9-9 下屋敷3
ここに福船屋の者たちがいることは、おそらく忘れられているのだろう。
今動かずしていつ動く。
小十郎は、大きく息を吸って腹に力を入れた。
とはいえ、商人がうろついて見とがめられると危ういのは同じだ。むしろ即座に討たれる可能性もある。
いやだからこそ、どさくさに紛れての処分を回避するためにも、ここでじっとしているわけにはいかなかった。
「小助様」
同じく、腹を決めたらしい侘助が声を掛けてくる。
互いに顔を見合わせ、頷き合った。
部屋を出た瞬間に、鼻をついたのは木が燃える臭いだ。
手で鼻と口を押えて、騒然とした屋敷内を見回す。
そこは下働きが多くいる場所だったので、右往左往している者たちの多くが丸腰であり、中には女中のお仕着せをきた者たち、腰の曲がった老人までいた。
この中に紛れるのは難しくなさそうだ。
「いったん皆と合流しましょう」
侘助の言う「皆」とは、門に置いてきた福船屋の手代たちのことだろう。
確かに彼らは腕に覚えがありそうだが、小十郎は首を左右に振った。
「いや」
そこまで行く時間が惜しかった。あの者たちと合流したとて、伝八がいる二の丸に向かうわけにもいかない。
小十郎の返答は、近くで響いたけたたましい悲鳴にかき消された。
先ほども聞こえた、何かが連続して倒れるような音がする。
誰かが暴れている? 下屋敷の中でも騒動が起きているのは、臭いからもわかる。
「山中御殿に向かう」
「お、お待ちを。それは」
騒音が途切れた一瞬、小十郎が呟いたひと言に、侘助は真っ青な顔をして首を振った。
小十郎の身を預かっていると自負している彼にしてみれば、そんな危ないことはさせられないと言いたいのだろう。
確かにその通りだ。小十郎が山中御殿に向かったとしても、何ができるというのだ。
この騒ぎだ。うまく紛れ込むことはできるかもしれない。だがその先はどうする? 今は巻き込まれないように避難するべきではないか?
今ここで、福船屋の者たちが逃げ出したとしても、咎められることはないだろう。むしろ下屋敷をうろつく、いや山中御殿に向かえばそちらのほうが不審者だと思われる。
小十郎は、商人らしく見せていた羽織を脱いだ。
その下に着た小袖も袴も、武士にしては細身だが、身分の低い中間になら見えなくもないだろう。
がちがちに固めていた髷を解き、指を通す。簡易だが元結の位置を高くして、固まった髷の部分を指でほぐした。
「半助が言っていた、抜け道があるだろう」
侘助ははっとしたような顔をした。
「その先で待て」
「そのような! 抜け道がどこから通じているかわからないでしょう」
それはそうなのだ。だが、半助ならすでにこの辺りに侵入しているだろう。あの男の雇い主に、小十郎が来ていることを告げているはずだ。
だとすれば、その後に合流を、少なくとも所在を確認するようにと指示を受けると思う。
「すぐに出会うだろう。その時に聞く」
また悲鳴が響く。どこかで競り合いが始まっているのだろう。
かすかに聞こえてくる怒声怒号、それから剣戟の音。
小十郎は、真っ青な顔をした侘助の片腕をぎゅっと掴んだ。
「伝八はきっと無事だ。巻き込まれぬうちに避難を。侘助は武士ではない。見つかった瞬間切られるかもしれない」
ここにいる分はまだいいが、屋敷内をうろついていると怪しい奴だと思われるだろうし、こういう時だからなおのこと、不審者は真っ先に排除されるだろう。
「大江様は!」
小十郎は、「しっ」と言って人差し指を立てた。
「小助だ」
正直なところ、小十郎にできることはほぼない。
どことどこが争っているかわからないが、確実に言えることは、どこの陣営からも味方と認識されないということだ。
巻き込まれたら命はない。そんな事はわかっている。
だが小十郎の中では、そんなことは今更だった。
宗一郎から託された文を潜めた胸元を、軽く手のひらで押さえる。
「やるべきことがあるのだ」
今を逃せば、かなわないかもしれない。
引き留めようとする侘助と強引に別れた。
申し訳ないが、ここで時間を取るわけにはいかないのだ。
屋敷内を行くのは危ういので、素足のまま庭先に下りた。
尖った石や枯れ枝を踏まないよう注意しながら進む。
途中で、誰のものともわからない草履と、干してあった手ぬぐいを拾った。大きさが合わない草履だったので、踵の部分を踏んで、手ぬぐいで足首に固定する。
きょろきょろと周囲を見回すと、立てかけられた木の棒が目についた。
何もないよりましだ。
握りしめた棒はずっしりと重く、小十郎のように刀を振ることが苦手な者にはいい武器になりそうだった。
「おい、何をしている!」
不意に背後から声を掛けられた。
ギクリとして振り返ると、厨の土間に端の男が三人立ってこちらを見ていた。
後ろ姿を見て、武士だとは思われなかったのはわかる。視線が合って、「おい、よせよ」とひとりがもう一人の腕を引く。
こういう時は、怯んではいけないのだ。
小十郎は下腹に力を入れて男たちに向き直った。
「目につかぬよう身を潜めているほうがよい」
ちらりと表の方を見る。あながち間違った忠告ではない。今もなお、剣戟の音が聞こえてくる。
「山中御殿に火が付いた。ここもどうなるかわからぬ」
人間、相手が自信ありげだと、自分のほうが間違っているのではと思うものだ。
普段から武士に従う癖がついている端者たちは、たちまち不安そうな表情になった。
「……あの、なにが起こって」
おずおずと問われて、軽く首を振る。そんなこと、小十郎が知っているわけないじゃないか。
だがひとつだけ確かなことがある。
「巻き込まれないようにな」
軽く草履の具合を確かめて、長めの棒を握りなおす。
あとは、すたこらとその場を去ったのだが、最後にちらりと振り返ったら、男たちは丁寧に頭を下げていた。