1-6 大森の町 長屋
大江家は仙ノ山から半日ほど離れたところにある。
猫の額ほどの田畑と、大きめだが古い屋敷があり、かつては使用人らも同居する大所帯だったというが、今では見る影もない貧乏武家だ。
小十郎が新たに任官することになった仙ノ山まで、無理をすれば通えなくもない。しかし現実的ではないので、山のふもとの大森の町に月極めで部屋を借りた。
一人で暮らすのは初めてだが、使用人などない生活には慣れている。むしろ、口やかましい母の目がないだけに気が楽だった。
食事も、旅籠屋の賄いを少額でおすそ分けしてもらえるよう、母が話をつけてくれていたので、実家にいる頃よりはしっかり取れそうだ。
初日を終え、明日は早朝から出仕だと、冷えた握り飯を食べ終えてすぐに就寝した。
寝る前に腹が膨れるのはいいことだ。ひんやりとした寝床もすぐに体温で温かくなり、疲れていたのもあって、すぐに眠りに落ちた。
そして案の定、悪夢を見た。
横になるまで思い出さないようにしていたが、やはり初めて目にした地獄の光景は、すぐに割り切れるものではない。
死屍累々とした惨劇と、赤茶色の風景とが、臭いまでともなう悪夢となって一晩中続いた。
いや実際には一晩中ではなかったのかもしれないが、悪夢により浅い眠りにしかならず、夜中に何度も目を覚ます羽目になった。
明け方、疲れが取れないままに目をこすり身体を起こした。
よく眠れた気はしないが、仕事だ。
残しておいた握り飯を頬張り、水瓶の水を柄杓ですくって飲み込む。
「小十郎様、起きてる?」
さて身支度をしようと帯を解いたところで、バン! と勢いよく正面の戸が開いた。
開け放たれた長屋の外は、うっすらと明け方の様相だった。
いや明るさなどなくても、来たのが誰かは即座にわかる。
「今朝の分の賄いだよ!」
慌てて下帯を隠すが、登場した少女は気にもせずに踏み込んでくる。
旅籠で働く小菊は、小十郎よりもいくつか年下だ。両親ともに旅籠で働いていて、下女の仕事を始めたのはもっとずっと幼いころだ。
彼らは曾祖父の代で大江家の家人だったのだと聞くが、はるか前過ぎてお互いに実感はない。
「急に開けるなよ!」
「なによ、隠すほどのもんじゃないでしょ」
小菊の両親は小十郎や母に丁寧な口調で話すが、彼女はまったく頓着しない。
「またそんなだらしない。新しい着物で行きなさいよ。奥方様が用意してくれていたじゃないの」
「それはいいよ。すぐに汚れるから」
「駄目よ。泥汚れが付いたままじゃない」
大江家は貧しいので、着替えも大して数はない。だが仕官したのだからと無理をしていくつか新しい小袖と袴を誂えてくれていた。
「こっちは綺麗にしておくから」
そういう身の回りの世話も合わせて頼んでいて、小菊の家族には支度金を包んでいる。とはいえ本当に気持ち程度なのだ。
「いいよ。まだ着れるよ」
「駄目ったら駄目」
旅籠では頼まれたら旅人の着物を洗うそうで、はっきり聞いたわけではないが結構な金をとるらしい。
そのついでに綺麗にするからと、小菊は今着ようと思っていた着物をぐるぐると丸めた。
「髪もちゃんとしなよ」
「わかってるよ」
「手伝おうか?」
「……いい」
黙っていたら髪まで結われそうで、慌ててささっと乱れを直した。
月代をしたら剃刀負けをするので、総髪だ。髭はまだ生えていないし、生えたとしても産毛なので今日は手入れは不要だ。
なおも口やかましく世話を焼かれ、なんとか身支度まで終えたところで、ふと昨日の事を思い出した。
「小菊」
汚れた袴を広げて顔をしかめていた小菊がこちらを振り返る。
「旅籠に変な客はいないか?」
「変な客って?」
改めて問われて、何と答えるべきかと迷う。武士だと言った方がいいのか? いや武士だけとは限らない。
「……商売人じゃなくて、浪人でもないっぽい?」
何ともあやふやな小十郎の問いかけに、小菊もまた首を傾けた。
「仕官先を探していそうな人ならよくいらっしゃるけど」
それはこのご時世だから、繁盛しそうな場所には仕事を求める者は多い。思い返せば小十郎を追ってきた者も、そういった者たちのひとりに見えなくもない。
だがなんと言えばいい? 間者らしき輩を探していると言っても、間者は間者でございと看板をぶら下げているわけではない。
「そういえば……」
小菊はふと、思い出したような顔をした。
「大蛇様って知ってる?」
「大蛇様? なんだそれ」
地元の言い伝えで、山には蛇だの猪だの神様がいらっしゃるという話はよく聞く。特に仙ノ山には白蛇様がいるという言い伝えは古くからあるが、大蛇様というのは聞いたことがない。
「白蛇様じゃなく?」
「うーん」
小菊もよくわかっていない様子で唇を尖らせ、首を振った。
「たぶんそういうのじゃなくて」
不意に、彼女がぐっと顔を寄せてきた。
「こそこそ話していたから、聞かれて困ることなんだと思う」
小十郎は、至近距離にある小菊の、そばかすの浮いた顔を見返した。
まだ十歳になるかならないかだが、小菊は目端が利いて頭も良い。彼女が「聞かれて困ること」だと思ったというのなら、その通りなのだろう。
「厄介ごとに首を突っ込むなよ」
思わず真顔でそう言うと、小菊はわかっているという風に頷いて、「小十郎様もだよ」と念を押された。
「でもたぶん、あまりいい話じゃないよ」
どうしてそう思ったのか問い返すと、小菊はしばらく言い淀んだ。
彼女がはっきり認識したのは、客のひとりが口にした「大蛇様がお望みだ」という言葉と、「邪魔をされた」という言葉だそうだ。
ものすごく嫌な予感がした。小十郎を追いかけてきたあの男が、小菊の旅籠に泊っているなんてことはないよな?
大森の町には日々大勢の旅人がやってくる。その多くが商人だが、小菊がいうように仕官を求める武士も多い。毎日数百を超えるよそ者の出入りがある町で、宿場通りには二十を超える旅籠がある。たまたま当たるなんてことはあるはずはない。
だが否定しようと思っても、嫌な予感こそ当たってしまうものだ。
余計なことを言った。小菊に不要な好奇心を抱かせてしまったかもしれない。
「小菊」
小十郎は、難しい顔をしている小菊の肩をぎゅっとつかんだ。
「大森の町に、他国の間者が紛れ込んでいるそうだ」
こてり、と首を傾けた小菊は、口も達者だし知恵も回るが、まだ幼い。彼女に中途半端な好奇心を抱かせるのは危険だった。
「よそ者と口をきくな。絶対に近づくな」
この子を巻き込むわけにはいかない。
だからこそ、あえて強い口調で言い聞かせた。
「何かを聞いても、わからないふりをするんだぞ」
「……それは小十郎様のお勤めにかかわること?」
「まさか。下っ端役人だぞ」
「だよね」
小菊は生意気な表情で、ふふん、と鼻を鳴らした。
多少腹は立ったものの、下手に深刻になられるよりはいい。小十郎はごまかすように苦笑して、ただの心配性の兄貴分の口調で念押しした。
「お父ぅとお母ぁにも言うておけ。気を付けるようにって」
「わかった」
小菊は汚れ物の着物を抱えたまま、小さく首を上下させた。