らない。
城に土塁や堀があるように、鉱山を敵の手に渡さないために、すぐに落とせる橋にしてあるのだろう。
昨日の事を思い出し、身震いする。
小十郎がただの下っ端役人だということは見ればわかるだろうに、どうしてあんな形相で追いかけてきたのだろう。
「小十郎!」
関所へむかう山道を登っていると、背後から名を呼ばれた。
振り返ると、昨日余計な話を聞かせてくれた瀬川が、ニコニコと人好きのする笑顔で手を上げていた。
「随分と早いな!」
「瀬川殿」
いや瀬川様と呼ぶべきか? 迷いながら返答すると、気安い表情でパタパタと手を振る。
「宗一郎と呼べ。同期じゃないか」
え? 同期なの?
驚いて見返すと、瀬川……宗一郎はうんうんと首を上下に頷かせた。
なんでも、ここに赴任して数日だそうだ。それにしては周囲から腫物扱いで見られていたが。
並んで山道を少し登り、関所が見えてきたところで思い出した。あそこにいた兵が、他にも新人がいるような口ぶりで何か言っていた。確か……分家?
早朝から眠そうな顔をして関所の前に立っているのは、昨日とは違う男だった。
宗一郎が懐から取り出したのは、まだ真新しい木の札で、なるほど新人というのは本当らしい。
小十郎もまた、腰に紐でぶら下げた、もらったばかりの割符を取り出した。
初対面の関所の兵がジロジロと二人を観察し、疑い深そうに頷く。
厳重な警備だ。割符がないと通さないという決まりがきちんと機能しているように見える。
それなのにどうして昨日の男は……と、再び同じところに考えが向きかけたが、歩哨が中に入るようにと身振り出示したので、慌てて宗一郎に続いて小さいほうの木戸をくぐった。
近くで見る宗一郎の着物は、かなり上等なものに見えた。
明朗快活、育ちがよさそうだという第一印象は間違っていないようで、それなりの身分の出なのは確か。とはいえ、鉱山の役人という端役についているところからみても、事情はお察しだ。小十郎が知るべきではない込み入った何かががあるのだろう。
「……嫌な風だ」
宗一郎が、遠くを見ながらつぶやいた。
関所の壁一枚隔てただけなのに、がらりと風景が変わる。
青々とした芽吹きの緑ではなく、秋口のように赤く染まった木々が風に揺れている。落葉の色よりも赤く、葉だけではなく梢までもが赤い。
鼻につく何とも言えない不快な臭いは、鉱物がもたらすものなのだろう。これにも慣れる日が来るのだろうか。
「身体に悪そうだ、そう思わないか?」
鼻頭にしわを寄せた宗一郎が、小十郎を振り返りながら言う。
「だから鉱夫たちは早世なんだ」
ぶつぶつとつぶやくその言葉にはっとした。思いもよらない観点だった。
だが宗一郎の言っていることには一理ある。
三十で討ち死には「まだ働き盛りなのに」と惜しまれるが、鉱山では三十が「長生き」なのだ。
そういえば、鉱山では水や食べ物をとるべきではないと言われた。それはつまり、それが彼らの命を縮めているということではないのか?
心の中で芽生えた疑問は、その時は口には出さず胸におさめた。
小十郎が思いつくことなど、とうに上のほうで考慮されているはずだからだ。
それでも解決しないのなら、下っ端も下っ端の新人がわかった風に言えることはない。
関所を出てすぐの所にある奉行所には寄らず、その足で詰め所のある場所に向かって山道を登った。目で見るぶんにはそれほどの距離ではないが、歩くと結構かかる。
一歩進むごとに吸う息が重く感じられ、小十郎自身の中にも「良くないもの」がたまっていくような気がした。
無意識のうちに浅くしか呼吸しないでいると、なおのこと脈が早く打ち付ける。
ようやくたどり着いた詰め所の周囲では、すでに兵らの巡回が始まっていた。
鉱夫やその他、作業員たちの姿はまばらだ。
昨日ほどの密集具合でないのは、すでにもう鉱夫たちが山に入った後だからだそうだ。
昨日あんな事故があったのに? 安全の確認をしないでいいのか?
そう思いはしたが、これも下っ端が口出しできることではない。
彼らのような身分の者は、朝から晩まで働くのが常だ。特に、罪人としてここにいる者の扱いなど察して余りある。
「帳面と筆を取りに行こう」
息の上がった小十郎とは違い、平気な顔をした宗一郎が声を掛けてくる。
被害の程度を調べに行くのだと聞いているが、すでに鉱夫が入った後でも大丈夫なのだろうか。
詰め所の戸を開けると、中にはかなりの砂がたまっているのが見えた。昨日の崩落時の砂塵だろう。
上がり框だけではない。床にも机にも敷居にも、ありとあらゆるところに砂が積もり、汚れた足でも上がるのを躊躇うほどで、どう見ても先に掃除が必要だった。
こういうのこそ下っ端の仕事だ。そう思い、小十郎は目で掃除道具を探す。
「砂を掃き出します」
「いや」
宗一郎はぎゅっと眉間にしわを寄せてから、数歩引き返し、巡回中の兵を連れて戻ってきた。
「すまないが頼めるか?」
「すぐに片します」
人を使うことに慣れている者特有の、「頼んで当たり前」な宗一郎と、「命令されるのが当たり前」の兵と。
役人が兵を使う立場だとは聞いたことがないが……いや宗一郎は、厳密な意味では下級役人ではないのだろう。
やがて集まってきた兵らがテキパキと掃除を始めた。慣れたその手際に見惚れていると、詰め所の入口のところから声を掛けられた。
「瀬川様」
振り返ると、兵らの上役らしき男がこちらを覗き込んでいた。
結構上のほうの人に見えるが、「瀬川様」か。宗一郎の身分は予想していたよりも上なのかもしれない。同期だからと馴れ馴れしく呼ぶのはやめておいた方がいい気がしてきた。
何やら小声で話し始めた二人を尻目に、小十郎は兵らに交じって片づけを手伝うことにした。
厄介の臭いがぷんぷん漂う内緒話に耳を澄ますより、同じ下っ端臭のする兵らと掃除をしている方が気が楽だったからだ。
「小十郎」
だがそれもすぐに止められた。手招かれて、嫌な予感を抱きながら入口まで戻る。
「隠し坑道が見つかったそうだ。すぐに上に報告せねばならん。ワシは奉行所の方へ向かうから、おぬしは鉱夫らの全員を坑道から出し、広場に集めておいてくれ」
至極簡単なことのように言われ、困惑した。もちろん言葉の意味は理解できる。だが新人の小十郎にどうしろと?
立ち尽くしている間に、宗一郎は兵らの頭を引き連れ、小走りに詰め所を出て行った。
待って! と引き留める間もなかった。