7-2 鉱山防衛2
腹部にかかる重みが半減した。目を見開く。砂埃にやられて涙の幕が張った目では、土砂に飲まれて行った男の姿は見えない。どこだ?
男の身体とつながっている紐は、まだ木の幹に絡まっていた。
ぼろぼろと生理的な涙が頬を伝う。目を凝らした先で、革足袋の足が見えた……気がした。
とっさに木の幹に絡まった紐の端を掴む。ずり、と手の中で重く滑った。もし手のひらに布を巻いていなければ、ひどい怪我になっていたはずだ。
目の前を、山の斜面がそのままずり落ちていくように、何もかもを巻き込んで落ちていく。
土砂に埋まるのも危険だが、ものすごい勢いで落ちてくる岩や木々の方が命に直結するだろう。
鉱夫たちの手足をつぶしたのはこれか。いくら屈強な男たちでも、この暴力的な流れに抗うことはできまい。
あっという間に目の前を通り過ぎた土砂は、文字通り何もかもを丸飲みにし、押しつぶした。
予定では、土砂の流れる方向は逆側の崖のはずだった。
想定外の何かが起こったのか、意図してかはわからないが、一歩間違えば小十郎も馬場も巻き込まれていただろう。
砂埃で目を開けていられない。あたりは赤茶色の砂埃が充満し、歯を食いしばった咥内でジャリと不快な音がする。
何かを考える余裕などなく、生き延びるために必死だった。
両手がふさがっているので口を押えることが出来ず、たちまち鼻の奥や喉が痛み始める。
長いのか短いのかわからない時間が過ぎる。
始まったのも唐突なら、終わるのも唐突だった。
静まり返った山に、ささやかな風の音と、鳥のさえずりが戻ってくる。
どれぐらい茫然としていただろうか。カラカラでジャリジャリな咥内に耐えかねて、激しい咳が出た。まずい。
山道にいる誰かに聞かれては困ると、慌てて腕で塞いだ。
ひとしきり咳き込んでから、錆び臭い臭いに気づいて手のひらを見下ろすと、伝八に替えてもらった布は血まみれで、当て布の形状を保っていなかった。
また咳き込まないように用心しながら、息を吐く。
「怪我は?」
そう問われて初めて、馬場がしっかりと小十郎の帯を捕まえてくれていたことに気づいた。
そうだ、流されて行った奴はどうなった。
無残なことになっているのではと、八割がた覚悟を決めながら大きくえぐれた形状の斜面を見ると、かつて小十郎とつながっていた紐はまだ木の幹に絡まったままで、その先には何かが不安定にぶら下がっていた。
死、あるいは瀕死にしか見えず、正視に耐えない状態だ。
結論を言えば、男はまだ生きていた。見るからにひどい状態で両手両足が折れているが。
力を合わせてなんとか引き上げた時には意識がなく、ここでは治療もできないので背負って移動することになった。……もちろん馬場が。
ずっと怒声が続いている。
小十郎は地崩れが起きた場所を大きく迂回して、奉行所に戻る道を進んでいた。
少し遠くなった声にほっとしながら、ちらりと山道のほうへ目を向ける。
ひどい地崩れだった。敵にどの程度の被害が出たのかはわからないので、過度な期待は禁物だが、足止めぐらいにはなったのではないか。
小十郎たちが大回りをして奉行所にたどり着いたとき、まだ三沢の兵は到達していなかった。
報告によると、土砂は丁度隊列の中央になだれ込んだらしい。もう少し後方だったら、鉄砲隊を壊滅できたし、総大将も始末できたかもしれないが……贅沢は言っていられない。
かなりの被害を与えたし、しばらくは進軍を止めることに成功したので、上出来と考えるべきだろう。
だが、ただでさえ少ない尼子側も、動けない者がじりじりと増えている。三沢が退いてくれないようなら、奉行所からの撤退も視野に入れる必要があった。
だがその前に……。
実はもう一か所。やろうと思えば敵兵を嵌めることが出来る場所がある。
この人数でできる精いっぱいの時間稼ぎだ。
負傷者を奉行所から一番遠い建物に移した。根津様が「要るもの」として寄り分けた冊子は葛籠に入れて別の場所に隠し、かわりに炭の入れ物を奉行所まで運んだ。
そう、小十郎が考えたのは、三沢の兵を奉行所内に誘導することだ。
とにかく時間が稼げればいい。
せめてあと半刻。それぐらいあったら、仕事が早い根津様なら増援を送ってくれるはずだ。
三沢の兵は三百。根津様が連れていた兵が退き返してくれれば、ものの数ではない。
「……来たぞ」
与力頭が緊張した声で言う。
小十郎は目を見開き、奉行所の開け放たれた長屋門の向こうに見える軍勢を見据えた。
「二百、いや百五十ほどだ」
馬場がすこし息を荒げながら囁いた。
対するこちらは十数人なので、真正面から戦って勝ち目がないのは変わらないが、当初三百いた兵が半分近くにまで減っているというのは、士気の面からみてもいい知らせだ。
ざっざっと物々しい兵らが近づいてくる。
その足取りがゆっくりなのは、山道での事があって用心しているからだろう。
惜しかった。あと百人味方の兵が射たら、あの瞬間に襲撃を掛けていた。そうすれば間違いなく三沢を引かせることができたのに。
……たらればを言っても仕方がない。
集中するんだ。おそらくこの中で一番トロくてドン臭いのは小十郎だ。皆の足を引っ張るわけにはいかない。
開け放たれた門越しに、明確に三沢方がこちらを認識したのがわかった。
互いに正対し、しばらく沈黙が続く。
与力頭の佐田が、さっと手を振った。ばさりと風をはらむ音がして、尼子家の旗指物が翻った。
平四つ目結。
濃紺地に白抜きのその家紋に、三沢の兵たちは露骨に怯んだ。