9-6 下屋敷門
門兵たちは、本当に伝八の件を知らないようだった。
侘助が渡した袖の下は、きっと十分な額だったのだろう。「調べて参る」と言い置いて、直接対峙していた一人が踵を返した。
侘助はなおも、他の門兵たちに心づけをばらまき、「ご配慮ありがとうございます」と善人の顔で頭を下げ続ける。
なるほどなぁ……。これまで知っているようで知らなかった商人の立ち回りを目の当たりにし、小十郎はひどく腑に落ちた。
商人の世界は信用と銭でできている。利便を図ってもらうために使う銭は経費のうちだ。
これは商人側の問題ではない。間違いなく、袖の下を受け取る兵側に求められる倫理だろう。
侘助にならって、ぺこぺこと頭を下げる。そうすることに対する抵抗は全くなく、むしろ袖の下を欲しそうにしている顔とか、受け取ってほくほくしている顔とか、コロリと変わる態度に、かなり思うところがあった。
これまでは漠然と、「あまりよくない慣習」だと認識していたが、商人側にしてみれば、ただ物事を潤滑に進めるための手段に過ぎない。ちょっとした心づけをするだけでうまくいくなら、次からもそうするだろう。
そして、楽をして美味い汁を吸うことを覚えた者は、どんどん染まっていくわけだ。
「福船屋!」
門を入る商人たちの列を止めるわけにはいかないので、邪魔にならない場所に移動して、門兵たちと談笑していると、先ほど伝八の件を聞きに行ってくれた男が転がるような駆け足で戻ってきた。
「染谷様がいらっしゃる!」
もちろん小十郎には全く心当たりのない名だが、門兵たちだけではなく、門を通ろうとしていた商人たちの顔にまで緊張が走った。
その場にいた全員が、袖の下を懐深くに隠し、何食わぬ顔を取り繕う。
小十郎の前に、さっと侘助が立った。そのせいで、やってくる男の姿は見えなかった。
ざっと門兵たちが槍を立てる。
その場にいた商人たちは、端の方によって頭を下げる。
荷物持ちの手代たちはその場に荷を置き、直接土の上に両膝をついた。
小十郎の後ろでも、福船屋の男たちが丁重に礼を取っている。
侘助の頭が深々と下げられるのを見て、小十郎も同じように頭を下げた。
「福船屋の者はそちらか」
やがて掛けられたのは、随分と低い声で、不機嫌さを隠そうともしていなかった。
「主人をすぐに返すことは出来ない。それについて説明する」
説明? その言葉に引っ掛かったのは、小十郎だけではないだろう。
顔を上げそうになったが、無言で頭を下げ続けている侘助の背中を見て我慢した。
「ついて参れ」
もう顔を上げてもいいのか? 周囲の様子を探り探り、そっと目線を上げると、侘助はまだ低頭したままだった。
そして、こちらを見ている三十歳ほどの男と真正面から目が合った。
ぎょっとして慌てて顔を伏せたが、特徴的なその顔が目に焼き付いて離れない。
斜めに三本、平行に走っている傷が顔面を横切っていて、その周囲の皮膚が引きつれ、片方の目が白みがかっている。
もとは顔立ちが整っていたとわかるだけに、なんとも壮絶な容貌だった。
「その者は?」
視線を感じる。じっと見られている。何か気に障るようなことがあったかと冷や汗が浮く。
しばらくして、侘助がわずかに視線を浮かせた。
明らかな嘘を侘助に言わせるのは気が引けて、小十郎は侘助が何か言うより先に口を開いた。
「申し上げます。福船屋伝八が一子、小助にございます」
こ、怖いから顔は伏せたままだけど。
ざっと土を蹴る音がした。
「えっ」と誰かが驚愕の声を上げたのを、妙に遠くで聞いた。
小十郎は、一拍置いて目線だけを上げた。
ギラリと篝火をはじいたのは、ぬめるような鋼の輝きだ。
「……っ」
小十郎はその場で腰を抜かして尻餅をついた。
武士ならばとっさに半身を引いて腰を落とすのが定石だが、もちろんそんな余裕はない。
「あ、あの」
使い込まれた感のある刀の切っ先を突き付けられて、ごくりと唾を飲み込む。
「な、な、何か粗相をいたしましたでしょうか?」
情けないことだが、ものすごく声が震えた。
逆に、武士らしからぬその反応がよかったのだろう。染谷はしばらく小十郎の反応を観察した末に、「ふん」と鼻を鳴らした。
「よいだろう。そのほうら二人だけだ。他の者はここで待て」
染谷はすっと切っ先を下ろし、するりとなめらかな動作で鞘に納めた。ものすごく手慣れた、美しい動作だった。
その動きを思わずぼーっと見つめていた小十郎だが、侘助が肩に手を置いてきたのではっと我に返る。
慌てて立ち上がり、パタパタと土埃を払った。
踵を返して番所を出た染谷に置いて行かれるのではないかと焦ったが、出たところで立ち止まって待ってくれている。
小十郎は息を吐き、近くにある侘助の、汗ひとつかいていない顔を見上げた。
いや、汗はかいていないが、目の奥に緊張がある。
よもやこの状況で、小十郎の正体に気づくようなことはないはずだ。だから大丈夫だと頷きかけたが、侘助の表情はますます不安を増していく。
そういえば、半助はどうした。さすが目立たず場をしのいだが、ここに留め置かれていては、頼みには出来ない。
ちらりと、まだ膝をついている福船屋の者たちを振り返る。
その中に、半助の姿はなかった。