8-8 御座所曲輪奥5
「いや、助かった」
小十郎の前でつくづくという風に息を吐くのは根津様だ。
あの後すぐに駆け付けてくれたのは目代様で、無言のまま宗一郎を引きずって奥へ消えた。
その騒ぎに紛れて退席しようとした小十郎だが、うっかり与力頭の佐田に捕まって、こちらも根津様のもとに連れていかれた。
なんでだ。帰りたいんだけど。
「本当に恩に着る。そもそも、お主をここに呼んだのは礼を言うためだったのだ」
ああはい。礼なら受け取りましたから、もう帰ってもいいですよね? ……駄目? 駄目かぁ。
「お陰で、最小限の労力で片が付いた」
小十郎は顔を上げた。根津様がこちら見ているその目の色に、ぎゅっとみぞおちあたりがこわばる。
その労力というのは? 具体的にどの部分のことだ?
不意に、背筋に悪寒が走った。
そもそも本城家が隠し坑道を掘り始めた事でさえも、根津様の仕込みだったら?
いや、ないとは言えない。
瞬きもせずじっと見つめていると、根津様はやがて目じりに皺を寄せた。笑ったというよりも、満足そうな表情だ。
「やはり気づくか」
「あの……」
ふたりの声がかぶった。
「どこから仕掛けましたか」
しばらくの沈黙の末、おそるおそる尋ねてみた。自分でもわかるほど声が震えている。
根津様は、そうだとも違うも言わなかった。
その口角がきゅっと持ち上がるのを見て、やはりそうなのかと血の気が下がったが、結論根津様は首を横に振った。
「忠義の臣を嵌めようとはせぬ」
それはつまり、逆心のある本城を都合よく動かしたということだ。
結果大勢が死んだ。まわりまわって、太助の死もそれに起因する。
「釘を刺して正すではいけなかったのでしょうか」
避けられたはずだ。被害を出さずに済ませることが出来たはずだ。
だが同時に、これを根津様の責任だと言うには無理があるとも思っていた。
実際に裏切り行為を行ったのは、紛れもなく本城家なのだから。
「少し歩くか」
不意に根津様はそう言って、作業中の冊子を閉じ、脇に積んだ。
廊下に出ると、宗一郎ほどではないにせよ護衛が控えていた。
槍を持って庭先に立っているのは佐倉だ。初対面の時のように、随分と険しい表情をしている。
「腹が減った」
「すぐに何か用意させます」
廊下で行儀よく控えていた与力頭が、心得た様子で頭を下げる。
そういえば、小十郎も腹が減ってきた。
目が覚めた直後に白がゆをもらっただけだ。
根津様は用意された草履に足を突っ込み、庭に降りた。小十郎の草履も何故かそろえておいてある。館の玄関口で脱いだきりだったのに。怖い。
根津様は何も言わず、もたもたと草履をはく小十郎を待っていた。
せっかちそうに見えるが、意外とそうでもないのかもしれない。
小十郎が草履の鼻緒をきちんと直すのを見守ってから、根津様は小さく頷いて歩き始めた。
目的があるような歩き方だったが、たどり着いたのはだだっ広い空間に松の木が一本植わっているだけの場所だ。普段は武術の訓練でもしているのか、穴の開いた藁の的が無造作に置かれている。
根津様は松の木の幹に手を置いて、こちらを振り返った。
「山吹城は、ほぼ敵に囲まれていると思え」
「えっ」
「ほとんどの領主が、毛利と接触している」
どういう意味かと聞き返そうとしたのに、ダメ押しで決定的なことを言われた。
小十郎はぽかんと口を開け、いやいやと愛想笑いを浮かべながら首を横に振ったが、根津様の表情に冗談を言っている様子はない。
「福屋様もですか?」
「福屋もだ」
まさか! とは思わなかった。そういう可能性もあるとわかっていた。
だが実際にそうだと言われると、この先どうなってしまうのかと恐ろしくなる。
「……尼子家からの支援は?」
「しているだろう」
小十郎の、何とか絞り出した問いかけに、根津様はあたりまえのように頷いた。
宗一郎が婿入りする理由が、この地の掌握の為だということはわかっていたが、それでは根津様が連れている五百の兵もここに残ってくれるのだろうか。
たとえそうだとしても、周辺のすべてが敵に回った場合、山吹城が持ちこたえることができるとは思えない。
「五百で足りますか?」
「これ以上は難しい」
しかも、この兵は期間限定なのだそうだ。その間に、周辺の領主たちを再び傘下に納める必要があるらしい。
誰が? まさか宗一郎が?
先ほどの、癇癪を起した子供のような宗一郎の様子を思い出し、ひくりと頬が引きつった。
目代様と根津様は残ってくださるんだよな? な?
すがるように見つめると、根津様は困ったように苦笑して、首を横に振った。
「敵は毛利だけではなく、どこから攻め込んでくるかもわからない」
要するに、山吹城にかまけて、他を手薄にするわけにはいかないということだろう。
つまり宗一郎だけでこの城を守るのか? ……無理だ! 絶対に無理だ! いや、やればできるのかもしれないが、経験不足なのは目に見えている。
不安で顔から血の気が引いた。
山吹城が落ちるということは、大森の町も敵の手に渡るということだからだ。
「もちろん若をおひとりで置き去りにはせぬ」
根津様は、さも善良そうに表情をとりつくろって、真顔で頷いた。
「半年以内に、周辺を平らげる」
それを聞いた瞬間、小十郎は本能的に後ずさった。一歩ではなく数歩。
気づいてしまった。根津様がわざわざこんなところに連れてきて、こんな話をした意味に。
図らずも、尼子家のこの先の戦略を知ってしまった。
ヤバい。まずい。
これ、逃げられないヤツだ。