8-11 御座所曲輪奥8
暗すぎる部屋に光を入れた。襖を開けた瞬間に、神妙な顔をして控えていた宗一郎の側付きたちに、書くものを用意するようにと頼む。
宗一郎は特徴がある文字を書くので、それだけで誰の手かわかるだろう。
あとはその文を、確実にお父上に届ける者を探すだけだ。
根津様なら何とかしてくれるに違いないが、今回は念のために複数の経路を考えている。
小声で護衛の一人に頼んだのは、厨に向かうことだ。
福船屋はほぼ毎日、城にご用聞きに来ている。いつも昼過ぎなので、そろそろだ。
小十郎よりもかなり年上のその護衛は、心得たように頷いて、軽く頭を下げてその場を去った。
やがて文机と文を書く用意が整った。
「他にも紙はありませんか?」
小十郎が尋ねると、その男は少し考えるそぶりをして、一礼して席を立つ。
城主である宗一郎が使うのだからと、気を利かせていい紙をもってきてくれていたのだが、ひそかに届けるのなら、もっと普通の紙のほうがいい。
小十郎は改めて振り返り、こちらに背中を向けている宗一郎のほうを見る。
誰の声も聞こえない様子で俯いているから、お父上のことを回想しているのかもしれない。
邪魔をするのは申し訳ないが、ゆっくり待つ時間が惜しい。
「殿」
小十郎の呼びかけに、馬のしっぽのような髷がぴくりと揺れた。
「書くことはお決まりですか」
これが父親に向ける最期の文になるかもしれない。
それがわかっているからだろう、俯いたその横顔はつらそうにこわばっている。
馬を使えば二、三日で往復できる距離なので、ものすごく遠いというわけでもないのに、会いに行けないのが不憫だった。
小十郎が銀山から抜け出した時のように、手代に扮してお忍びで行くか? いや、宗一郎の存在感を隠すのは難しいだろう。
「同じ内容のものを二通書いてください。どちらかが確実にお父上のお手元に届くよう、手配します」
少し言葉を溜めてから、続ける。
「お二人にしかわからないことを、さりげなく織り交ぜて書いてください。たとえば、あの時の柿がうまかったとか、黒竹のたてがみの飾り紐の色とか」
黒竹というのは、宗一郎がお父上から贈られたという愛馬の名だ。
すぐに届けられた紙は、文官が日常使いにしている、いくらか黄ばんだ色のものだった。いささか格が足りない気もするが、だからこそ目立たなくていいだろう。
宗一郎は、てきぱきと整えられていく室内の様子を黙って見ていたが、やがて一度ぐっと床を見据えてから顔を上げた。
泣いてはいなかった。目は真っ赤だったが。
泣けばいいのにと言いそうになって、その言葉は飲み込んだ。
いつでも容易く涙腺が緩む小十郎と違って、宗一郎には立場があるのだから仕方がない。……いや、仮に小十郎が同じ立場だとしたら、傍目も気にせず号泣していそうだが。
励ますように頷きかけると、宗一郎はぐっと唇をへの字にゆがめてから、見ていてもわからない程度に小さく首を上下させた。
読めと言われたので読ませてもらったが、わりとありきたりな内容だった。
親子の間だけでわかる何かが込められているのだろう。
どうあっても文字がうまくならないという愚痴と、いつも叱られている畜生めという、どう考えてもふさわしくない語句もあったが、そこから書き手を推測するのは難しいだろう。
いかに文字に特徴があるといっても、まさかこれが病床の父に届けられるものだとは思うまい。
むしろ、故郷で心配している父への、「がんばっているから、こちらのことは心配するな」という近況報告のようなものに見えた。
「……読み取ってくれると思う」
若干不安そうに、だが確信を込めてそういう宗一郎を見て、小十郎は頷いた。
「すぐに手配します」
「誰が届けるのだ? 今の富田城に入るのは難しいはずだ」
「伝八に頼むつもりです」
「福船屋か」
宗一郎は少し考えこんでから、ちらりと小十郎を見た。
「あれは父上から預かっている男だ。確かに、文を預けるには適役だろう。だが……」
だが……なんだ? 嫌な予感がした。
「それでは、すぐに届けさせます。御免」
「小十郎」
呼び止められたので、即座に返した。
「絶対に嫌です!」
「……まだ何も言っておらぬではないか」
言われずともわかる。厄介ごとだ、間違いなく。
「まあ待て。同じものをもう一通書くのだろう」
小十郎は、浮かせかけていた尻を渋々下ろした。
「なぁ、小十郎」
宗一郎が筆を動かしながら話しかけてくる。聞かないわけにもいかないので、「はい」と無難に返しておく。
「お主は、本来なら大江家を継ぐはずではなかったのか?」
想像していたのとは全く違う質問をされた。
「……兄がおりますので」
用心しながら宗一郎を見つめ、言葉を選ぶ。
「どんな兄だ?」
これはどう答えるべきだ? これまでに宗一郎の兄弟について聞いたことはない。お父上の話は割と頻繁に聞くのだが。
それが即座に兄弟間の不仲を示すものではないはずだが、事情がありそうだとは感じていた。
「普通の兄です」
「普通?」
いったん顔を上げ、小十郎を見て笑った。
まだ目が赤いからか、どこか皮肉気に見えた。
「某よりは武芸事ができますが、得意とまでは言えません。文仕事は好みません。口下手ですが、実直です」
「……普通だな」
「はい」
特出したところのない、凡庸の極みのような兄だ。悪口ではない。なんでもある程度は器用にこなすといってもいい。
「大江家は代々そんなものです」
「そうか」
宗一郎は何故か、納得したように頷いた。
「うちとは大違いだ」
農民とそう変わらない貧乏武家と、出雲の雄だぞ。比べてどうする。卑下するつもりは全くないが、比較するのもおこがましい。
だが宗一郎は、むしろうらやまし気に見えた。
「父上と兄上に、伝えて欲しいことがある」
「某に言うのは間違いでは」
何故か唐突に、遺言でも伝えるような表情をしたので、あえて軽く流そうとした。
「ワシはこの地を離れぬ。命をとしても守る」
シン……と室内が静まり返った。これまでは静かに動く気配がしていたのに、誰もがその場で固まっていた。
「ご安心をと」
それは、近く戦乱に巻き込まれることを覚悟しての言葉か。尼子の家督に色気は出さないという意味か。こんなところで宣言されてもなぁ。
え? この言葉を伝えるって? ……誰が?