8-4 御座所曲輪奥
目代様の頭のてっぺんを見るなどと、この先何十年生きようと二度とあるとは思えない。
小十郎はその場で固まってしまったが、宗一郎殿? 様? いや心の中ぐらい呼び捨てで構わないだろう。ともあれデカい図体にそぐわない不貞腐れようだ。
尼子家の重臣である目代様の、頭を下げ続けるという無言の圧に、下っ端も下っ端の小十郎はどうすればいいのかわからなくて視線を泳がせた。
宗一郎をたしなめる意味なのはわかるが、その真ん中に放り込むのはやめてほしい。
障子の傍に座っていた根津様が、じっと見ていなければわからない程度に口角を上げた。
……楽しんでいないで、何とかしてくださいよ!
小十郎の必死さが伝わったのだろう、根津様は軽く肩をすくめた。
「いささか時間が押しております」
「そうそう、本城の犬どもがソワソワして待っておろう。……いや、犬と比べれば犬の方がまだ利口か」
あろうことか宗一郎は、根津様のその言葉に便乗して悪態をつきやがった。
つい! 思わず‼ 小十郎はわざとらしい咳ばらいをしてしまった。
宗一郎ははっとしてこちらを見て、申し訳なさそうに眉を垂らす。
「……すまぬ、お主の主家であったな」
いや小十郎の気持ちではなく、目代様のお気持ちを汲んで差し上げろよ!
真剣に諫めようとなさっておいでなのに、宗一郎はまったくわかっていない。
ようやく頭を上げた目代様は、底光りのする鋭い目つきで宗一郎を見上げた。
「今度ばかりは、肝が冷え申した」
思わずビクリと震えが走るほどの重低音。
ギラリと光る眼光は、まるでたった今人を切ってきたかのような禍々しさだ。
……怒ってる。めっちゃくちゃ怒ってる。
小十郎はもう辛抱たまらず、その場で両手をついて低頭した。
いやもう無理。絶対無理。
「おい、怖がっているじゃないか」
「若」
ぴしゃり、とたしなめられて、さすがの宗一郎も黙った。
「……もう、魔化しは、ききませぬぞ」
目代様は、一言一言区切るように言い放った。
「此度の縁談がご本意でないのはわかります。ですが危うく、すべてを巻き込み大きな被害がでるところでした」
本意じゃないのか。確かに、尼子家に比べると家格はかなり低い。そもそも仙ノ山が本城氏のものというわけでもないし。
尼子の殿様の目的は、対毛利だろう。確実に銀山を押さえるための縁談だったのだと思う。
もし本城家が寝返ったら……銀山は尼子の手から離れてしまうかもしれない。そうなる前に尼子の血筋に取り込もうとしたのだろう。
「若に万一のことがあれば、尼子は本城に攻め込むでしょう」
目代様が怒っているのも頷ける。
尼子の殿様が確実に、かつ穏便に収めようとした事態を無にするところだった。
武家の婚姻は、気に入る気に入らないで決めることなど許されないのだ。
しばらくの沈黙の末、宗一郎は長い溜息をついた。
ひとしきりの説教のあと、宗一郎は着替えのために連れていかれ、小十郎はその場に残された。
このあと、本城の殿を含め重臣らとの面会があるそうだ。
もう帰っていいかな? 駄目? ……駄目のようだ。
目の前には、身体の向きを変えただけで変わらず下座に座る目代様と、障子の前から動かない根津様。馬場に至っては、すたこらと宗一郎について行ってしまった。くそう。
手をついたたまま固まってしまった小十郎を、偏屈オヤジと評されて納得の目代様がジロジロ見てくる。
い、居心地悪っ。
小十郎を呼んだのは根津様なのだから、早く用件を言ってほしい。
わざとなのだろう沈黙の中、小十郎の頭の中は混乱状況だったが、こちらから声を発する度胸はなかった。
「……なるほどの」
体感で四半刻は経った。いや実際は数分なのだろう。ちらりと見た目代様は、部屋の中央で腕組みをして、何やら頷いている。
「それほどか?」
何が? 何がそれほど?
小十郎はびくびくしながら再び視線を下げたが、それに対する根津様の返答は、あろうことか含み笑いだった。
何笑ってるんだよ! とは、当然だが言えない。
「良い盾になりましょう」
「……ふむ」
何やらわかり合っている二人の様子に、違和感と嫌な予感しかわかない。
本当にもう帰ったら駄目?
「大江か。名は名門だが」
「少なくともここ数代は事もなく。余計な紐などもみあたりません。問題もなさそうです」
ねぇ、これって大江家のことだよな? この短時間で調べたのか?
「事もなく」って。そりゃあたいした武勲を上げたりもしていないけど!
それに「盾」? いやいやいや無理だから‼
「大江小十郎」
「は、はいっ」
口をついて「無理」と叫びそうになったところで、目代様に名を呼ばれた。
くらりと眩暈がする。今更ながらに、目代職に就かれているお方に氏素性を認識されている事実に肝が冷える。
本城家から離れても大江が潰されるようなことにはならないはずだが、尼子家は違う。潰されるどころか消し炭になって霧散しそうだ。
「優れた才覚を持つ者が若のお側にいるとわかれば、我が殿もご安心だろう」
殿? 殿って……尼子の殿様だろうな。
お願いだから、そこまで大江の名前を広げないでほしい。ますます仕官先に困るじゃないか。
これはもう、撤退一択だ。
今すぐこの場を去り、本城家にも尼子家にもかかわりのないところで細々生きていこう。なんとかなる……はずだ。
そう心に決めたところで、「ふふふ」と再び根津様が笑った。
「ほらね? 安易に言質を取らせないでしょう」
しまった。ここは素直に「ありがとうございます」とでも言っておくべきだった。
言質を取られたところで、なんということはない。力のない家門の若造ひとり、すぐに忘れてくれるだろう。
「だが肝が小さい」
うっ。
「身体も小さい」
うううっ。
「そうですね」
根津様はその通りとばかりに同意した。
その通りなんだけど! 否定できないけど! 面と向かって酷評されるとさすがにへこむぞ。
「ですが、三沢を退けたやり口はなかなかです。ただの臆病者には無理でしょう。それに……」
根津様が、懐から例の冊子を取り出してひらひらと振った。
「肝心なところをきちんと押さえている」
いや、三沢を退けたのは皆で相談して決めた事だ。その冊子も、持ち出したのは小菊だし、大元は安全に保管してあるはずだから。
どれも一人の力では成し得ないことだった。
ぶんぶんと首を左右に振る小十郎を見て、根津様は更に笑った。ぎょっとしたのは、目代様もひっそりと唇をほころばせていたことだ。
老獪な二人の笑みを目の当たりにして、その場で震え上がった。
まるで、「逃がさない」と言われたような気がした。