8-3 曲輪入口
難しい顔になった馬場が、さっと門の屋根の下に宗一郎を押し込んだ。
周囲にいる者たちは皆、何が起こったのかわからないというよりも、起こったことに対して気まずい雰囲気で目をそらしている。
そういえば宗一郎は、本城家に婿養子に入る予定だと聞いた。
大丈夫なのか?
下っ端役人の小十郎の去就などとはくらべものにならない。ここまで歓迎されていないとなると、話自体が流れるのではないか。
尼子からの肝いりの縁組がうまくいかないとなると、今回の件もあるから、ますます本城家の立場は悪くなるだろう。
いやまさか、尼子から離反して毛利につくつもりとか……。
「ぼんやりするな! 走るぞ」
馬場に肘で小突かれてはっとした。
周囲の空気が悪い。悪意のある視線が、隠しもせずこちらを見据えている。
「……ははは」
不意に、宗一郎が笑った。乾いた笑い声だ。
ぎょっとしたのは、小十郎だけではない。走って安全な場所まで向かおうとした馬場も、宗一郎に敵意を向けていた者たちも、皆が皆、喉をむき出すように哄笑する青年に注目している。
「よい度胸だな」
にっと笑ったその表情に、血の気を失せさせたのは馬場だ。
「宗一郎様」
ずっと「殿」付けで読んでいた馬場が、思わず漏らしたのだろうその敬称に、どれだけの者が気付いただろう。
「ここは某に免じてお目こぼしを」
とっさに、小十郎はそう声を張っていた。
じろりとこちらに視線を向けて、宗一郎が「ふん」と鼻を鳴らした。
「察しが悪い者が多いな」
小十郎は、敵意には敵意で返す宗一郎に冷や冷やしながら頭を下げた。
「お主が頭を下げる謂れはなかろう。……まあよい」
宗一郎は不敵な表情で周囲を睨みつけてから、気にする価値もないとばかりに表情を変えた。
「松田がお主に会ってみたいと言うておる。詮議が始まる前に話を聞かせてやってくれ」
松田? ……松田?? そ、それって目代様のことではないだろうな。
「……いえ、某ごときには過ぎたることです」
「そうか?」
「根津様がお呼びと伺いました」
首をひねる宗一郎に向かって、小十郎は何度も頷いた。頷きすぎて視界がぶれるほどだ。
松田というのが目代様ではないという前提でそう言うと、何故か宗一郎が「得たり」という風に頷いた。
「そうよな。偏屈ジジイよりもあの男のほうが話がわかる」
偏屈ジジイだと言われた松田様には申し訳ないが、更に大きく首を上下させた。きっとたぶん目代様ではないと信じたい。
「父上は根津の事をえらく買っておってな……」
宗一郎は、誰が聞いていようが構わないという風な明朗な口調で話しながら、ずんずんと先に進む。小十郎の背中を無遠慮に押すものだから、さりげなく距離を置くこともできない。
表面上は張り付いた笑みを浮かべながらも、小十郎の背中は汗だくだった。
すがるように見た馬場は、我関せずと明後日の方向を見ているし、途中から合流した宗一郎の護衛達は、逆に興味津々で小十郎を見てくる。
曲輪の中にはいくつかの建屋があるが、ひと際立派で大きな館の前には見覚えのある男がいた。
「勝手に出歩かれては困ります」
宗一郎に対して厳しい口調でそう言ったのは、商家の離れですれ違った男だ。腕を組み、仁王立ちになっていて、見るからに激怒の表情だ。
「田崎」
宗一郎はバツが悪そうに視線を泳がせ、ぐいと小十郎を前に押した。
田崎とやらはますます顔をしかめて、ため息をつく。
「そうやって、都合が悪くなると誰かに押し付けるのはいい加減おやめになっては」
「うっ」
「若がそんな風だから、いつまでたっても……」
「わかった! わかったからその話はあとで」
押し出されて真正面から向き合う状態だったが、田崎は小十郎に怒りを向けてくることはなく、逆に丁寧に頭を下げてきた。
「迷惑をかけて本当に申し訳ない」
その時は、田崎があまりにも丁寧に謝罪してくる理由がわからなかった。
あとから聞いた話だ。
そもそも小十郎が奉行所内で浮いて、裏切り者であるかのように見られていたのは、宗一郎あるいは田崎がそう仕向けたからだそうだ。
言い訳も一応聞いた。
明らかに無関係の新人を、悪の巣窟に放り込んで染めるわけには行かないと、妙な責任感に駆られたのだとか。
本城家の家臣たちには等しく何らかの処分を言い渡すつもりで乗り込んできていたのなら、新人を同列に並べるのは気の毒と思ったのかもしれない。
だがそこに、さも小十郎が重要人物であるかのような工作は必要なかったはずだ。
言い訳はきれいごとで、実際は宗一郎から注意をそらせるためにしたのだろう。
悪意がないならいいとは言えない。
それによって起こった諸々の出来事、特に太助が死に、神屋が重傷を負った件については、到底許すことはできない。
ほぼ単身で鉱山に潜入していた事もそうだが、行動力と思い込みが強い宗一郎の気質は、えてして多くを巻き込み、洒落にならない状況を量産しているとか。
もちろん、意図した事ではないのだろう。
身にやましい事をしていた本城家により大きな非がある。
とはいえ、とはいえだ。
「申し訳ない」の一言で済ませるには、あまりにも大きな傷になってしまった。
案内されたのはその館の奥まった部屋だった。
小十郎のような下級武士が、この規模の館の奥まで連れてこられることは滅多にない。
嫌な予感を覚えつつ、田崎に案内されるままに廊下を進んだ。
「足を洗ってから」とか、「厠に行きたい」とか、なんとか抗ってみようかとも思ったが、相変わらず宗一郎は小十郎の背中を押してくるし、馬場は更にその後ろから空気のように気配を殺してついてくる。
二人の態度からも、嫌な予感はますます高まり、胃がシクシクと痛んだ。
その部屋の前で田崎が端正な所作で膝を折る。
小十郎も馬場もそれにならうが、宗一郎だけは不貞腐れたように口をとがらせて立っている。
何らかの口上を言う間もなく、内側から障子が開いた。
根津様だ。
おそらくきっと、助けを求める視線の意味は察してくれたはずだが、根津様は小十郎ではなく立ったままの宗一郎を見上げて、ちろりと妙な笑みを浮かべた。
「お入りください」
本城家に政略で婿入りするということは、宗一郎が「それなりの身分」なのはわかっていた。つまりは、尼子家の分家や重臣の子という立場なのだろうと。
だが、根津様が一歩引いた先で、目代様ご本人が下座で頭を下げているのを見れば、「それどころではない」とわかる。
たぶん、尼子家当主の実子。目代様が下座で頭を下げているところを見ると、嫡出男子なのではないか。
なんでそんな人が、単身で潜入してくるんだよ!
小十郎はこみあげてくる苦情を無理やりに飲み込んだ。
尼子家最後の当主、尼子義久の実弟、倫久です