9-7 下屋敷1
案内されたのは下屋敷の一室であり、期待していた三の丸でも、山中御殿でもなかった。
当然と言えば当然なのだが、ガッカリ感はぬぐえない。もちろんそんなことは顔には出さないが、いくらかの不安は浮かんでいたのだろう。
そんな小十郎を見た染谷が口を開いた。
「小助」
……あ、そうだ。今はそう名乗っているんだった。
「は、はい」
慣れないので、返答までに一瞬の間が空いてしまった。
不審がられたかと身構えたが、染谷は特に気にすることなく言葉を続けた。
「実は伝八はこちらにはおらぬのだ。何者かに襲われ、頭を負傷しておるゆえ、まだ動かさぬ方がよい」
「えっ」
小十郎はとっさに侘助と目を見間かわした。「襲撃された」と真正直に伝えてくるとは思っていなかったのだ。
「襲撃ですか? 転倒してぶつけたのではなく? てっきり手前どもは……」
さすがうまい。さも気がかりだという風に問い返す侘助の表情には、いくらかの恐怖も交じって見える。
小十郎は俯き、ぎゅっと唇を引き締めた。ボロを出したくないので口をつぐみ、可能な限りの「不安そう」な表情取り繕う。
……これは少しマズいかもしれない。城内で殺すつもりがないのなら、何事もなかった態で伝八を返し、口外禁止と圧を掛けてくるものとばかり思っていた。
先ほど突き付けられた切っ先を思い出す。
もしかすると小十郎たちも、伝八のように口封じされるのかもしれない。
物騒な事態になった時にはどうすればいい? 武士である小十郎が何とかするべきだが、あいにくと腕に自信などかけらもない。あったとしても、歴戦の兵なのだろう染谷に対抗できるとは思えない。
小十郎はそっと口元を手で覆った。
「何故このようなことになったのか、聞きたいことは多々あろうが、今は収めてくれ。下手人が逃げておるゆえ、また襲われることも考えられる。故に、今は返せぬ」
染谷の口調はぶっきらぼうだが、率直だった。
この男がどの派閥、どういう立場にあるのかわからないので何とも言えないが、悪い男ではない気がする。
「……あの」
「小助様」
考えた末に口を開こうとしたのだが、食い気味に侘助にさえぎられた。黙っていろと言いたいのはわかる。だが、ここで引くわけにはいかない。
「父に会うことはできませんか」
「まだ意識がないのだ」
「そ、それほどの重傷なのですか? では顔だけでも」
「小助様、あまり無理を言うのは」
身を乗り出した小十郎を止めようとした侘助だが、染谷が片手を上げたので黙った。
「親の容体が気がかりなのはよくわかる。だがな……」
「ここにはおらぬということは、父は山中御殿で襲われたのでしょうか」
三の丸にいるということは知らぬ態でそう問うと、染谷は「そう」とも「いいや」とも言わず、ほんのわずかに唇を歪めた。
「も、申し訳ございませぬ。かしこまりました! 手前どもはすぐに下がります故に」
「侘助」
慌てて前に出てきた侘助は、可能な限り小十郎の身を守ろうとしてくれていたのだ。それはよくわかるし、ありがたいことだとも思うが、聞き分けがよすぎるのも疑われるぞ。
「そのあたりを聞いておかねば、この先どうすればよいのかわからぬ」
しまった。武家調の口ぶりで言ってしまった。
染谷の眼光鋭い目が細くなる。……気づかれたか?
だが叱責か詰問かを浴びせられるより先に、どこからか大きな物音がした。ひとつではない、連続してバタバタと何かが倒れるような音だ。
叫び声も聞こえる。男の野太い絶叫もあるが、女の悲鳴が多い気がする。
ここは下屋敷でも端のほうなので、女中らの詰め所か厨あたりで何かあったのかもしれない。あるいは……途中で消えた半助か?
染谷の気がこちらから逸れた。
顔をしかめて耳を澄ませ、なお騒ぎが続いているのを聞いて舌打ちしている。
しばらくして立ち上がり、締め切られていた障子に手を掛けたところで、思い出したようにこちらを振り返った。
「しばらくここにおれ。様子を見て参る」
気づいたことがある。
門番たちの態度からいっても、染谷はそれなりの身分のはずだ。少なくとも彼らよりは上、その場にいた他の商人までも身構えていたので、かなり名の知れた男なのだろう。
それなのに、付き従う者がいないのだ。
いや、下屋敷の門に来た時には五名ほどを従えていた。しかも、軽くだが武装した兵をだ。
だが、ここに通される前にはその者たちは姿を消し、今や渋谷は単身だ。
もちろん、単身だからなんとかなる、制圧できるなどと思っているわけではない。
通常、こういう身分だと大概誰かが付き従っているもので、特に下がれと命じた様子もなかったのに、ひとりになるのはどう考えてもおかしいのだ。
「……ま」
腰を浮かせて、「待て」と制止の声を上げようとした。
そんな小十郎の腕を掴んで止めたのは、侘助だ。
呼び止められた染谷が、障子を少し開けたところでこちらを振り返る。
小十郎は深く考える間もなく、侘助の手を振り払い、染谷に体当たりする勢いでしがみついた。
障子を蹴破りながら飛び込んできた襲撃者は五人。そのいずれも、服装は地味色で、顔は手ぬぐいで隠している。
無言で振りかぶられた刀は染谷からかなり逸れた場所に叩きつけられ、鋼が欠けたような音がした。
染谷は、しがみついた小十郎ごと素早く障子から距離をとり、襲撃者たちに正対した。
「何者っ」
そう誰何の声を上げた時にはすでに、一人目を強烈な蹴りで沈めており、二人目も、刀を障子に突き刺させて、刀ではなく腕をへし折った。
奇襲を受けたとは到底思えない、滑らかで迷いのない動きだ。
怯んだ三人目を制圧するために、打ち刀ではなく脇差を抜いた。脇差で十分だというわけではなく、狭い室内なので妥当な選択だ。
小十郎はペタンと木の床に尻をつけたまま、じりじりと壁際まで下がった。
襲撃者たちが狙っているのが染谷だとは思えないから、できるだけ距離を開けようとしたのだ。
今更だが、刀を置いてきたことを後悔した。