8-1 大森の町 観世音寺
目を覚ました時、どこにいるのかわからなかった。
見慣れない天井。見慣れない内装。
「……?」
確実に言えるのは、そこは住まいの長屋でも、太助の旅籠でも、実家でもないということだ。
もし一人きりなら不安を感じたに違いないが、顔を横に向けると同じように寝かされている者たちがいた。
右隣に寝ている男はまだ意識がないようだ。誰だれだったかと思い出そうとして、名前が出てこない。
左隣に首を巡らせると、こちらは鼾をかいて眠っていた。足軽組頭の幸田だ。
そこで初めて、この場所が怪我人を集めた病室なのだろうと察した。
「おお、目を覚ましたか」
できるならこのまま二度寝したい。
鼾をかいている幸田と同じように、もう一度眠りの中に戻ろうとしたところで、聞き覚えのある声を掛けられた。
馬場だった。
声がした方をまじまじと見た瞬間に後悔したのは、馬場が顔をしかめながら身支度を整えようとしていたからだ。
ここはもう安全なようだし、ゆっくり休めばいいのに、馬場はきちんと袴をはき、自力で髭を当たっていた。腕を怪我しているのでやりにくそうだ。
「ちょうどよい、お主も支度いたせ」
え、嫌なんですけど。
本気でそう思いながら顔をしかめると、馬場は「わかる」という風な顔をしたが、見逃してはくれなかった。
「根津様に連れてくるよう言われておるのだ」
「……まだ具合が」
「お主の怪我がどの程度かは、すでにご存じだ」
いや、それでも今の今まで気絶していたのだし……。小十郎はそう言って抵抗しようとしたが、結局言葉を飲み込んだ。
確かにあちこち痛むが、動けないわけではないからだ。
溜息をこらえて身体を起こすと、馬場は再び髭を剃るのに悪戦苦闘し始めた。
小十郎はまだ髭は生えていないが……袴はどこだ?
いつのまにか、血みどろだった着物から小袖に着替えさせられていた。誂えたように大きさが丁度だし、柄にも覚えがあるので、小十郎自身の着物だろう。
「医者が言うには、熱が出ておらぬのなら問題ないそうだ」
髭を剃るのをあきらめた馬場がそう言って、盥を脇にずらせた。
小十郎は、傷を負った腕をさすりながら顔をしかめた。触るとさすがに痛い。
「少し熱がある気がします」
だが高熱ではない。馬場はちらりとこちらを見てから笑った。
「素直に従っておいた方がいいぞ」
……ああ、うん。そんな気はしていた。
小十郎たちが収容されていたのは、大森の町中にある観世音寺だ。一度か二度は訪れたことがあったが、建屋を出るまではそうと気づかなかった。
はっと息を飲んだのは、読経の音がはっきりと聞き取れたからだ。本堂のほうから、線香のにおいも漂ってくる。
果たしてそれが、誰に対しての弔いかはわからない。だがしかし、今回確実に出たであろう戦死者の存在を思い出してしまった。
個別の恨み憎しみがあったわけではない。互いに上役の命により戦っただけだ。
わかってはいたことだが、厳しい世の中だ。
「お主、あとで小菊によう礼を言うておけよ」
同じように本堂のほうを見ていた馬場が、ふと思い出したように言った。
例の冊子を持たせ関所から逃した小菊は、大森の町まで走って戻ってから、宗一郎に事の次第を伝えた。
しかもそこでは、冊子のことは匂わせもしなかったそうだ。
馬場たちが戻ってきてから、根津様の手に直接渡るようにしてくれた。
相変わらずしっかりした子だ。
さらには、小袖や袴など、小十郎の身の回りの品を気をまわして揃えてくれたそうだ。
太助の通夜や葬儀の支度もあるだろうに。
もう一度、本堂のほうを見た。
太助がやはり助からなかったと知ったのは、つい先ほどだ。すぐにも駆け付けたいところだが、根津様が呼んでいる。
ここ何日かで大勢が死んだので、太助の弔いは少し後になるのだそうだ。
それまでに片をつけたい。
小十郎は、腰に差した大小に触れた。血まみれだった打ち刀の手入れをしてくれたのは春だそうだ。人を切った刀は、軽く血を拭う程度では錆びてしまう。太助が生きていればその役目を買って出ただろうと、春が気を使ってくれた。
気絶していた小十郎が何故そのことを知っているかというと、小菊が殊勝な顔をして詫びてきたからだ。
武家でもない、しかも女が触れて申し訳ないと頭を下げられた。
確かに父から受け継いだ刀だが、そんな御大層な歴史があるものではないのに。
いまから山吹城に向かうという大事。血の臭いのしないきちんとした身なりを保てるのは、春と小菊のお陰だ。礼を言いこそすれ、文句などあろうはずもない。
無意識のうちに大小の位置をただし、襟を整える。
小十郎は、本城家に暇を告げる覚悟を決めていた。
こんなことがあったのだ、母も兄も理解してくれる。次の仕官先は、根津様に相談しようと思っている。なんとかなるはずだ。……たぶん。
歩き始めた馬場の後に続いた。
山吹城まで四半刻ほど歩く。その間の危険はないと思うが、絶対ではない。
銀山の兵は派兵中。尼子の兵も行軍中。確かに三沢軍は撃退できたが、まだ気は抜けない。
観世音寺を出て、眼下に広がる町並みを見回した。普段は大勢が行きかう通りに人影はない。
喧噪は聞こえず、静まり返った町に強めの風が吹く。雲の切れ間から差し込む日差しは強い。雲の影が、板葺きの屋根に段々に伝わっていく。
そこは間違いなく大森の町で、幼いころからよく知る風景のはずなのに、町人や旅人の姿が見えないだけで、まるで違う場所のように見えた。