8-12 山吹城~月山富田城 道中
「……なんでこんなことに」
小十郎は、慣れない馬の背に揺られながら、ぶつぶつと呟いた。
武士だが貧乏なので、実家で馬を飼ったことはなく、精々荷馬にしか乗ったことがない。
それでも、練習しておいてよかったとつくづく思う。
まわりにいるのは、福船屋の手代たちだ。屈強な男たちが、黙々と馬を駆っている。
その後ろからは、荷物を山積みにした荷馬が、こちらも結構な速さで走っていた。
馬は高価なものなのに、そんな扱いでいいのか? 福船屋の商隊は、普段からこの速さで移動しているのだろうか。
「舌を噛みますよ」
ニコニコ笑顔でそう言ってくるのは伝八だ。それはもう満面の笑みなのだが、逆にそれがうさん臭さを倍増している。
宗一郎によると、この男は尼子の殿の子飼いのようなのに、主君が倒れたという知らせにそれほど動揺しているようには見えない。
深刻な顔をして先を急いでいると不審がられるから、あえての笑顔なのかもしれない。
おそらく出雲方面への行き来には目を光らせているだろうと、根津様は仰っていた。
……非常にきな臭い。
どうか無事に御役目を果たせますように。
小十郎はそう願いながら、ため息を飲み込み口を閉ざした。
大森の町を北へ抜ける経路は避け、東側から向かう道を選んだのは、福船屋の商隊が怪しまれない為だ。
急使ともなれば、本来、もっと早くに馬を駆る必要がある。最短距離を行くのが定石なのだろうが、大森の町を通る経路だとその先に険しい峠がある。
子供のころからよく知っている道ではあるが、あの細くて斜角のある道を駆け抜けるなど、馬か小十郎かの骨が折れる結末しか想像できない。
だから少々回り道にはなるが、東側から出雲へ向かう街道を使うのは、むしろありがたかった。
銀を運ぶ道でもあるので、この街道はよく整備され、道幅も広く、勾配も緩やかだ。
長距離移動に慣れていない小十郎が、ギリギリ許容できる難易度の移動だった。
「少し休みましょう」
手代頭の合図とともに商隊が速度を緩める。道がゆるやかに開け、小さな沢がある場所に出た。
馬たちは自ら足を止め、鼻を鳴らして水の匂いを追う。小十郎も手綱を解き、鞍を少し緩めてやった。背から汗が湯気のように立ちのぼる。
沢の水は澄んでいて、手を浸すと、骨まで染みるように冷たい。
木陰には、先に着いた旅人たちが腰をおろしていた。
水場は共有のものだから、福船屋以外にも旅人はいる。その誰からも奇異の目をむけられてはいないので、小十郎には異常に見える商隊の速度も、さしておかしなものではないのだろう。
行商風の男が俵を枕に仰向けになり、笠を顔にかけて休んでいる。
別の二人連れは、干し飯を水にひたして口に運びながら、峠越えの噂を交わしていた。
「関所で止められた薬売りが戻ってきたらしいぞ」
「書付けがなかったそうな。いまは通行が厳しゅうなっておる」
「ほう……なんぞあったのか」
小十郎は黙って、鞍袋から乾いた麦餅を取り出した。
頬張るうちに、ざわついていた心が落ち着いてくる。
商人たちは何らかの異変を察知している。これほど早期に気づくとは、さすが鼻が利く。
馬は地面に膝を折り、尾を時おり払いつつ、じっとしていた。小十郎はそれを眺めながら、木の幹に身体を預けて力を抜いた。
峠越えか。
出雲に入るためには避けては通れないのが関所だ。
だがそれほど心配はしていなかった。小十郎が文を運んでいるわけではなく、伝八はそのあたりのことに長けていそうだからだ。
半刻ほどの休息を終え、再び商隊は出発した。
道は次第に勾配を増し、湿った地面に馬の蹄がぬめる音がする。
山は、初夏の深い緑に沈んでいた。
左手は崖、右手には杉の根が張り出した急斜面。人ひとり分の幅しかない箇所もあった。
木々の間から、遠くに雲がかかった峰が見えると、ほどなく道がわずかに開けた。
馬の鼻先に、木製の柵と簡素な番屋が見える。赤名の関所だ。
馬の歩を早めていた小十郎も、峠が近づくにつれ、自然と手綱を引いた。
関所の手前、道がゆるやかに曲がりながら狭まり、木立に囲まれた小広場のような場所に、数人の旅人が並んでいた。
誰も声を出さない。静かに順番を待っている。
雲がかすかに陽をさえぎり、鳥の声も遠のいていた。
山の静けさとは違う、何かが心の奥にひっかかるような違和感。それは、風の流れが変わったからでも、気温が下がったからでもない。
荷馬に付き添う商人は、いつもなら通り札を前もって手にしているところを、今日はそれを出すのを忘れていた。
旅僧は、杖を軽く突いて周囲を見まわし、目を細めて何かを図っているようだった。
老女は孫を静かに背にかばい、笠の影からじっと関所の柵を見ている。
理由はわからなくても、「いつもの峠道」ではないことを、旅人たちは感じ取っているようだ。
関所の番兵が、それほど緊張している様子もなく門前に立っている。
そこに何かの異変があるわけではないし、不必要に厳しい詮議があるわけでもないのに、順に関所を通っていく旅人たちの表情はこわばっている。
小十郎は馬を下り、福船屋の手代として神妙な顔で俯きながら、伝八に続いて関所の前まで来た。
そして、通り抜けていく旅人たちの緊張の意味を察する。
番兵たちの槍を持つ手がこわばっている。……そう、身構えている。待ち構えている。
小十郎は表情を変えずに、汗ばむ手を握った。
ただ通り抜けるだけのこと。そう言い聞かせても、胸の奥に沈む不安は拭えない。
前の旅人が足早に関所を抜けて、出雲方面へ去っていく。次は福船屋の商隊の番だ。
槍を手にした番兵の表情は読めず、目だけが動く。その目が、商隊の男や馬たちの上をすべるように通り過ぎてゆくのを、小十郎は無表情でやり過ごした。
伝八が言葉少なく挨拶をして、通行手形を差し出す。
兵の手がそれを受け取り、目を走らせるまでの間、ひと呼吸。たったそれだけの間に、心音がやけに大きく耳の奥で響いた。
「待て」と呼び止められるのだろうか。不審な者だと追い返されるだろうか。
そんな不安をしばらく耐えていると、やがて兵はひとつ頷いた。
「通れ」
――なんと、あっけない。
だが、それこそが山の関所だった。仙ノ山の鉱山の関所なら、もう少し念入りに調べられる。
そう思った瞬間、小十郎は「いや」と思い直した。
厳重な警備を敷かれた関所であっても、賂が通用するのだ。
ちらりと見た伝八の顔は、愛想のよい商人そのもので、兵たちに丁寧に頭を下げている。
小十郎もあわててそれにならいながら、ひそかに安堵の息を吐いた。