9-2 富田城下町2
だがこういうものは本来、時間を置いてもいいことはない。
待たされ続けている間に、不安だけが蓄積して、高く積んだ冊子のように不安定になってくる。
もちろん、下っ端が優先されると考えているわけではない。それよりも、先方、つまり尼子の大殿に何かあったのではないかと心配になったのだ。
せっかくの宗一郎の文を、届けることが出来ないかもしれない。
こみあげてくる不安に、胸がじりじりと焼ける。
思い出すのは、討ち死にした自身の父と兄のことだ。父の死を遠い自宅で知らされたとき、情けないことだが小十郎はその場で崩れ落ちた。
まるで大切な何かを、ごっそり胸からそぎ落とされたように感じた。
だが母は冷静で、知らせを届けに来た男に、兄の安否を尋ねた。
小十郎はてっきり兄も死んだものと思っていたので、まだ息があると聞いて更に涙があふれた。
「まだ」ということは、今もなお苦しんでいるということだ。
その瞬間にも、大切なものが指の隙間からこぼれ落ちてしまう恐怖に震えた。
身分には雲泥の差があるが、宗一郎にとっては似た状況だろう。家族が命の瀬戸際に立っているのに、駆けつけることもできないのはつらいものだ。
やはりできるだけ早く、文をお届けしたい。
旅装をといて、伝八の店の奥でおとなしく知らせを待ちながら、落ち着かず部屋を歩き回った。
「ご無礼とは存じますが、早急に申し上げたいことが……」
閉め切られた障子の向こうから、かすれた男の声がした。くっきりと刻まれた影から、きちんと廊下に控えて頭を下げているのがわかる。
庭先から差し込む日差しが随分と傾いていて、いつのまにか夕刻が近づいているようだ。
もう日没か。日が長い今の時期、相当に長い間待っていたのだと今頃気づいた。
本当なら用意された席に戻り、応えを返すべきなのだが、小十郎は無言のまま廊下に近づいた。
そっと障子を開けて、廊下の前後に目を配る。
「入って」
廊下にも、庭先にも他に人影がないことを確かめてから、小声でそう囁くと、廊下に座った男はなお一層低く頭を下げた。
そんなにかしこまられても。
そもそも武士なので、町人から丁寧な扱いを受けることは多いが、小十郎本人はそれほど御大層な身ではないと思っている。
そんなことよりも、何があった。
伝八ではなく、知らない男が来たことに身構える。
声を掛けても男が動かないので、どうしたのかと改めて目を向けると、息こそ上がっていないが、かなり急いで駆けつけてきたのがわかった。
藍が薄く褪せた小袖に、同じく野袴を結んだ姿。
一見きちんと整っているようだが、よく見れば裾の端に草切れが絡みつき、右の肩口には小枝が刺さっていた。汗ばむ額に巻かれた手拭いは、端の一部が湿って貼りついている。
草履を脱いで廊下に上がってきてはいるが、足をすすいだ様子はなく、踵に泥がこびりついているのが見えた。
きっちり揃えられた両手。微動だにせず下げられた頭。
事情はよくわからないが、この男は自身をかなり低い身分だと考えているようだ。
「入れと言うたぞ」
小十郎はもう一度、周囲を見回した。
見知らぬ男とひとつ部屋に入る不安はあるが、聞かれて大丈夫な話だという確信はない。いやむしろ、そうではない可能性の方が高いだろう。
さっさと踵を返して部屋に戻ると、しばらくして、すっと男が腰を浮かせた。
その所作に目を引かれた。動きが滑らかで隙が無い。
商人ではない。農民でもない。武士……でもない気がする。では何だ?
そんな疑問が過ったが、すぐに振り払った。
今重要なのはそんなことではない。
「話とは?」
部屋に入ってすぐのところに座り、再び両手をついて頭を下げた男に向かって、小十郎は急かすように声を掛けた。
男はわずかに頭を上げる。
「はい。申し上げます」
今初めて気づいたが、結構若そうな男だ。
「福船屋伝八殿が負傷」
男の言葉が耳に入った瞬間、腰が浮いた。
鼓動が一気に跳ね上がり、のどがカラカラに乾く。
「伝言をお預かりしております」
伝言。つまり意識はあるということか?
男が懐から紙を取りだした。結び文だ。小十郎はせかせかと男に近づき、両手の前に置かれた結び文を腰を屈めて拾った。
結び文をほどこうとして、手が止まった。
明確にそうとわかりほど、くっきりと血の染みがついていたからだ。
小十郎は黙ったまま結び文を広げた。
一読して、顔を上げる。
両手両膝をそろえて座る男をもう一度じっと見てから、再び読み返す。
「これを書いたのは誰だ」
伝八の手ではないだろう。たどたどしく片言の文字は、読めはするが間違いも多い。
答えようとした男を、手を上げて制して、質問を続ける。
「いや、それよりも……容体は?」
何があったのかは重要だが、それよりも先に、どの程度の負傷なのか知りたかった。
意識はあるのか。命に別状はないのか。
男の返答までに一瞬間が空いた。嫌な予感が否応もなく増す。
生きるか死ぬかもはっきりしないほどの重傷なら、この先の予定が大幅に変わってくる。
結び文の内容は、少し問題が起こったから、しばらくは店の奥で身を潜めているように、という指示だった。
だが、そういうわけにはいかない。
こうなってはなおのこと、一刻も早く宗一郎の文を大殿に届けなければならない。
それは、負傷する羽目になった伝八の代わりに、これからの段取りを一人でこなさなければならないということだ。
できるのか? ……いや、できるのかではなく、やるのだ。